第二楽章の6
「どうしてです」。僕はアリアの声を振りかえっていった。「なぜ駄目なんですか」。
「私は全くの無名の存在です。私はこのオーケストラを愛しています。トゥーランガリラを、私達のオーケストラは初めて演奏するのですよ。このオケに、私がピアノのソリストになるなんて言う大きな負担をかけるわけにはいきません」。
「なぜ駄目なのですか」。僕は事務局長を振り向いていった。
「マエストロのお気持ちは、父親としては嬉しいのです」と、事務局長は落ち着いた声で答えた。「しかし、スポンサーの準備の良さからすると、他の楽器の演奏者たちが、彼らの助力で予想に反して順調に決定していることを見ると、きっとピアニストも彼らの心積もりがあるに違いありません。ピアノは、この曲では中心的に重要な要素ですから」。
どちらの主張もよく理解できたが、僕の気持ちを治めることはできなかった。僕はアリアのピアノでこの曲をつくりたいと、たった今、固く決心したところだったのだ。
「お二人が反対される理由はよく分かりました。しかし、僕はこの曲をまかされた者として、心が決まっているのです。お二人の本当のお気持ちを聞かせてください。アリアさん、君は本当にこの曲を、僕といっしょに創りあげたくないと思っているのですか」。
「それは、よく御存じのとおりですわ。でも、一方では間違いなく、私がこのオーケストラの成功を邪魔するようなことを避けなくてはいけないと強く思っているのです。マエストロ」。
「事務局長。あなたは父親としては嬉しいとおっしゃいましたね。なぜそれではいけないのでしょう。あなたは、娘さんがこの演奏をできないとお思いですか」。
「娘にはデビューさせてやりたいと、ずっと思ってきました。彼女の今の状態には、私は罪悪感をもっています。娘には才能があると思っています。それなのに、彼女のチャンスを奪ってしまったと感じてきたからです。しかし、私はこのオーケストラの事務局長でもあります。娘を愛おしく思っている以上に、この新しいスポンサーを私達のオーケストラのためにも失いたくありません。おわかり頂けると思いますが」。
「それでは、マエストロのお気持ちを、スポンサーにお話しいただいてはどうでしょう」。
この突然の口論を目の当たりにして、目を丸くして立ちすくんでいたステージマネージャーが、遠慮がちに口を挟んできた。
「どうすればいいんですか」。僕は突破口を求めてこの提案に飛びついた。この父娘の音楽家としての、そして人間としての基本的な頑固な誠実さを、短い付き合いではあるものの、疑いなく確信している僕にとって、とにかくこの二人を僕の言葉だけで納得させることは不可能だと、二人が同時に反対したとたんに確信してしまって途方に暮れていたからである。
「今まで何人かの演奏家を決めるにあたって、困った時や、場合によっては困る前から彼らに相談しているのですが、向こうの担当者に電話をかけて連絡のつかなかったことはありません。マエストロからご説明いただければ、スポンサーの方の御意向もわかると思いますよ」。
「そうしましょう。アリア、事務局長。それでいいですね。それで彼らが反対しなければ、僕の決心を受け入れてくれますね」。
まず事務局長が頷くのを確認して、僕はアリアを見つめた。アリアの顔は少し青ざめているように思えた。
「アリアさん、昨日から君のピアノを聴いてきたが、僕には君の協力が必要なんだよ」と、僕は精一杯冷静に頼んだ。アリアは、しばらく僕をじっと見つめていたが、ようやく小さく頷いた。蒼かった頬が急に薄紅色に染まった。
ステージマネージャーが電話をかけてくれた。僕たちは電話機を取り囲むようにして立っていた。相手が出て、ヨハンが「マエストロが、今回私たちのオーケストラをご支援くださる方にご相談したいことがあると言われますので、電話を変わらせていただいてよろしいでしょうか」と話し、電話に向かって頭を下げてから僕に受話器を手渡した。僕はできるだけ落ちついた声で、ピアニストの選定について希望を述べた。彼女は非常に才能のあるピアニストであるということ、しかし、今までの実績が無く、今回がデビュウであること。事務局長も本人も、支援してくださる方の同意なくしては、僕の提案を引き受けないということなど、できるだけ事情を分かっていただけるように話をしてみた。相手は黙って聞いてくれたが、「これは『御前』のご判断を要することのようです。しばらくお待ちください」と言って電話から離れたようだった。しばらく待たされたあとで、「今のご説明をもう一度お聞かせください」と先の男が言い、電話口は深い声の持ち主に変わった。
「何だね。説明しなさい」と、声は言った。命令に慣れている声だった。
「お電話で時間をとってくださってありがとうございます。また、今回のトゥーランガリラ交響曲のご依頼をいただきまして、この素晴らしいチャンスを与えてくださいましたことを、心から感謝いたします。実はご存じのとおり、この交響曲の中でピアノが果たします役割は非常に重要です。私はそのピアニストとしてある有能な若い女性を推薦したいと思っているのですが、問題が無いわけではありません。彼女は、私の見るところ非常に才能豊かなのですが、まだ世間に知られておらず、今回がデビュー同然の状況です。私たちをサポートしてくださる方のご賛同なくしては、彼女もこの役割を受けてくれそうにありませんし、当オーケストラの事務局長も賛成してくれません。そこで、失礼も顧みず直接お願いをさせていただくことにしたのです。決定を私にお任せいただけますでしょうか」。
そこまで僕がいっきに説明すると、その深い声は「ピアニストはだれを考えているのかね」と質した。アリア・クラインベルクですと僕が答えると、「ふぁふぁふぁふぁ・・・」と、どこか深いところで響く不思議な笑い声が始まって、しばらく続いたあと、そのまま笑いながら電話は切れてしまった。僕はあぜんとして受話器をおろすことも忘れてそのまま突っ立っていた。周りの皆が返事を聞きたそうであったが、一方で答えを聞くのを恐れてもいるようだった。ヨハンが僕の手から受話器をとり、そっと戻した。そして「どうでしたか」と訊ねた。僕は、小さな声で「わからない」と答えた。愉快そうな笑い声で、反対であるようには思えなかったが、しかし、了承を得たわけでもないからだった。そして、そこに在った椅子に腰をおろした。その時、目の前の電話が突然なりだして、僕は、いや皆は飛び上がった。ヨハンが慌てて受話器をあげて、相手の声に耳を傾けた。「はい」とだけ答えて、受話器を静かに置いた。そして、「『御前』は指揮者にまかせると言っておられるとのことでした」と告げた。しばらく静寂があって、アリアが小さな硬い声で、「わかりました」と答えた。事務局長もゆっくり頷いた。
僕たちはちょっと脱力感を感じながらそれぞれ事務所の椅子に座った。僕は御前と呼ばれた人のことを、その印象を皆に話した。と言っても、会話はほとんど僕の説明で、相手は聞いていただけだったから、話せることはほとんどなかった。それでも不思議な印象を与えるその声の持ち主について語った。深い声の持ち主で、年齢はわからなかった。ただ、御前と呼ばれていることから、とても高い地位の人を思わせた。そのうえ、僕の説明で挙げた不思議な笑い声。それはとても深い知性をも感じさせるものだった。なぜ笑ったのだろうということも僕たちの間で話題となった。もしかして、彼は僕たちのことをとても詳しく知っているのだろうか。アリアのことや事務局長のこと等、それらの関係や人となりなど、まだ説明しなかったこともすべて知っているのだろうか。僕にはそんな気がしたが、そういう僕の意見をアリアは不安そうに聞いた。「そんなはずありませんわ」と、小さな声で繰りかえした。それに、彼は僕の心の奥底に生まれた感情まで理解しているのではないだろうかと思い至って、僕はあらためて赤面した。
とにかく、決定は決定だ。「それじゃ、アリアにピアノのパート譜を渡してください」とステージマネージャーに指示したが、今度は誰も異議を称えることはなかった。アリアの顔色がまた蒼くなっているのに気づいて、僕は少し心配になった。譜を渡しながら、「大丈夫」と訊いたときにも、「大丈夫ですわ、マエストロ、急に考えなくてはいけないことが増えただけですので」と頷いた。僕はアリアをピアニストにできたことで少し有頂天になっていて、そのときには演奏を成功させなければという思い以外に何も心配してはいなかったのだが。
その日の午後も、僕たちは夢中で練習をした。パート譜を渡したにもかかわらず、アリアはスコアで演奏することに固執した。僕ももう言い争わなかった。確かに、その方が僕のためには良いに決まっているからだ。練習は熱心に淡々と進められた。今までと違って僕がイメージを創りあげることを助けるために弾いているというのではなく、僕がとりあえず現在もちはじめたイメージに従って弾こうとしているようだった。僕も今まで以上に弾き方に注文をつけるようになった。同じ個所を、色々に弾き較べてみることも要求した。アリアはその間、ほとんど「はい、マエストロ」としか返事をしなかった。ピアニストとして、弾き方によって自分のイメージを強く主張するようなこともなくなった。ひたすら僕のイメージに従おうとする彼女の変化は、僕を少し戸惑わせた。それは、僕のイメージつくりにのみ協力していた時と違って、オーケストラの一部になる決意のためかもしれないと思ったが、少し物足りなくも感じた。しかし僕は、それが彼女のオーケストラにたいする責任感の表れなのかもしれないと思い直した。
夕刻を迎えてひと区切りついたとき、「そろそろお食事の時間ですわ」と、彼女が「はい、マエストロ」以外の言葉を、あのことの後初めて口にした。その言い方も以前よりは控えめな気がしたが、単にアリアも疲れていただけかもしれない。
「今日も家にお寄りいただけますか。お食事をしていただけますか」。
「よろしいんですか。とてもありがたいですが」。
ちょっと考えるようにしてから、首をゆっくり横に傾けるようにして、「ええ。何も特別なことはできませんけれども」と言った。
まだ事務所に残っていた事務局長も一緒に、三人で彼らの家に帰ったが、三度目の訪問ですっかりこの家もアットホームなものと感じられた。僕は台所に立つアリアのそばに行き、何か手伝えることが無いかとうろうろしてみたが、もとよりたいして役立つことは不可能で、彼女を目にとらえながら邪魔にしかならないことを残念に感じ、それでも食器を運ばせてもらったりした。事務局長は、何も言わずに食堂で新聞を広げていた。
その日の夕食の場でも、話題はほとんどあの笑い声に集中した。彼らも、受話器から漏れてきた笑い声が小さく聞こえていたことを、その時に初めて打ち明けた。僕は、理由が分からないままに、彼が僕たちのことを詳しく知っている方であることを、今は確信していた。しかし、事務局長はさかんに首を捻って何人かの名前を挙げてみたりしていたが、今回のようなオケの援助者には見当がつかないようであった。アリアは、僕が提案したピアニストとして同意されたにもかかわらず、その深い笑い声を不気味なものとして感じているようであった。彼女の様子があまりに不安そうであったので、僕たちの話題はもっと日常的なことに移っていった。彼女がなぜそれほど不安に感じるのか、ちょっと僕にはわからなかったが。今のところ話はうまくいきすぎているほどであると僕は感じていたからだ。しばらく楽団員のうわさ話などが続いたあとで、アリアが言った。
「マエストロのご滞在がこれほど永くなったのですから、お食事のことを考えなくてはいけませんわ」との主張であった。「もちろん、ずっとうちでお食事なさってもいいんですけれど」。そういって言葉を濁した。
「大丈夫ですよ」と僕は言った。「どうせどこに住もうと、僕は何とか生きていますから」。
「マエストロにはちゃんとしたお食事をしていただきたいですわ。私たちのためにも」。
私たちというのが何を意味するのかと、僕は心の片隅で考えた。アリアのためにと言ってほしい気がしたが、そうではないだろうと結論をつけた。
「こうして家庭の味を楽しむことができるのは、僕にはとてもありがたいことですが、毎日というわけにもいかないでしょうからね」。
「毎日でもお世話できますわ。ちっともかまいません。どうせ父と二人きりなんですから。でも、」
「そうですね。アリアの言うとおりです。私も考えてみましょう」と事務局長が話を終わらせた。
夕食後の後片付けは、僕が食器を洗って、アリアが拭いて棚にしまう作業で、準備よりは手伝いらしくなった。アリアも僕が手伝おうとするのを、あえて反対はしなかった。片づけが終わるとすぐ、僕はいつものようにアリアの車で宿まで送ってもらった。お互いに勉強の時間が惜しかったからである。外はすでに暗かったが、今日は道すじに意識的に注意をはらった。黙って前ばかりを見つめている僕に、アリアもあまり話しかけてこなかった。彼女は彼女で、何かを一心に考え込んでいるようであった。別れる時になって、「やはり毎晩お食事を差し上げるわけにはいきませんわね」とぽつんと呟いた。それから僕に向かって、「明日もお手伝いをいたしましょうか」と訊ねてきた。「いや、明日は一人で楽譜と向かい合いますよ」と、僕は答えた。去っていく車のテールライトを眺めながら、彼女をピアニストとして、御前と呼ばれる老人に認めさせた後の高揚した気持ちはどこかに消えてしまっているのに気がついた。




