第1話 『電車男』
陸の新学期初日の気分は最悪だった。当然のことだ。自身のこれ以上ないプラベートな個人情報が全世界に晒されて翌朝御機嫌でいられる高校生などまずいないだろう。
眉間に皺を寄せながら久方ぶりに制服に袖を通す。少し窮屈に感じるがこれが自身の成長によるものなのか全裸に慣れたことによる違和感からくるものなのかが陸にはわからない。
昨夜のうちに必要なものを詰めておいた通学カバンを手に下げ1階のダイニングまで行くとすでに朝食は用意されていた。
「おはよう……」
「おはよう」
母――恵美と簡単に挨拶を交わしテーブルに着く。中学生の妹はまだ起きてこない。陸が高校に進学してから通学時間の都合上平日は家族別々に朝食を食べるのが日課となった。春休みが終わりいつもの日常がまた回り始めるのかと陸は感慨が湧くのだがその表情には陰りがあった。
「忘れてないと思うけど夕方春日さんが家にいらっしゃるからね」
「わ、わかってるよ」
淡々と切り出した恵美とは対照的に悩みの種を掘り下げられた陸の顔は曇る。
「まさか高校1年で彼女が出来なかったからって引っ越し間もない女の子を全裸でナンパするとは思わなかったわ。でも雄の孔雀なんて自身のシンボルである羽を目一杯見せつけて雌を誘惑するし、生殖器を女の子に見せつけるって生物学的にはすごく合理的なセックスアピールよね」
「ちっげーーーーーよ!!あれは事故だ!!不幸な事故だったんだよ!!」
飄々とした口調の恵美に対して声を大にして否定する陸。昨日大声を出したためか少し声が枯れている。
昨晩のあれは陸の言う通り不幸な事故だったと言える。陸の部屋の向かいの一室は2年ほど空室でありカーテンを閉める習慣が陸から消失していたこと、引っ越してきたばかりでサイズが合わず麗那がカーテンをかけることを断念したこと、小説のノルマを書き上げたタイミングと麗那の自撮りのタイミングが重なるなどいくつかの因子が結びついたことによってもたらされた事態だった。
麗那が例のツイートを消すまでに一度も「リツイート」や「いいね」などをされた様子は無かったらしく当事者間のみで完結する問題に落ち着いたのは不幸中の幸いだった。昨晩の顛末の詳細は両家で共有されており恵美も当然不幸な事故だったことはわかっている。
「麗那ちゃんだっけ?まるでお人形さんみたいな可愛らしい子だったわね」
たしかにと陸は思った。Twitterに上げた画像からでも美少女然とした雰囲気は放っていた。そして窓と窓との距離があったとは言え実際に見た彼女の容姿は飛びぬけた可愛さがあった。恵美はお人形と言ったが昨夜のコスプレ姿の麗那はアニメのキャラクターがそのまま現実の世界に出てきたかのようだと思った。
「母さん……やめてくれ。帰ってきたあとのことを思うと気が重くなるから」
晒された直後は完全に我を忘れていたが、少し間を置くと状況を正確に認識し自分が一体何をしでかしてしまったのかを陸は痛感したていた。急な出来事であり第三者に画像を保存または拡散される前に一刻も早く麗那に申し立てをしなくてはならなかったのは事実だ。だが服を着る一分の猶予くらいはあったというのも事実だ。突如として全裸で男性器をどうにかしてくれと少女に叫ぶ様子は傍から見たら犯罪者だっただろう。というより訴えられていれば犯罪者だったろう。
「マジでどんな顔して今日あの子と顔を合わせればいいんだろうね……」
「笑えばいいんじゃない?」
突き放すような適当な返事が母親から返ってきたのを聞くと軽く溜息をつき陸は食事を胃の中へと掻き込んだ。
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姿見を見ながら一見すると寝癖と区別が付かない跳ねた髪を自分なりに整えると陸は玄関から出た。そして家の門をくぐろうとするところだった。
「「あ」」
目の前に陸の悩みの種たる亜麻色の髪の美少女と目があった。
冷や汗が背中を伝う。そして昨夜の醜態を思い出し羞恥で頬が熱く真っ赤に染まっていくのを陸は感じた。
「お、おはようございます」
動揺しながらもその場でできる精一杯の愛想笑いを浮かべ声を絞り出す。
「お、お、お、おはようございます!」
一瞬呆気にとられていたものの麗那は相手が陸だと認めたようですぐに挨拶を返してくれた。
肌が白いからだろうか。麗那は顔どころか耳や首まで赤く染まっている。端正な顔立ちとは正反対に不格好なうわずった声だった。目に見えて緊張と焦りが感じられた。
陸は麗那の制服に目を向けると当たり前だが昨日のコスプレ用の制服ではなかった。黒を基調としたセーラー服で白のタイを胸に付けている。
自身の高校の制服ではない、陸とは別の学校の生徒であるという事実に陸は内心胸を撫で下ろす。もしかすると自分と同じ高校、同じ学年、同じクラスで一年を共にする羽目になったらどうしようかという一抹の不安を昨夜から抱いていたのだがどうやらその可能性は消えたようだ。
「き、昨日はごめん!!じゃ、じゃあ……!!」
気まずい相手だ。そしてそれは彼女も同じだろう――居心地の悪い場から逃げ出す言いわけを心の中で唱えて会話を切り出そうとする麗那を振り切るように早歩きでバス亭へと向かった――のだがバス亭に着くとすぐに麗那が追いつき目が合った陸に軽い会釈をし列にそわそわと後ろに並ぶ。
このバス亭は近所の住民が通勤通学で最寄り駅まで経由するためによく利用されるものだ。少し考えれば麗那が同じバス停を利用する可能性を思いつくものだが「少し」の余裕も陸には無かった。
下手な別れ方をしてしまったため会話の糸口が見つからず、かといってこのまま無言でやり過ごすのは如何なものかと眉間に皺を寄せて遅ればせながら後ろの少女と話すことの是非について頭を悩ませているとすぐにバスが着た。
これ幸いと乗りこむと車内は混んでいたものの座れないというほどのものではなかった。空いている最後尾座席に座る。
そんな中麗那も乗車してきたのが見えた。後ろから続々と乗りこんでくる乗客に半ば押されるような形でバスの後部へとどんどん追いやられあれよあれよと言う内に最後尾の陸の隣の席まで押し出されてきた。片手を口に当て空いている座席と陸を交互に見ていたものの他の乗客の責めるような視線と前から詰めて座ってくださいというアナウンスの圧力に負けたようで陸の隣に座ってしまった。
なぜそうなる――陸の心の叫びだ。よりにもよってなぜ自身の真横に座られてしまうのか。
完全に話しかけるタイミングを逸してしまった陸は麗那が横に座っていることに気付いていない体でいくことに決めた。
視線を横に座る麗那に決して向けないようにしながらスマホを取り出し小説を書こうとする。だが隣に座る少女の髪の毛先が頬に触れるくすぐったさや仄かに香る匂いなどの刺激に刻一刻と意識を支配されていく一方だった。時折視界の端から見えるスカートから伸びる白い足に何度も目を向けそうになり結局一文字も執筆活動が進むことはなかった。
陸が煩悩と20分ほど格闘している間にバスが終点の駅前に着きぞろぞろと乗客が立ち上がる。隣に座る麗那も立ち上がるが少し間を置き陸は立ち上がりバスを降りた。
麗那がバスターミナルから電車口までエスカレーターで上がっていくのを確認すると陸はエスカレターター横の階段を姿勢を低くして駆け上がり改札口を通り駅のホームへと下りた。ちょうど電車が着たところで朝のラッシュで人が多く満員電車と言っても差し支えが無い。ドアが開き降車する客が全員降りたのを見てから陸は車内に入る。今度こそ麗那とはち合わせることはないだろう――だがその考えは甘かった。麗那が駆け込んでくるのが見え駅員に押し込まれる形で乗車してきた。しかも乗車口近くに立っていた陸と向き合う形になり車内の人の圧力に押され身体が密着する。お互いの顔は文字通り目と鼻の先であり陸の姿を認めると麗那が身を硬くしたのが相手の身体から直接陸に伝わってきた。
吐いた息が相手の顔にかかる距離だ。
睫毛を一本一本認識できる距離だ。
心臓の鼓動が伝わる距離だ。
そして昨日出会ったばかりの隣人同士には近すぎる距離だ……
ただ向かいに越してきたご近所さんならばここまで相手を意識してしまうことはなかった。昨晩のやり取りさえなければここまで翻弄されることなどなかった。
血色のいい桃色の唇が相対的に青白く見えてしまうほど麗那の頬は紅に染まっている。こちらを上目遣いで見上げる目はほのかに潤み琥珀色の瞳も恥じらいの感情を湛えている。
「ヤバい!ヤバい!ヤバい……!!これはヤバい!!」と陸の脳内に警鐘が鳴り響く。高校の最寄り駅まで数駅ありその間に位置を入れ替えることは出来るだろう。だが麗那から醸し出される可憐でありながら妖艶な空気に当てられて陸は思考が完全にショートする寸前だった。セクハラ行動を先日麗那に取ってしまった陸はこのままではあらぬ誤解を与えてしまうのではという懸念も相まって陸はパニック状態となっていた。
不意にもぞもぞと動く気配が伝わってくる。麗那が手足を動かしているようだがどうにも様子がおかしい。最初は陸から離れようとしているのかと思ったがそうではないようだ。密着しているため視線のみを下ろす。するとスカートの中に伸びてくる手を麗那が必死で抑えようとするのがわかった。伸びる手を辿ると肥えた中年男性が下衆た笑いを浮かべていた。陸の頭に一気に血が巡る。
「なにやってくれてんだオッサン!!人の女に何やってくれてんだコラ!!チンポついてんのかテメエ!?」
片手で痴漢の腕を乱暴に掴み、もう片方の腕で麗那を抱き寄せると車両にいる全員に響き渡るドスの利いた低い声で陸は続けざま叫ぶ。
「あぁん!?他人様の女じゃなくてテメェの嫁なり風俗嬢なりで処理しろ!!テメェのチンポくらいテメェでなんとかしろやーーーーーー!!」
痴漢は顔を引きつらせひっと甲高い声を上げたあと周囲の人間に一斉に取り押さえられた。
一方その被害者だった麗那は目を見開き痴漢以上に困惑に満ちた表情となっていた。
「え?え?え?」
次の駅で陸と麗那、そして痴漢とその現場を証言する役目を引き受けた青年は電車を降りた。
「ほんとすまない!!マジですまない!!ほんとのほんとにすまない!!」
最初は両手を顔の前に合わせて、それでも謝罪の意が足りないと思って手を合わせたまま前傾して、更にそれでも足りないと思い大きく前傾して謝罪の言葉を陸は口にした。最終的にまるで葬儀で焼香をするかのような姿勢になってしまっていた。
「そ、そんな!いいんです!大丈夫です!むしろ助けて下さってありがとうございました!」
陸の突然の謝罪に圧倒されながらもなんとか礼を言う麗那。
「彼女って言ったのはな違うんだよ!!そんなこと全然思ってないからね!!この路線痴漢多いからあそこで彼氏だって言っときゃこれから他の痴漢も寄り付かないと思って機転利かせたんだ!!Twitterで全裸晒したんだから詫びとして俺と付き合えとかそんな意味じゃないからね!!」
言い分けするかのように捲し立ててさきほどの行動の意図を陸は説明する。
「な、なるほど!そういうことだったんですね!とっさにあそこでそんなこと思いつくなんてすごいです!!」
一瞬呆気に取られてしまうものの理解できたようで麗那は顔を綻ばせる。
そういったやり取りをしている内に係員がすぐに向かってきている。
「取り調べやなんやかんやで学校は遅刻だろうな。連絡しとくか」
胸ポケットから生徒手帳を取り出すと麗那はあっと声を上げる。
「もしかして羅紗高校の生徒さん!?私そこに転入するんですよ!!」
陸の持つ手帳の表紙を指さす。
「んん!?」
思わぬ発言に今度は陸が驚嘆してしまう。
「いや、待って!おかしくない!?だってそれうちの制服じゃないし!」
「これは前の高校の制服です。急に決まったので暫くはこの制服で過ごすことになってるんです」
陸の当たり前の疑問に咲き誇る花を思わせる笑顔で答える麗那。
「マ、マジかよ……」
自身の見立てが見当違いだったことに唖然とし、痴漢撃退のためとはいえ彼女宣言してしまったのは失敗だったと陸は思った。通学路が同じともなれば接点は思いの外多くなるだろう。ただのご近所さんよりも難しい関係でこれから煩わしくなるなと考えながら手帳に書いてある学校の電話番号をスマホに打ち込む。
クラスと出席番号、氏名を述べたあと痴漢取り押さえの事情聴取で遅刻する旨を伝えた。
不意に横から声が上がる。
「すごい偶然!!枝光君2年3組なんですね!私もなんですよ!」
「え?」
気の抜けた声を上げるだけで陸は精一杯だった。




