F06・愚痴
料理の前に、店主の娘が運んできたビールを彼女はまず私のグラスに注ぎ、私がビール瓶を受け取って彼女のグラスに注いだ。そして、然したる意味などもなく、酒を飲む前の儀礼というか儀式のように「乾杯」と言ってコップを打ち鳴らし、私は一口だけ飲んだ。しかし、彼女はグラスのビールを一気に空けた。
「ふぁー、美味しいわ」
彼女はフッと息を漏らして頬をほんのり赤らめた。私は、そんな彼女の顔を伏せ目で見ていた。彼女に気付かれないように。
でも、彼女の視線が微妙に泳いでいるのを、私は見逃さなかった。彼女もまた、私の様子をうかがっていたようだ。
「一人で飲んでも淋しいですから」
そう言って彼女は手酌で自分のグラスにビールを注いだ。
「部屋に帰っても一人ですから」
何かに言い訳をするように、彼女は似たような文言を口にした。
しかし私は、彼女の言葉に対してどう反応すれば良いのかが分からず、一口飲んだビールのグラスをもう一度に当ててゴクリとまた一口だけ飲み下したのだった。
私が黙っていようともビールをチビチビと飲んでいてもそれに関係なく、彼女は話を続けた。
「毎日、仕事、仕事でちょっとうんざり」
私はそんな彼女の様子から目が離せなかった。
「寒々しい部屋に帰って『ただいま』って言うのは、心が折れちゃいそう」
彼女が、二杯目のビールを飲み干して顔を上げ、その後グラスをテーブルに置こうとした時、彼女のその視線が私の彼女に注いでいる視線とぶつかった。その時、彼女は照れ臭そうに下を向いた。
「あら、私ったら」
そして彼女は、静かにグラスをテーブルの上に置いた。
「ごめんなさい。なんか、愚痴っちゃって」
私はグラスを抱えたまま、おずおずと答えた。
「いいえ、そんなことは……」
彼女は、残り少なくなったビール瓶を持ち、私のグラスに注いでくれた。
「あら、もうなくなっちゃいましたね」
彼女が追加の注文をしようとしたので、私はそれを制止した。
「私ならこれで十分ですよ」
でも、彼女は気が納まらなかったようだ。
「そうですか。でも、私はまだ飲みたいので」
彼女は、店主の娘を呼んでビールを一本、追加で注文した。
店主の娘が持ってきたビール瓶を私が受け取り、彼女のグラスに注いだ。
彼女は、泡のある黄色いグラスを眺めながらボソリと話した。
「昨日、男と別れたんです」
私は、ビールを一口飲んだ。
彼女は、グラスを眺めたままだった。
「三ヶ月前に部屋から彼が消えたんです」
私は驚きの余り、持っていたグラスをテーブルに置くことが出来なくなった。
「そしたら、昨日、フフッ…」
彼女は髪をかき上げて、宙を見つめた。
「彼の父親が会社に訊ねてきたんです。そしたら『手切れ金だ』と言って小切手と……」
彼女はグラスのビールを一口飲んでから、ゆっくりと話した。
「今住んでいる部屋の権利書を渡されたんです。そして、誓約書を書かされて……」
彼女の頬に白い筋が光っていた。
「彼、某機械製造会社の御曹司で、どっかのお嬢様と結婚するんです。それは、薄々気付いていたんです」
彼女は、ビールのグラスを大きな音を立てて置いた。
「でも、こんなやり方、女として悔しくて……」
彼女は息を押し殺して、静かに泣いていた。
その時、店主の娘がチャーハンと小盛りのラーメン、そして二皿の麻婆豆腐を運んできた。しかし、いつもとかなり様子が違っていることを悟ると、店主の娘はそそくさと料理を置いて引っ込んでいった。
私は、ビール瓶を持って彼女に差し出した。
「飲みましょう、そういう時は」
彼女は少ししゃくり上げたあと、真っ赤になった目をこちらへ向けた。そして、ハンカチで目頭を押さえながら、無理して私に笑顔を作った。
「ごめんなさい。取り乱しちゃって」
そう言って彼女はグラスを差し出した。私は彼女のグラスにビールをなみなみと注いだ。そして、私は自分のグラスにもビールをなみなみと注いだ。
「さぁもう一度、乾杯しましょう!」
私は妙に晴れやかな笑顔を彼女に差し向けて、ビールのグラスを前に突き出す。
彼女は泣き笑いの顔を私に向けて、なみなみと注がれたビールのグラスを前に突き出す。
「乾杯!」
二人で声を揃えて二度目の乾杯して、今度は二人とも一気にグラスのビールを空けたのだった。
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