366 七福芋のソフトクリーム
炎天下、蝉時雨。
目を開けると、僕は区役所の植え込みの石垣に座っていた。
汗でシャツが濡れている。
向こうから女性が手を振りながら走ってくる。電話ボックスから出てきたようだ。
「山翔さーん」
…三佐子さんだ。
「ごめんごめん。私、自分の本籍、間違えとったじゃろ。今、叔母さんに電話で聞いた」
「スマホは?」
「家に忘れた」
「あ、そうじゃったん」
「今頃、なかなか公衆電話ないけん」
「そうじゃね。急に消えたけんビックリしたよ。区役所の人に、戸籍が見当たらんとか言われて、三佐子さんは幽霊なんじゃないかと思うた」
「ごめんごめん、幽霊じゃなくて、魔女よ。さ、勇者様、婚姻届を書き直しに行きましょ」
窓口で三佐子さんと僕の戸籍謄本を出してもらう。
…ちゃんと聞いて、最初からそうすれば良かったんだ。
三佐子さんは、叔母さん夫婦の養子になっていると思っていたらしいが、亡くなったお母さんの籍にそのまま残っていたようだ。お母さんが筆頭者で、三佐子さんの名前、父の欄は空欄になっている。
僕も自分の戸籍を初めて見た。父さんを筆頭に、母さん、僕、そして、何事もなかったかのように弟の名前。
二枚の謄本を婚姻届に付けて提出、受理してもらった。
区役所を出ると、三佐子さんが言う。
「今夜は、お店で結婚パーティじゃけんね。リンダが、全部やってくれる言うとったけど、ちょっと心配」
「もう、任せちゃえば。母さんもグエンさんたちも手伝ってくれとるし。今夜は僕らが主役、アゲハとサヌなんじゃけん」
グエンさんたち四人は、九月に帰国するらしい。その前に、恩返しをしたいと言ってくれている。
「そか。じゃあ、ソフトクリーム食べて帰ろ。国道沿いのスイーツ屋さんで、あのサツマイモのソフトクリームが新発売になったんよ」
「へえ。美味しそう」
「言うてなかったっけ? お母さんからも聞いてない? お母さんたちのグループが開墾した農地で取れたお芋が原料なんよ」
「そうなん。そういえば、サツマイモの皮を剥きよったわ。その割りには食べとらんし」
「七福というサツマイモ、明治時代にアメリカから導入したのは矢野の人なんよ。駅前に石碑がある」
「そんな石碑があるかいね」
「あるよ。でも、矢野では途絶えてたみたい。ある島に残っていることを突き止めて、種芋や蔓をもらいに行ったのは、お母さんなんよ」
「へえ」
「お母さんの行動力すごいよ。季節外れで栽培を始めたんじゃけど、こないだ初めて収穫があったんよ。不揃いでそんなに量もなかったけん、お母さんは、種芋を残して、全部ソフトクリームにすることにしたんよ」
「なんで、ソフトクリームなん?」
「ソフトクリームは持って帰れんじゃろ。そこに行って食べるしかないけん、評判になると、遠くからでも人が来るようになるんよ」
「ふーん。よその店でやるん?」
「もちろん、お母さんはうちの店で出してほしいって言うてくれちゃったよ。でも、これは地域活性化じゃけん。うちの店は場所が分かりにくいし、駐車場が少ない。遠くから来る人を想定したら、私はあの店がええと思うて、交渉したんよ」
「地域のために。えらいね」
「『ぎふまふ農場の七福芋』、『純喫茶ぎふまふ共同開発』とは書いてもらっとるけど。ちゃっかり」
食べ物の話になると、目がキラキラする。
「一生懸命な三佐子さん、素敵」
「ありがとう」
駐車場で軽バンぎふまふ号に乗った。運転は三佐子さん。
…今日から一緒に暮らせるん?
…うん。
…ずっと一緒におるよ。
…私も離れんけんね。
祝福するように、二人の上を黄色い蝶々が飛ぶ。
この幸せが夢ならば、僕は眠り続けたい。
目を閉じると、ハーブを摘む三佐子さんの姿が浮かび、エンドロールに「草原の乙女」のイントロが流れ始めた。
―風に吹かれて 揺れるメリッサの 花のような
君の笑顔に 出会えた喜びを 神様に感謝して
小さな魔法をかける 君の背中に
この気持ちが終わらないように
夢で見ていた 君との口づけに ときめきを解き放つ
地平に消える長い道 緑の草原に
透明な風 青い空 真っ白なメリッサの花
君が好き 君が好き
溢れる思いをもう止めない―
この未完の奇譚には、いったいどんな結末が用意されているのだろう。
● 登場人物紹介
●伊藤山翔【いとう・やまと】
「僕」という一人称で、物語の話者となっている。岡山県警刑事部の巡査長二十七歳。愛称はヤマショウ。サッカー少年として育ち、県警の逮捕術大会では常に上位の腕前とか。メンタルを病んで休職し、郷里の広島に戻り、喫茶店に立ち寄る。その店主、三佐子に一目惚れをするところから、物語が始まる。翌日から喫茶店を手伝うことになる。男女関係に疎く、高校時代の彼女、七海には「恋愛音痴」と言われていたようだ。
●君島三佐子【きみじま・みさこ】
純喫茶ぎふまふの店主。愛称はサンザ。薬剤師と管理栄養士の資格を持つ。鮮やかな手際の調理に、魔法じみた動作を織り交ぜる。山翔の弟、武瑠の恋人であり、年齢は三十歳であることが分かる。高校生のとき中学生の山翔に出会い恋をする。その片思いを引き摺ったまま、武瑠の求婚を受け入れ、その直後に武瑠は行方不明になる。憧れの山翔と再会し、彼の好意を感じながらも、武瑠への罪の意識との板挟みに苦しむ。
●伊藤武瑠【いとう・たける】
山翔の弟で、三佐子の恋人。三年前から行方不明。高校生の三佐子が中学生の山翔に一目惚れした日、小学生の武瑠は三佐子に恋をした。三佐子の兄への思いを知っており、兄の関心のなさに三佐子に同情、ますます、三佐子にのめり込む。三佐子と求婚したその日、「兄のことは好きなままでいい」と言ってしまったため、三佐子の心は分裂する。それを引き戻そうとして、異世界に引き込まれてしまう。異世界では十六世紀の侍として、妻サンザと一緒に暮らしていた。
●菊池時彦【きくち・ときひこ】
純喫茶ぎふまふのオーナーで、先代の店主。小説家でもある。喫茶店をやる前はその建物で、中学生専門の塾を経営していた。山翔も三佐子も武瑠もその塾の卒業生であるため、塾長と呼ばれる。遷延性意識障害で寝たきりとなっているが、「夢で縁者に思念を送る」とエンディングノートに残している。武瑠とリンダが行方不明であり、死ぬに死ねない思いから、夢で山翔を「最後の切り札」に指名した。カラス天狗の恰好で夢に現れ、教え子を幸福にするために画策するが、必ずしもうまくいかない。
●リンダ
林田美沙子【はやしだ・みさこ】。三佐子の親友で、菊池塾出身。フォトグラファーとして世界を飛び回り、たくさんの外国語ができるようだ。武瑠の失踪以前から音信不通になっていたが、激やせして、三佐子の元に戻ってきた。音信不通の間、武瑠と同じ十六世紀に転移して、教皇となっていたことを窺わせる。心を病み、何度も自殺しようとしたようだが、普段は愉快なキャラクター。ハワイから十二歳のときに日本に来た帰国子女で、広島人より広島弁が濃い。リンダも山翔のことが好きなのかもしれないと思わせる行動が幾度かある。
●母さん
伊藤裕子【いとう・ゆうこ】。山翔と武瑠の母親。五十代らしい。夫は、武瑠が失踪する直前に心筋梗塞で亡くなっている。週三回程度、パートで働いているが、その他の日は近所のお年寄りと一緒に、地域に貢献する活動をしている。料理の話で三佐子と意気投合。自身の調理にはやり過ぎと手抜きの両方がある。
●占いママ
君島小夜子【きみじま・さよこ】。昼下がりの常連客。三佐子の叔母で、スナックを経営している。母の弟の妻であり、血は繋がっていない。名刺には占い師とも書いてある。男女の相性は外したことがないと言う。三佐子の生い立ちやその母のことを知っている。
●矢吹七海【やぶき・ななみ】
山翔が高校の時のサッカー部のマネージャーで、山翔の元彼女。山翔は「押しかけ女房的な彼女」と言って、三年生の頃には会うのが億劫になっていたようだ。山翔が岡山の大学に行ったことで自然消滅した。山翔はそう思っているが、七海は傷心の日々を送ったようだ。別の男性と結婚して妊娠中。店の前で山翔と再会し、洞察力と会話術で三佐子に対する山翔の気持ちを聞き出してしまう。
●工場長
村上真也【むらかみ・しんや】。純喫茶ぎふまふの朝の常連客。毎朝、山翔を激励してくれる。
●郷土史会の会長
畠山庄司【はたけやま・しょうじ】。占いママと同じ時間にいる常連客。塾長の友人で、町の生き字引と呼ばれている。
●グエンさんたち
東南アジアからの技能実習生。店には紺色の服のグエン・ヴァン・ダットさん、緑色の服のグエン・ヴァン・タインさんが来る。二人のガールフレンドであるホー・ティ・マイさんとレー・ティ・ランさんは、工場長の工場で自動車部品を作っている。
●猫の「ぎふまふ」
いつの間にか喫茶店に居ついた猫。左右の目の色が違うオッドアイについて、塾長が「目がぎふまふだ」と言って、そう名付けた。武瑠の失踪後、気が付くといなくなっていた。実は、分裂した三佐子の幽体が、異世界に転移するとき、武瑠とともに渦に巻き込まれていた。そして、その体は三佐子の幽体の「依代」となって、十六世紀のサンザになったと思われる。本編には収録されていないが、そのことに気付いた武瑠が「心は三佐子さんそのもので、体も…」と言って、山翔に「なんかエッチだ」と指摘されるエピソードがある。
378 カタラ餅
七月十三日日曜日。
武瑠との約束の日だ。
あれから一年、四人とも忘れることはなかったが、時間が経つにつれて、現実ではなかったのではないかと思うようになっていた。
約束の「さつま汁とカレーの宴」の準備をしながらも、半信半疑。
「ほんとにまた、武瑠の会えるんかねえ」
母さんが言うと、リンダさんが答える。
「そうですねえ。四人で一緒に見た夢の続きのようにも思えますよね」
「それでも、ええじゃん。久しぶりに集団妄想しよ」
「三佐子、なんか表現が危ないよ」
「勇者ヤマショウが、いつの間にか呼び捨てしよる」
「三佐子さんがそうしてくれ言うけん」
「あ、さん付けに戻った。慣れとらんようじゃね」
母さんが「新婚をからかうのは面白いよね」と言うと、「むなしくなってきます」とリンダさん。
「リンダさんには好きな人、おらんの?」
「へへ。最近、きっぱり諦めました。もう、私に男は不要です」
「命短し恋せよ乙女。レーさんのブーケ受け取ったでしょ」
四人はぎふまふ号に乗って、山に向かう。車の中でリンダさんは、僕に「日本一」と書いたはちまきを着けさせ、自分たちは、画用紙に絵を描いて作った犬猿キジのお面を頭に着けた。
いつものところに車を止めると、母さんは風呂敷を解いて重箱を出した。
「今日の吉備団子は、カタラ餅よ」
三佐子さんが母さんから、一つ渡してもらいながら聞いた。
「カタラ? 柏餅とは違うんですか」
「餡子の入ったお餅自体は柏餅と同じね。葉っぱが柏じゃないんよ」
「これを柏餅だと思うてました」
「広島の柏餅はだいたいこれじゃね。カタルとも言うね。サルトリイバラというトゲのある植物の葉っぱで、柏の葉よりツルツルして、お餅から剝がれやすいんよ」
「あ、サルトリイバラなら知っています。その仲間で、中国に自生する山帰来という植物があるらしいのですが、土茯苓という生薬の原料になります」
「へえ、さすが元薬剤師じゃねえ」
「この葉っぱって売ってるんですか」
「いやいや、その辺にいっぱい生えとるよ」
四人は一個ずつ食べた。武瑠と向こうのサンザさんの分は別に取ってある。
山道を歩き始める。
ハーブ畑への見慣れた道。特に母さんはサツマイモ栽培で、去年から何度も来ている。
「何回来ても、どこに極楽天神への分かれ道があるか分からんのよ」
「そうなんですよね。ここに来るたびに見るんですけど、ないんですよね。やっぱり集団妄想だったのかなと思ったりします」
僕は立ち止まった。周辺の雰囲気を覚えている。
「たぶんここだよ」
一応、塾長がノートの切れ端に描いた地図を見た。
「え、全然分からん」
四人はおまじない的にデーツの実を齧った。
「三佐子…さん。呪文を唱えてみて」
三佐子さんはいつもの呪文を唱えた。
「ナムアフ・サマンタ・ヴァジュラナム・ハム!」
煙のようなものが視界を遮り、晴れると分かれ道が現れた。その先、赤いテープが巻かれた木が見える。
「魔法じゃ…」
分かれ道を少し歩く。
「赤ちゃんの泣き声みたいなのが聞こえん?」
リンダさんが言うと、三佐子さんが怯える。
「やめて。私、ビビリなんじゃけん」
確かに聞こえる。「鳥かな…」と僕が恐怖を反らそうとしたが、母さんは遠慮なく「いや、赤ちゃんの声みたいなね」と元に戻す。
赤テープに導かれて進むと、声はだんだんはっきりしてきた。
そして、極楽天神に到着した。
声は滝壺から聞こえる。走り寄ると、白い猫が中州で鳴いていた。
母さんが「猫の声じゃったん」と安心したように言う。
僕が「なんで山の中に猫がおるんじゃろ? 首輪しとるし」と首を傾げる。
瘦せ細った猫は弱った足取りで浅瀬を歩き、リンダさんの足元に来た。
リンダさんが「この子、ぎふまふに似てない?」と言って抱き上げた。
三佐子さんは猫の目を見て、「オッドアイ。似とるというより、ぎふまふよ。武瑠君が行方不明になったあと、気が付いたらおらんようになっとったんよ」と言った。
蝉時雨に混じって、塾長の声が「扉を開けろ! 呪文を唱えろ!」と叫ぶ。
「リンダさん、神社の扉を開けて!」
リンダさんがロザリオの鍵で錠前を外す。扉を開けると、中には「大蘇鉄」の実。
「三佐子さん、長い方の呪文!」
「オーム・アモーガ・ヴァイローチャナ・マハームドラ・マニ・パードマ・ジヴァーラ・プラヴァルターヤ・フーム! ぎふまふ…」
滝壺の水が引いた。
水底から死装束の男、死んでいるように見える。うつ伏せで顔が見えないが、四人には、それが誰だか分かっている。
蝉時雨が「リンダリンダ」と連呼する。
猫から半透明のものが抜け出すと、リンダさんに憑依した。
リンダさんは、猫の左前脚に嵌っていた輪を抜き取り、自分の指に嵌めた。
そして、大蘇鉄の実を口で咀嚼して、倒れている死装束の男に口移しした。
(おわり)




