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純喫茶ぎふまふ奇譚  作者: 勢良希雄
18/19

1 初恋キャンプのじゃがいもカレー

 七月一日月曜日。

 梅雨の晴れ間、昼下がりのホームは蒸し暑い。この光景に既視感。

 午前中に病院に行き、午後は職場に診断書と休職願を提出した。実家の母さんにそのことを伝えるため、岡山駅から新幹線に乗り、広島駅で呉線に乗り換える。

 電車が動き出すと、車窓には広島市東部の市街地。年に何度かは帰るので、懐かしいというほどではないが、明日からしばらく職場に行かなくて済むと思うと、切なくも穏やかに映る。

 約十五分、四つ目の矢野駅に電車は着いた。十人ほどの乗客が降りる。それに混ざって階段を上がり、橋上の改札を抜ける。今度は階段を下りてバス停に行く。ニュータウン経由が待っていた。普通、実家方向に行くには、それに乗るが、母さんに何と切り出そうかと思うと、億劫になる。日帰りのつもりだったが、ひと晩泊ってもよい。明日も明後日も休みなのだ。

 …ちょっと懐かしい街を歩いてみよう。

 駅から右の坂道を上がればニュータウンだが、左側、オールドタウン方向に向かった。中学、高校はサッカー部に所属していて、部活帰りに、駅横のコンビニで買い食いをするのが楽しみだった。


 極楽橋という名前の、小さな橋に差し掛かる。

 黄色い蝶が目前を横切った。睡眠不足のせいか、強いめまいと動悸がして、生汗が噴き出す。

 蝉時雨が遠く近く、ほかの音をかき消す。陽炎が景色を歪める。欄干にすがって、立ち止まり、目を閉じた。

「お兄ちゃん!」

 その声に振り返ると、弟がいた。

「あ、武瑠」

「どしたん? 気分でも悪いん」

 川の上を涼しい風が吹き抜け、生気を取り戻した。

「うん。大丈夫。落ち着いた」

 その横にはなぜか、高校のサッカー部のマネージャーだった矢吹七海がいる。

「七海…」

「久しぶり、山翔君」

「なんで武瑠と七海?」

「言いにくかったんじゃけど、会うた限りは言うしかないね」

「え、何?」

「私たち、結婚します」

「全然、聞いとらんけど、マジの話?」

「マジよ。もちろん、母さんには言うとるよ。お兄ちゃんには言いにくいなあ思うて」

 七海は高校時代、僕と付き合っていた。

「そうなん、おめでとう」

「なんなん、その反応」

「そうよ、昔から山翔君、ズレとるんじゃけん」

「ごめん」

「ここで言うようなことでもないけど、お兄ちゃんがナナちゃんを放置して、岡山に行ったりするけんよ」

「武瑠君、やめて。変な感じになるけん」

「うん。でも、ちょっと言わせて」

「ああ、ごめん。聞くよ」

「自然消滅とか都合よく思うとるかもしれんけど、ナナちゃんがどれだけ泣いたか、知らんじゃろ。ナナちゃんはお兄ちゃんのこと、ぶちぶち好きじゃったんじゃけえね」

「…」

「武瑠君…」

「もう一つだけ。お兄ちゃんがナナちゃんと付き合いよった頃、お兄ちゃんにめっちゃ片思いをしとる人がおったこと知らんじゃろ。口止めされとったけん、言わんかったけど」

「誰?」

「ほら、全然、分かっとらんし。その人、もうおらんのじゃけん。その話は止めよ」

「お兄ちゃん、酷いことしとるんよ」

「…」

「実は僕はその人のことが大好きじゃった。助けたかった…」

 武瑠の責めに、自分が恥ずかしくなった。

 武瑠も少し落ち着いたようで、自分で話題を変えた。

「ところで、お兄ちゃんは、なんで広島に帰っとるん?」

「しばらく、休むことにしたんよ」

 七海は僕の顔をじっと見て言う。

「なんか、疲れてるみたいよ。メンタル?」

「うん、まあ」

「仕事きついん?」

「いや、僕が弱いんよ」

「そういう時は無理せんのんよ」

 武瑠が横目で見ながら、口を尖らせる。

「ナナちゃん。なんかちょっと妬けるんじゃけど」

「え? ああ、ごめんごめん。そんなんじゃないけん。許して」

 …話題を変えなければ。

「そういえば、武瑠も大阪に転勤になったんじゃろ?」

「うん。占いママさんのタロットで、今日の三時に婚姻届を出すように言われて、会社休ませてもろうた。届けを出したらそのまま大阪に帰る」

「いきなり別居?」

「そうね。私も広島で仕事しとるけえね」

「週末には広島に帰ろう思うけど」

「じゃあ、また話す機会はあるんじゃね」

「うん。電車が来るけん、今日はもう行くわ」

「うん」

「お兄ちゃん、さっきはごめん」

「いや、また教えてくれ」

「まあ、それで全部よ」

 二人は「じゃあね」と言って、手をつないで駅の方に向かった。

 …幸せそうだな。


 極楽橋を渡り、旧市街地に入る。昔は商店街だったという中浜通り。マンションの駐車場の続きに僕が通っていた塾があった。塾長は作家になり、塾は辞めたと聞いている。その建物が残っていた。昭和レトロな三階建て、蔦が壁を這い上がり、迫力を増している。以前は一、二階が教室で、三階に塾長が住んでいた。

 前まで行くと、一階が喫茶店になっている。木の看板に「純喫茶ぎふまふ」と刻まれていた。

 …喫茶店? ぎふまふって何?


 カランコロン。

 カウベルの音がしてドアが開いた。白い猫と一緒に、エプロンをした女性が出てきた。日本人離れした美人は、ちょっとびっくりした顔をして言った。

「いらっしゃいませ。どうぞ、お入りください」

 店の外のプランターの植物に水を遣り始めた。

 …この光景。

 既視感に見舞われる。

「ごめんなさい。すぐに終わります」

 言いながら、笑顔をくれた。綺麗な人だ。見惚れそうになったが、変に思われてはいけないので、店内に入った。座らないうちに女性も店に戻った。

「こんにちは、こんにちは。初めてのお客様ですね。お好きな席にどうぞ」

 カウンターの席に座ると、水とメニューが差し出された。

「お食事ですか」

 …そういえば、ちゃんと昼飯を食べていない。

 メニューを見ようとすると…。

「あの、一緒にカレー食べません?」

 …半端じゃないデジャビュー。しかし、この先どうなるかは分からない。

「あ、じゃあ、カレー、お願いします」

「かしこまりました」

 準備をしながら、チラチラとこちらを見ている。

「あの」

「え?」

「あの、伊藤山翔さんですよね」

「あ、はい」

「やっぱり」

「僕をご存じなんですか」

「あ、ごめんなさい。林田美沙子です。と言っても覚えてないかな」

「ごめんなさい。どこかで?」

「山翔さん、ここが塾だったころの塾生だったでしょ」

「あ、はい。その頃?」

 既視感は続いているが、この既視感は違和感も伴っている。

「カレーが出来上がりました。その話はまたあとで」

「どうぞ召し上がれ」

 二人、カウンターに並んで食べ始めた。

「このカレー、絶品ですね」

「ありがとうございます。スパイスの調合から私がやってるんですよ」

「へえ、調合からとは本格的。何が入ってるんですか」

「カレーの基本は、ガラムマサラ、鬱金(うこん)、唐辛子。これに、黒胡椒、クミン、カルダモン、コリアンダー、ローリエみたいなスパイスを混ぜてパウダーを作る。オニオン、ガーリック、人参、リンゴをすり下ろして蜂蜜を混ぜながら、さっきのパウダーと一緒に加熱してペーストにするんです」

 カレー講座になった。そして、その後、意味ありげに付け足した。

「あと、秘密の粉」

「秘密の粉って媚薬的な?」

「山翔さん、面白い。でも、近いかもです。大蘇鉄の実の粉末」

「大蘇鉄?」

「漢方にもあるんですけど、ルーツはこの町らしいんです」

「え、矢野がルーツなんですか」

「不思議でしょ。常連の郷土史会長さんに聞いたんです。十六世紀、毛利元就が矢野城を攻め落としたときの戦利品のリストの中にあるんですって。それを服用すると、幻覚を見るらしいんです」

「それ、やばい植物じゃないですか」

「大丈夫。研究の結果、ナツメヤシのドライフルーツだということが分かったそうです。今ではデーツという名前で、中東から輸入されていてお好みソースに入っています。最近はスーパーで市販もされてます。なんで、十六世紀のこの町にあったかは全くの謎らしいです」

「そうなんですか」

「でもね、幻覚を見るっていうのは、全く(うそ)でもないみたいなんです」

「え? そうなんですか」

 食べ終わる。店主は塾の話に戻した。

「私もここの塾出身で、その後、講師もやったわ。弟さんを教えたわよ」

「え? もしかして僕より年上ということになります?」

「たぶん、三つ上」

「ということは…三十!」

「こら、大きな声で言うな。そうだよ」

 二人で笑った。

「で、どこで僕を?」

「山翔さんが中学生のとき、塾のキャンプがあったでしょ」

「はい。覚えてます」

「あのとき、カレーを注いでた女子高生ですよ」

「ええ! と言われてもごめんなさい」

「ほら、覚えとらんじゃないですか」

「すみません」

「あのキャンプを開催した塾長がこの店のオーナーよ」

「塾を止めて、小説家になったと聞いてましたが」

「小説だけじゃ食べていけないですからね」

「なるほど」

「じゃあ、塾長が入院してるのもご存知ないですね」

「どこか悪いんですか」

「ずっと意識が戻らんのですよ」

「え、そんなに?」

「はい。それで意識がなくなるちょっと前に、書きかけの小説があるみたいなことを言うとったんです」

「絶筆?」

「まだ、生きてますけどね。もう書けないと思うので、そういうことになってしまうんですかね」

 その時、五十代くらいと思われる女性が店に入ってきた。常連らしい。

「おばちゃま、いらっしゃい。この方、分かる?」

 女性は僕の顔をうかがった。

「あ、ヤマショウ君?」

「あ、そう呼ばれていました」

「私、君島三佐子の叔母。言うても分からんかね」

「あ、はい。ごめんなさい」

「三佐子、あなたにお熱を上げとったんよ。ヤマショウが好きで好きで堪らんかったんじゃけん」

「え、そんな子がいたんですか」

 …さっき、武瑠が言っていた子のことだな。

「うん。死んだんじゃけどね」

 …え。七海が「もうおらん」と言っていたのはそういう意味か。

「おばちゃま! それはやめよ」

 女店主が制した。

「あ、ごめんごめん」

 おばちゃまは苦笑いをして謝った。

 急に眠くなってきた。

「眠くて(たま)らなくなってきたんですけど」

 女店主は僕の額に手を当てて、体温を感じ取る。

「あら、大変、熱がある。何かのアレルギーかね。救急車呼ぼうか」

「いや、そこまでは。ただやたらと眠いんです。ちょっと、ここで眠らせてください」

「店で寝るわけにもいかんじゃろ」

 そもそも、僕が休職する原因というのが、妄想性障害を伴う精神疾患。よく眠れないうえに、眠くなる薬も飲んでいる。

「じゃあ、ちょっと、三階の私の部屋に上がろ。ちょっと横になっときんちゃい」

 いつの間にか広島弁になっている。

「ありがとうございます」

 肩を貸してもらって、階段を上がり、ベッドに倒れ込んだ。女性の香りがする。

 …あ、なんか、やっぱ、まずくないですか。

 そう言おうとしたが、気を失うように、眠ってしまった。


 深山の滝キャンプ場、僕は中学生。塾主催のキャンプに参加している。

 男子は飯盒(はんごう)でご飯を炊き、女子はカレーを作っている。それぞれ、OB・OGの高校生が手伝いに来ている。

 カレーリーダーはぽっちゃりメガネのお姉さん。もう一人、美人のお姉さんがいる。

 男子たちがみんなで「美人のお姉さんの方にカレーをついでもらいたい」みたいなことを言っている。

 …そんなこと聞こえたら、もう一人のお姉さんが傷つくだろ。

 僕はプラスチックのお皿にご飯をついで、メガネのお姉さんの前に立った。

「あの、カレー、お願いします」

「リンダについでもらわんでええん? 私に気を遣ってくれた? ありがと」

 と言って、カレーをかけてくれた。

「あの、一緒に食べませんか」

「ふふ。年上の女をナンパするんじゃね」

 美人のお姉さんの周りには男子が数人群がっている。僕はメガネのお姉さんと二人。

 僕のお腹が鳴った。

「お腹空いた? 違うね、お腹の調子悪いんじゃろ。魔法の粉をかけてあげる」

「何?」

「カレーに混ぜちゃえば大丈夫。食べてごらんよ」

「ぶちうま! これ、お姉さんが作ったん?」

「そうよ。ありがとう」

「何か特別な作り方があるん?」

「そんなのないよ。あ、おうちのカレーにはじゃがいもを入っとる?」

「いや、入ってないと思う」

「じゃあ、それかも。じゃがいもがごろごろ入っとるじゃろ」

「ほんまじゃ」

「じゃがいもは入れない方が美味しいっていうけど、私は入れた方が好き」

「おかわり!」

「うれしい」

 二人は笑い合った。お姉さんの八重歯が光る。


 暗くなって、塾長が肝試し大会をすると言い出した。

 くじ引きで決まった僕のペアは、ぽっちゃりメガネのお姉さん。

「あ、また山翔君と一緒じゃ。お腹の調子は?」

「すっかり治ったよ。ありがと」

「良かった。でも、肝試しなんか気が進まない。私、ビビリじゃけん、よろしくね」

 出発するとすぐに、僕のティーシャツの肩の布を掴んでいる。

「襟が伸びるう」

「あ、ごめん」

 手を離したときに、大人たちの仕掛けた火の玉が目の前を通過した。

「キャー」

 お姉さんは、足を挫いてしまった。

「おんぶしようか」

「ごめん、棄権しよ」

「棄権はしたくないよ」

「うー、じゃあ、恥ずかしいけどおんぶして」

 お姉さんを背中に乗せた。

「重いい」

「デブでごめんね」

「あ、ごめんなさい。そんな意味じゃないんよ」

「はは。山翔君、優しいんじゃね」

 しばらく、歩いて行くと、森の暗闇から、恐竜が飛び出してきた。

 お姉さんは、僕の首にしがみついてきた。

「グエー、苦しい。あれ、プロジェクションマッピングよ。完全に透けとる」

 お姉さんは泣きじゃくっていた。


 場面が変わった。

 尾崎神社境内。時代劇のコスプレをしたメンバーが集まっている。

 塾長が忍者の恰好をした女性に詫びを言っている。

「サンザ、ごめんよ。お前と山翔をアゲハとサヌにすると言うたのに、安くタレントを使えるみたいな話に乗ってしもうて」

「いいですよ。気にしてないですから」

「三佐子が山翔のこと、好きじゃったなんか知らんかったんよ」

 …三佐子? 僕のこと好きって、この人知らないけど。

「え、え、そんなこと誰が?」

「リンダよ。五年前のキャンプでペアになってから、好きになったんじゃとね」

 …五年前のキャンプで僕とペアになってたぽっちゃりメガネのお姉さんが、あの綺麗な女忍者ということ? 全然違うじゃん。

「それから、山翔のサッカー大会をこっそり応援に行っとったと。綺麗になるために、ダイエットして、歯を矯正したと…」

 …サッカーの応援に来てくれてたの?

「リンダのばか…」

「確かに、三佐子、めちゃめちゃ綺麗になったよ。セクハラって言うなよ。ここだけの話、今日はリンダより、アゲハになっとるタレントさんより綺麗じゃと思う」

「塾長、やめてください」

 …ホント、綺麗な人だな。言ってくれれば良かったのに。

「この償いは、必ずする」

「償いって…」

「三佐子とリンダは絶対に幸せになってもらわんといけん。二人のお母さんと約束したんじゃ」


 場面が変わった。

 カランコロン。喫茶店のドアが開く

「三佐子! どしたん、病院抜け出してきたん?」

 そう叫んでいるのは、この店の女店主だ。転がり込んだのは、ひどく憔悴した様子の女性。

 …三佐子、ということは、あの時の綺麗な女忍者? 見る影もなく痩せている。

「リンダ…」

 …リンダ? キャンプの時の美人のお姉さんで、コスプレイベントでも名前が出てたな。あ、それがこの店の女店主なんだ。

「救急車呼ぶね」

「やめて、病院に戻される。あそこで死にたくない」

「バカじゃね、何を言いよるん? じゃあ、一旦、おばちゃまを呼ぶよ」

「いや。リンダといたい…二人でいたい」

「しょうがない子じゃね。分かった。ちょっと三階で横になろう」

 リンダさんは三佐子さんを背負って、階段を上がる。

「軽いねえ。食べてないんじゃろ。待っとって、何か作るけん」

「ありがと。ありがと」

 三佐子さんは消え入るような声で、礼を言った。

 リンダさんは急いで、豆乳で炊いたオートミールをつくり、三階に持って来た。

 三佐子さんは口をつけた。

「ありがとう」

「また、薬飲んでないんじゃろ、薬剤師のくせに」

「あんな薬じゃ治らんけん、もうええんよ」

「良くないわ。手首、傷だらけじゃないか。自分を諦めるな!」

「叱ってくれて、ありがとう」

「もう、お礼はええけん。落ち着いたら、病院行こう」

「いや。リンダといたい」

「分かったけん。ちょっと眠りんちゃい。横におってあげるけん」

「ありがとう」

「お礼はええって。二人のミサコは二人で一人なんじゃけんね」

「死ぬ前に会いたい…」

「じゃけ、死ぬとか言わんの」

「…」

「誰に会いたいん?」

「山翔君…」

「どんだけ好きなん?」

「死ぬほど好き。死んでも好き…」

「じゃけ、死ぬって言うなって! 身を引いてくれた武瑠君のためにも、元気になって、今度こそ、山翔君に告白しようや」

「そうじゃね…」

「そうよ…」

「山翔君が好き…」

 三佐子さんは微笑んだ。リンダさんに添い寝してもらい、眠りはじめた。

 再び目を開けることはなかった。


 目が覚めた。単なる夢なのか、妄想なのか、幻覚なのか…。

 辺りを見回すと、喫茶店の三階。女店主リンダさんのベッドの上。

 …さっきの夢で三佐子さんが死んだ場所じゃないか。

 女店主が階下から上がってきた。

「目、覚めた? 気分はどんな?」

「ああ、良くなりました。リンダさん」

「どうして、私がリンダだと?」

「夢を見ていました。三佐子さんとヤマショウの物語。リンダさんも出てきました」

「そう。三佐子、山翔君に思いを伝えたんじゃね」

「なんか、辛いです」

「少しは痛みを感じてやって。ずっとずっとあなたに、切ない切ない片思いをしとったんよ」

「言ってくれていれば…」

「そうよね。じれったくて、私、何回もあなたに伝えようとしたんよ。でも、絶対にダメって」

 リンダさんは、親友の狂おしい純真が昇華したと感じたようだ。

「三佐子、やっと届いたね」

 しばらく、沈黙。

「塾長の最後の小説のことを思い出して、こないだ、パソコンを開けてみたら、あったんよ」

「原稿ですか?」

「うん。『純喫茶ぎふまふ奇譚』いうタイトル」

「奇譚…」

「ホラーかと思うたんじゃけど、『償い』いう副題が付いとった。読んでみたら、ラブストーリーなんよ。ある男が、偶然入った喫茶店の女店主に恋をする物語。なんか、女店主は私じゃなくて、三佐子なんじゃけどね」

 既視感。というか、その物語の中身を知っているような気がした。思い出せるわけではないのだが、「ある男」は間違いなく自分であると感じた。

「未完じゃし、なんで『償い』なんかは読んでも分からんかった。三佐子の霊前に素敵な恋の物語を贈ろうとしたんかね」


 リンダさんの足元に白い猫がやってきた。リンダさんは猫を抱きあげて、抱きしめた。

 そして、切なげな表情で言う。

「山翔君」

「はい」

 ベッドに上がって、息がかかるほど顔を近づけて言う。涙がボロボロとこぼれている。

「純情な女子が、あなたに一生懸命、恋をしていたということを、どうか、どうか、覚えておいてやって」

 目の周りをぐちゃぐちゃに濡らして訴える。

「はい…はい…」

 僕はベッドに正座して、拳を太ももに突き、ただただ頷いた。湧いてくる切なさと涙を堪えようとするが、両方とも溢れ出た。

「三佐子さん。はい、忘れません…」

 …『三佐子さん』。自分はその名前を、何度も叫んだような気がする。

 リンダさんは猫を横に置き、手のひらで胸をとんとんと二回叩く。

「三佐子、ここにおるよ」

 三佐子さんは自分の胸にいるという意味なのだろうか。

 そして、僕の額をそこに抱き寄せる。

 その抱擁に身を任せた。

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