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永遠のアポストロフィS  作者: 美憂
雪と湿地

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雪

2027年12月

めずらしく湿地に雪が降った。


静かに

大きな雪が、ゆっくりと落ちてくる。


逆らうように

私は、空に

ゆっくりと昇る。


あぁ

自由な鳥はいつも、こんな風に私を見ていたんだ。


小さくなってゆく窓から

横たわる私が見える。

幸せに満ちた私の顔が。

永遠を手に入れた幸せで満ちている。


もう、誰も邪魔できない。

はる。

君は、永遠のループをここで描きなさい。

湿地は、ところどころを黒く残しながら雪に埋もれていく。

白と黒と、汚れた白の世界に隠れるように、その家はある。


かすかな音を立てて、雪は草色の屋根を覆っていく。


私の宝箱。


湿地の水は、冬になっても完全には凍らない。

黒い水の上を、薄い膜のような氷が揺れている。

風が吹くたび、枯れた草が擦れ合って、乾いた息のような音を立てる。


鳥は鳴かない。

雪の日の鳥は、静かだ。


名前さえ失った「私」が、自分の身体と、家の中に残されたはるを見る。


もうすぐ、G線上のアリアが家中に静かに響きわたるだろう。

はるは横たわったベッドの中で、それを待っている。


既に目を覚ましているはるは、この音色で起き上がる。

正確には、12小節目を聴きながらゆっくりと起き上がる。

古い再生機器とタイマーによるG線上のアリアは、最後まで流れない。

十七小節目で、少しだけ音が飛ぶ。

はるはその場所を嫌っていて、いつも眉を寄せる。

でも、違うものでは、はるに安らかな朝は訪れない。

古い再生機器は、はるの穏やかなはじまりを繰り返してくれる。


はるは、一歩一歩確認するようにゆっくり、つま先から歩み

そして、私のベッドルームのドアを


こん。

こん。

こん。


とたたく。たたいた箇所は、たたいた数だけ撫でる。

私の返事は待たず私の横たわるベッドの床に膝をつく。


 はる。


 呼んでも、声は届かない。


「おはよお」


はるは、動かなくなった私に、いつものように言う。


私に顔を近づける。

返事をしない私を、じっと見つめる。


表情はない。


頬に唇をつける。


少し冷えた私の肌に、はるの吐息だけが白く浮かぶ。


しばらくすると、何事もなかったように立ち上がり、リビングに向かう。


 そうだね、はる。

 窓を開けよう。


暖房をつけない冬の家には、湿った木の匂いが残っている。

ミルクと古い紙の匂い。

わずかに、水の匂い。

そして、朽ちてゆく私の匂い。


はるは、ブラインドを左側から引き上げる。

途中で止めたりはしない。

最後まで、一度で引き上げる。


窓には、夜の結露がまだ残っている。


はるは左の人差し指で、それをなぞる。


つーっと。


透明な線ができる。

雫が垂れる。


鍵のところまで辿り着くと、その指で鍵を三回叩く。


とん。

とん。

とん。


そのあとで鍵を開け、左側の窓だけを開ける。


冷たい湿地の空気が、部屋に流れ込む。

正気だ。

生きるものの独特の力を部屋に流し込む。


カーテンが少しだけ揺れる。


「おはよお」


はるは空を見上げて言う。


まるで、私が見えているみたいに。


 おはよう、はる。

 雪だよ。


雪がはるの額に舞い落ちる。


湿地の上では、細かな虫たちの群れが揺れている。


雪の日でも、虫たちは消えない。

黒いかたまりになって、水の上を漂っている。


はるは、その前にしゃがみ込む。


「くぅーん」


喉を鳴らすように言う。


虫の羽音が、はるにはあいさつに聞こえるらしい。


子どもの頃から、ずっとそうだった。


はるは裸足のまま庭に出る。


雪は、まだ薄い。


濡れた草の上に、はるの足跡が残る。


「くぅーん」


もう一度、虫たちに言う。


虫たちは、かたまりの形をゆっくり変えながら、湿地の奥へ流れていく。


はるは、それを見送る。


雪の積もりきらない草原を、じっと見ている。


その目には、何が映っているのだろう。


遠くで、水鳥が一羽だけ鳴く。


その声に混じるように、


「あー!」


突然、はるが声を上げる。


足が汚れたのだ。


湿った泥が、白い足裏についている。


「あー! あー!」


はるは癇癪を起こしながら、テラスの蛇口をひねる。


細い水が流れる。


冬の水は冷たい。


はるは両足を擦り合わせながら、水で泥を落としていく。


白い足首を、水が流れていく。


「うー!」


今度は冷たさが気に入らないらしい。


肩を揺らしながら、低く唸る。


それでも、泥が落ちるまでやめない。

擦られた両足は、やがて桃色に染まる。

それを見て、安心して部屋に戻る。


そして、はるは椅子に座って濡れた足を拭くと、テーブルに対して椅子をまっすぐに戻す。

少しでも角度がずれると、気になるらしい。

気が済むまで椅子に向き合う。


いつまで経っても変わらない。

はるの冬は、いつも同じだ。


テラスに落ちた水は、薄く凍ることもなく、木目に沿ってゆっくり流れていく。

はるの濡れた足跡が、そこに重なる。


開いた窓から入り込んだ冷たい空気が、静かな部屋をゆっくり満たしていく。

G線上のアリアは、いつの間にか終わっていた。


かすかな軋みで気づく、静寂。


雪はまだ降っている。

湿地の黒だけが、なかなか白くならない。

こうして、湿地の家の朝が始まる。

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