第二楽章の7
その夜は眠れないままにスコアを研究し続けた。夜が更けていく中で、僕のまわりは地球の回転する音が聞こえるほど静かだった。しかし頭の中では、嵐のように音たちが響いていた。複雑な音の連なりを追いながら、僕は頭の中で整列されて通りすぎていく音符に意味を紡ぎだそうと、もがきながら前に進んでいった。複雑なリズムとメロディーに、それもメシアンの厳密な指示に縛られたそれらに、隠されている本当の意味を掘りだそうと洞窟を這い進むような気がした。汗がつぎつぎと湧きでて、流れ落ちて楽譜を汚すのを防ぐために、タオルで鉢巻のように頭を蔽わなければならないほどだった。それでもまだ、激しいリズムの中から表題とされている愛の形が浮びあがってこないのだ。イメージとして浮かび上がってこない何かを、まだ見つけていない何かを心の中に捜しながら、自分自身の心の洞窟を這いまわっているような気がした。もっと這い進めば、目の前に拡がる空間が大きく輝き出るに違いないと自分自身を励ましながら、細い洞窟を腹這ったままに進んでいく。そんな一晩が過ぎて、いつしか窓の外には仄かな光が拡がっているのに気付いた。
結局、眠らないまま一晩を過ごしたのだが、頭は冴えたままで、疲れも感じないで新しい光をむかえた。しかし、スコアを離れて水で顔を洗い、鏡の中の自分を見つめたときに、アリアから「マエストロは眠らなくてはいけません」といわれるのが聞こえたような気がした。その声に答えて、「ずっと徹夜を続けるわけじゃないから」と、心の中で言いわけしていた。「いまが一番大切な瞬間なんだから」と。
濃いコーヒーを沸かして、昨夜別れる時にアリアが持たせてくれたサンドイッチを頬張った。朝にふさわしくと彼女が考えているのだろう。野菜の豊富なサンドイッチで、その新鮮さも失われてはいなかった。同時に持たせてくれた容器には白いセロリが入っていて、噛むとカリリと新鮮にくだけて早朝の音が鳴った。
思い立ってトレーニング・ウェアーに着替えて、普段毎朝の習慣にしているランニングに出かけることにした。昨日と同じ道を登って丘の上の公園まで行き、息を整えながら反対側を見おろした。昨日、帰りの道すじをしっかり覚えようと目を凝らしていたので、今日はアリアの家がどのあたりにあるのかの見当がついた。遠くに見える柿色の屋根が彼女の家に違いない。僕は何か渇きを感じながらその屋根を見つめた。吹き上げてくる風が僕の汗を乾かしてしまうまで、そこに立って同じ方向を見つめていた。
昨夜は全く眠らなかったにもかかわらず、オペラハウスに落ちついても夢中でスコア読みを続けられた。頭の中は透きとおったように清明に感じられたが、イメージは固定しないままに揺蕩い続けた。指揮者の部屋には落ち着いた昔からの空気が留まっているのに、自分は激しい流れの中にいるようだった。今日は、アリアは来ないと、ふと思った。その時ノックの音が聞こえた。僕は、少し心が踊って、「どうぞ」と返事した。
「マエストロ、お邪魔します」と、事務局長が入ってきた。事務局長のうしろから、髪の白い小柄な夫人が続いて入ってきた。彼女はお盆をもっていた。
「マエストロ、この方はフォーヘンバッハ夫人です。私達の古くからの仲間で、今日からマエストロのお世話をしていただきます」。
僕は驚いて立ち上がった。そういえば昨夜、アリアの家でそんな話があったことを思い出した。しかし、あまりの手際よさに、びっくりしてすぐには口がきけないまま、二人を眺めていた。彼女は応接セットのテーブルにお盆を置くと、にっこりしながら近づいてきて手を差し出した。
「アンナですわ、マエストロ。もしお厭じゃなかったら、今日からこの地におられる間、あなたの身の回りのお世話をいたします。お昼と夕のお食事とお部屋の掃除、ご希望でしたらお洗濯やアイロンかけも」。
僕はまだ目を見開いて立っていたが、あわてて彼女の手をとって握手をした。
「ああ、それは」
「あなたのお世話をすることについては、ある方から熱心なご依頼を受けましたのよ。それにマルティンからも」。
「彼女は私たちの古くからの仲間なのです、マエストロ。私たちは、彼女はあなたのお世話をするのに適任だと思いますよ。彼女は、私と一緒に働いてきた楽団員の奥さんで、若い時からのファミリーの一人です。とても家庭的な方なので、私達も安心です」。
「僕はソウロです」。僕は、それだけをやっと言って彼女の手を離した。その老婦人は上品に微笑んだ。
「お部屋に入ってもよろしいでしょう。ご了解いただければ、今日からさっそくお掃除をいたします」。「鍵は?」「あの家の持ち主も古い知り合いですから、マエストロのお許しさえいただけましたら、スペアを渡してくれるでしょう」。
僕は、よろしくお願いしますと言う他はなかった。それに、彼の世話をするように強く依頼した人物が誰かということについては、心の奥底にある確信があったから。その人物の他に誰がそんな依頼をするだろうか。そして、この変化は僕がスコアの勉強に集中し、この交響曲を演奏するためにはうってつけの環境を与えてくれるのは間違いなかろうと思えた。生活のことに気を回す時間も気持ちもなかったからである。僕もようやくアンナさんに微笑みかけた。それでは、お持ちしましたお食事をどうぞと言って、彼女は事務局長と一緒に部屋を出ていった。僕は、ちょっとぼんやりしてお盆の上の昼食をみた。まだ温かいお肉のシチュウとこれも焼きたてのパンがのっており、僕は空腹をおもいだした。
その時から、僕の頭の中からは、肉体を生かすために使わねばならない空間は必要なくなったといってもいいだろう。思考のすべては、メシアンの交響曲に占められることとなった。潜在意識の奥から、僕をゆるがそうとする“あるさざなみ”以外には。すべての時間、僕はスコアと向かい合った。ある時はピアノを介して、そしてその時だけは少し心の奥に痛みのようなものを感じた。
次の日の午後から、僕は事務室に貼られたスケジュール表を見て、パート練習に顔を出し始めた。最初の日に予定されていたのは、チェロのグループだったのも好都合だった。僕はチェロの主席さんの仕事を、最初に見ておきたかったのだ。ディヴィジが多用されているこの曲で、彼がそれをどう捌くのか。それ以上に、エキストラを加えて倍ほどに膨れ上がったチェログループにどう練習をつけていくのか、見ておきたいことが多くあったからだ。まだほかのグループは準備できていなかったせいで、彼らは正式の舞台に陣取ってパート練習をしていた。僕が客席に入っていくと、主席さんは練習を止めて僕に手を振ってくれた。そのまま舞台に近づいていった僕を、エキストラの出演者に「われわれのマエストロだ」と紹介してくれて、続いて彼らを紹介してくれた。彼らは、主席さんとは古い馴染みのようだった。僕も彼らに挨拶をかえした。
「何かご要望があればおっしゃってください」。
「いや、今日は皆さんの演奏を聞かせていただきたいだけなのです」。
それで彼らの練習がまた始まった。驚いたことに、前から三列目の席に、コンマスも座っていた。僕は「あなたも来ておられたのですか」と言いながら、彼の横に座った。僕をちらっと見上げながら、彼は黙って頷いた。「舞台が小さく感じますね。これで他のパートも全員配置できるのでしょうか」と、僕が最初にここに入ってきたときの心配を口にした。コンマスは、「何とか大丈夫でしょう。ここの舞台は左右にはあまり拡がりませんが、前後には拡げることができますから」と、前を向いたままで答えた。チェロの演奏は、ボーイングもすでに揃っており、例によって厳密なビートを刻もうと努力していた。
その日から、各パートの練習を巡り歩くことになった。といっても、このオケでは練習場が限られているので、そして全パートがオペラハウスの舞台を使用したがるので、オペラハウスに座りづめである時間が長くなってきた。空いた時間には指揮者室にもどってスコアの勉強を続けた。昼の間は、何かと楽団員と過ごす時間が多く、いつの間にか時間が過ぎていくようだった。しかし、夜、指揮者室や自室でスコアに熱中していると、ピアノのことが気になって仕方がなくなることもあった。いま、この瞬間にもアリアはピアノを弾いているに違いないと思えたが、それはどんな様子なのだろうか。最後に二人で演奏した時のアリアの白いドレス姿が眼前に浮かんだ。スコアを眺めながらピアノのパートばかりに目がゆくようだった。
それから3日後には、弦全体でのパート練習が始まった。コンマスのビートも、チェロの主席さんの生み出すビートを踏襲しているようだった。エキストラを多く加えていても、彼らをしっかりとリードしていることも信頼できた。しっかりと読み込まれたビートは、僕たち全体を支える枠組みとなるだろう。あとは、僕次第なのだが、全体の色彩はまだはっきりとは見えていないという焦りがあった。金管・木管のパート練習も始まった。一番困難だったのは打楽器群だ。打楽器奏者を掻き集めたといっても、大部分の打楽器、例えばマラカスやトライアングル、タンバリン、シンバル類というものは、交響曲ではそれほどポピュラーに用いられる打楽器ではないだけに、それぞれが専門の奏者というわけにはいかない。パート練習も打楽器のみを集めてはやり辛いものであるが、それでもそれぞれの音は確かめておかなくてはならない。このオケのティンパニーさんと一緒に、楽器の叩く位置や叩き方による音の違いも確認しておかなくてはならなかったので、意外と時間をとった。それと、徐々に揃ってきた鍵盤楽器、ジュ・ド・タンブル、チェレスタ、ヴィブラフォン、チューブラーベルといった楽器類も、僕が慣れていないこともあって、演奏者と一緒に確認していった。ようやく全体の音の性格を納得するまでには、さらに数日を要した。
しかし、この忙しく過ごす間にも、僕の心の中にはいつもピアノがあった。そして、ピアノの音が聞こえないことがことさらに意識されて、それだけに僕を苦しめた。アリアは家に籠って練習しているようだった。僕の前には姿をあらわさないままに日が過ぎていった。この街に来てから、これほど永くアリアに会わないということはなかったと改めて気づかされた。毎夜、遅く帰宅してから用意された夕食を食べ、スコアを読んでいる時など、ピアノを弾く彼女の面影が頭の中全体を染めてしまうようなときには、コートを羽織って丘の上の公園に行き、佇んで彼女の家の灯りを眺めるようなこともあった。しかし、一方では強く自制するものも心にはあった。彼女が、食事を含めて僕の身の回りの心配から身を引いたのは、ピアノの練習に集中することだけが目的ではないということが、少しずつ心の中で納得でき始めたからだった。彼女が、少し蒼白い顔をしながら、信頼できる世話役に僕の生活を任せると言い出した夜は、僕が彼女をピアノ演奏者に引き入れた夜だった。彼女の正しさを僕は称賛する思いだった。僕はすべての楽器を指揮して音楽を創りあげる。すべての奏者は等しく僕のアイデンティティを形成する大切な部分である。その中で、一つの楽器、一人の奏者を意識しすぎるということは、あってはならないことであると気づいたのだ。しかし、思考と想いは一致しそうになく、僕の心の芯を苦しめた。丘の上でふと気づくと、体の芯まで冷え切ってしまっていた。小さなため息をついて、ベットに戻るしかないことを、僕は自覚していた。引き入れたのは僕なのだから。
気持ちの整理はつかなかったが、一方では指揮者としてそうも言ってはおられないと思えた。アリアを呼び出したのは、いよいよリハーサルが近づいて、明日にはピアノが舞台に運びだされるという日になってからだった。彼女の演奏は最初に聞いているものの、その後の練習の成果を確かめておく必要があるという理由で、僕は自分を納得させたのである。その日の昼過ぎに、指揮者の部屋に座っていると微かなノックの音が聞こえた。以前にはノックなどせずに入ってきたものだったのに。そして今日は、彼女は濃紺のふんわりしたワンピース姿であった。僕は、自分の心臓が跳ね上がるように感じた。彼女の顔をこれほど見たく思っていたことに、改めて気づかされて動揺した。「ああ、アリア。久しぶりですね」、「マエストロ、よろしいでしょうか」。二人の声が重なった。僕の大きな声と、彼女の控えめな声。その挨拶に続いて、もう一人の女性が彼女に少し遅れて入ってきた。「マエストロ、ご紹介します。従妹のベルタです。私の譜面を繰る役目をお願いしたのですが、よろしいでしょうか」。「譜が読めて、あなたと気心の知れた方なら、私に異存はありませんよ」と答えながら、僕の表情に落胆の色が出ないようにと密かに祈った。
アリアのピアノは確かにより繊細に優雅になっていた。僕はピアノの反対側に立って軽く指揮をしながら彼女のピアノを確かめていった。しかし、どこかに納得できないものを感じていた。最初に彼女のピアノを聞いたときのあのときめきが、何故か遠のいたように感じられるからだった。確かに、彼女の技量はあの時よりもより良くなっていると思われるのに、一方で何かが覆い隠されてしまったように思われる。何が足りないのだろうかと、最後まで考えながら聞き終わって、「何か助言をいただけますか」とたずねられた時、正直いってそれを正しく言語にすることは難しいと感じた。僕はただ「オケと合わせてみてから話し合いましょう。とても繊細によく感情を拾っているように感じるのですが、しかし何かが足りない気もするのです。このような言い方では、あなたを混乱させてしまうでしょうね。私にも考える時間が必要ですが、リハーサルでオケと合わせてみれば、その正体がわかるかもしれません」と答えるのが精いっぱいだった。心配そうな曇った顔で私を見上げるアリアにそっと笑いかけながら、「今は、そのまま練習を続けてください」と続けるしかなかった。
まだスコアの勉強は続いていたが、そして最終的なイメージや色彩が定まらないままだったが、リハーサルの日がきた。僕は自分の感覚に少し苛立っていた。リハーサルは、エキストラの都合と舞台の準備のために1日遅れていたが、パート練習を巡ってきたおかげでその点からの焦りはなかった。舞台は、後方に拡張されて段も追加されていたが、いかにも込み合っていた。しかし、この中規模のオペラハウスにオケ全員が揃うことができて少しほっとした。本当に全員が位置を確保できるのか、僕は少し信じていなかったからである。エキストラには女性も多く、それを知ってこれもまたアリアにはストレスではないかと思えた。従来のメンバーたちがアリアに家族のような好意を持っているとしても、こうしたデビューの幸運を僕との関係に結びつけて考えられる可能性は否定できない。いや、それは、確かに彼女の実力を僕が認めたからではあるけれども、事実、僕の彼女への好意がなければ、もしかしたらこのように道が開かれなかったかもしれなかったのも本当である。「彼女のピアノでこの曲を」と強く望んだのは、まちがいなく僕なのだから。そして、逡巡したアリアと事務局長は、当然ながらこうした人間的な思いにさらされることも、決定の瞬間から覚悟したであろうし、それでもむりやり彼女を引きずりこんだ責任は僕にあるのだから。それだけに今更のように、僕はアリアに責任を感じた。




