L12・『コンフィズリー』
次の週末、私は図書館に足を運ぶのをお昼からにした。
訳があってというより訳を作ったのだが、それは午前中に近所のケーキ屋に立ち寄ったからだ。美味しいと評判のパテシェがいる店『コンフィズリー(Confiserie)』で、クッキーの詰め合わせを買ったのだ。
しかし、これは私の考えではない。母親が私に入れ知恵をしてくれたのだ。
「もしも、その方にご馳走になっているのだったら、次に逢う時にはお返しくらいはちゃんと持って行きなさいよね」と。
月曜日の夕食の時、母親は私とは目を合わさないようにして食事をしながら、そうつぶやいた。そして、夕食の後片付けをする前に、美味しいと評判のこの店の場所を書いた地図と、そこで何を買えばいいかを書いたメモをそっと私に渡してくれたのだ。
(そうか、こういうことをすればいいのか)
私はメモを握りしめながら、母親にちょっとだけ感謝をした。
こんなことは思いもよらなかった。
私は何も考えていなかった。
というより、こんなことを考える術すらも持っていなかった。
そう、私は恋愛の何たるかを全く知らかったのだ。
何をどうすればよいかなんて、それすらも思い付かなかった。
ただ、有川と一緒に居ると楽しい。
有川の顔を見ると心がウキウキする。
そして、有川を見つめるとドキドキする。
そんなことを思っているだけだ。
そうなのだ。
私は決して、有川知子に対して悪い感情は持っている訳ではない。
むしろ好意的だと言えるのだ。
そんな他人事のような言い方はおかしい。
それを好きだとか言うのだと思う。
それが愛しているとか言うのだと思う。
その時はそこまで判断できなかった。
今にして思えば「好きだった」のだろう。
あの頃の私は、週末の図書館に行くのが楽しみで楽しみで仕方がなかった。
しかし、それはライフワークである物理の研究のことでないのは間違いなかった。
週末の図書館で彼女に逢える。
そう思うだけでウィークディの仕事が頑張れたのだから。
評判のパテシェがいる店『コンフィズリー』は、午前十一時にしか開かないので、その日、自宅を出たのは十時三十分を回った頃だった。
いつもなら、九時十分には図書館の席に着いているのに、今日は自宅の自室の机の前でイライラしながら、時間が過ぎてゆくのをじっと待っていた。暇だからといつもは図書館で開く研究の資料を自分の机の上に広げて思考実験を始めてみるが、全く手に付かない。物理の思考実験がいつの間にか、お店でお菓子を買うシミュレーションになってしまうのだ。何度、思い直しても思考実験を始めてみてもシミュレーションになってしまうのだ。
私は諦めて、ただボーっと宙を見て、時間が過ぎるのを待ったのだった。
午前十時四十五分。既にコンフィズリーの店先には列が出来ていた。私は少し驚いたが、人気店だから、さもあらんと思い直し、慌てて最後尾に並んだ。十一時の開店と同時に何とか店の中に入った。ショーケースの前でキャッキャという女子高生やウーンウーンと悩む若い女性や主婦に圧倒されていると、店員がメモ書きを持っている私に声を掛けてきた。
「お決まりでしたら、ご注文をお聞きしますよ」
それは私にとって渡りに船だった。私は、その店員にメモを渡して全てをお願いをした。
「分かりました。ご用意致しますのでしばらくお待ちくださいませ」
数分、十数分、いや二十分くらい待っただろうか、店員はやっと紙袋を抱えレシートを持って私の所に来た。私はレシート通りの代金を払い、さっさとお店を出た。既に時刻は十一時三十分を過ぎていた。特に慌てなくてもいいのに、私はなぜか足早に図書館に向っていた。
図書館に着いて閲覧室に入る。いつもの私の席は空いていたが、その隣の席はもう誰かが座っていた。その隣の席の後姿は、私が最近もっとも記憶している後姿だった。
「こんにちは。今日は早いですね」
私はその後姿に声を掛けた。その後姿は、私の声に振り返った。
その後姿とは、有川知子のことである。
有川は髪を耳に掛けながら、私にあいさつをした。
「津村さん、こんにちは。今日はゆっくりなんですね」
私は、いつもの自分の席に座ってから、有川の方を向いて応えた。
「えぇ、ちょっと。後で渡したいものがあるので……」
私がそう言うと、有川は私の持っていた『コンフィズリー』の紙袋を指差して言った。
「これ、ですか?」
私は、自分の無造作な行動に恥ずかしさを感じた。私は顔が熱くなるのをこれほど実感したことはない。そして、額から滴る汗と背中や腋の下にじんわりと汗ばむ感じを初めて知った。嘘が付けない自分に呆れつつ、私の正直な気持ちを有川に伝えた。
「えぇ、そうです。その通りです。実は、先日のご馳走のお礼にと思って買ってきました。お口に合えばいいのですが」
正直に喋りすぎる自分に耳まで熱くなって顔が更に赤くなるのを感じたが、有川はそんな私に笑顔を返してくれた。
「わー、とっても嬉しいです。私、ここのお菓子は全部、大好きなんですぅ」
私はホッと胸を撫で下ろした。それと同時に、私はもう「コンフィズリー」の紙袋を彼女に手渡してしまった。それで、何か大事な任務を終えてスッキリとした気分になった。
紙袋を有川に渡す時に、紙袋の取っ手のところで有川の手が私の手に触れた。
有川の、細くて白い指の温かくて柔らかい感触。
私はその時、胸がキュンとなった。
彼女は笑顔を更に増して私に話し掛けてきた。
「今日、これを一緒に食べませんか?」
私はキョトンとした。
「私、また夕食を用意しちゃいました」
有川は、舌をピッと出して照れながらそう言った。
だが、私は長い時間、ビックリした表情のままだったようだ。
そんな私を見て、有川は悲しそうな表情をした。
そして、有川はすまなさそうにこう言った。
「ご迷惑でしたか? それなら、そうと言ってくださっていいんですよ」
今の私に、断る理由など無い。
断る理由を探す方が無理な相談と言うものだ。
いやむしろ、そんな理由なんか探したくない気分なのだ。
「いえいえ、とんでもない。そんなことはありません。喜んでお邪魔します」
私が引きつりながらの笑顔を有川に向けると、有川の表情には途端に笑顔が戻った。
「ありがとうございます。嬉しいです」
私と有川は、いつもなら閉館時間まで居るのだが、今日はそれよりも早い、午後四時に図書館を出た。そして、先週と同じように彼女のマンションへと向った。
だが、先週と違うところが二点ほどある。
一つ目は、私が買った「コンフィズリー」の紙袋を有川が嬉しそうに、そして大事にそうに持っていること。
二つ目は、私と有川が一緒に歩く、その間の距離が「ゼロ」になったこと。要するに、有川と私は腕を組んでマンションまで歩いて行ったということだった。
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