婚約者が優先する病弱令嬢から「婚約破棄してください」と頼まれたので、もう我慢するのはやめました
感想欄はネタバレがございますので、できれば先に本編をお楽しみいただければと思います
マリエル・アークライトは、いわゆる「良い子」だった。伯爵令嬢として生まれ育った彼女は、教養もそこそこ、魔力もそこそこ、社交もそこそこ。平均よりちょっと上を行く優等生。
幼い頃、誕生日にプレゼントされた人形を泣いている従妹に譲ったこともあった。
両親も彼女に関して、手を焼いた覚えはない。
腹が立っても我慢をし、わがままも言わない。それが彼女の一種のアイデンティティだった。
「ごめん、マリエル。今日のデートはキャンセルさせて欲しい。ルシアが熱を出したようなんだ」
そう。
仮に、婚約者が自分とのデートをすっぽかして病弱なご令嬢にご執心でも、である。
「ええ、わかりました。それでは、ごきげんよう」
「マリエルは物分かりが良くて、本当に助かるよ」
ご機嫌で帰っていくジュリアンを見つめながら、マリエルは大きなため息をついた。
ジュリアン・グレイフォードとマリエルは、婚約して三年となる。
地方領地の貴族の子息は、王立魔法学院に入学すると王都でひとり暮らしを始める。ジュリアンとマリエルも例外ではなかった。
両親の元を離れてからというもの、ジュリアンは自由を知ったのか、マリエルを放置して遊び回ることが増えた。
そして、何より。
最近のジュリアンは、ルシアという少女に完全に心を奪われていた。男爵家に引き取られた養女で、最近王都へやってきた病弱な少女だという。
『ごめん、マリエル。ルシアが呼んでるんだ』
『ルシアが苦しそうで力になってあげたくて』
『君は元気で羨ましい。ルシアにその元気を分けてあげたいくらいだ』
マリエルとのデートも、夜会も、全てを放り投げて彼女の元へ駆けていくのだから、そうとうな入れ込みっぷりである。
マリエルも、もはや彼の行動を諦めつつあった。
「あーあ、ジュリアンはまた例のご令嬢のところへ行ったの? テスト前なのに大丈夫かよ」
「……オスカー」
マリエルが振り返ると、こちらを気の毒そうに見つめている青年がいた。
彼は、レーヴェン侯爵家の息子で、将来有望な魔法士の卵である。母同士の仲が良く、マリエルの幼馴染でもあった。
「マリエルももっと強く言えばいいのに」
「言ったけれど、聞き入れてもらえないだけです」
「言い方が優しすぎるんだよ。それに彼のご両親も、このことを知らないんだろう?」
当たり前だ、とマリエルは思う。
ジュリアンの両親はとても良い人たちで、マリエルはとても話す気にはなれない。
「いっそ、婚約破棄しちゃえばいいのにさ」
「無理ですよ! そんなことしたら、色々な方に迷惑がかかりますし……」
各家の両親のみならず、付き合いのある家にも心配をかけてしまうに違いない。マリエルは、そんな大事になるくらいならば自分の感情を握りつぶした方が楽だとすら思っていた。
そんな煮え切らないマリエルに、オスカーは「あ!」とわざとらしく大きな声を上げた。
「実は、俺も今、絶賛婚約者を探してるんだけど、もし――」
「それは、早く見つかるといいですね」
「あ、うん。そうだな……」
オスカーは、がっくりと項垂れた。
最近オスカーは、よく自分の婚約の話を持ち出している。もしかして令嬢を紹介して欲しいのだろうかとマリエルは思う。
だが、残念ながらマリエルは友人が少ない。
「ごめんなさい、あまり紹介できる人がいなくて」
というか、オスカーなら、家柄も、成績も、容姿だって完璧なのだから引く手あまただろうに。
「なんで、分かってくれないんだよ。この鈍感幼馴染が……」
オスカーのつぶやきに、マリエルは首を傾げるのだった。
◇
マリエルに例の病弱令嬢から手紙が届いたのは、オスカーとそんな会話をした数日後だった。
『申し訳ございませんが、ジュリアン様と婚約破棄してくださいませんか?』
可愛らしい便箋を持ったまま、これは困ったぞとマリエルは思った。
マリエルの信条は、「良い子」で生きることである。もはや、ジュリアンが彼女の元に通うのは構わないけれども、婚約破棄となれば話が変わってくる。
婚約は家同士の問題であって、ジュリアンやマリエルだけで決められることじゃない。
もちろん、両親に頼み込めば、わがままを言ったことのない娘の願いのひとつくらい叶えてくれるだろうけれども。
マリエルが頭を悩ませていると、後ろから声がかかった。
悩みの種のジュリアンである。
「ごめん、マリエル。今日の魔法学の勉強会だけど――」
「わかりました。欠席で連絡しておきます」
「話が早くて助かるよ! じゃ!」
ジュリアンは、凄まじい勢いで廊下を駆けていった。
ついに、婚約者を連絡要員として使い始めたのかとマリエルは少しだけ呆れた気持ちになってしまう。
マリエルは手紙を折りたたむと、机の上に置いた。
どうしたものか。婚約破棄など、自分ひとりで決められることではない。
けれど、もしジュリアンとルシアが本当に想い合っているのなら――。
「難しい顔してるな」
聞き慣れた声に顔を上げる。
いつの間にか、オスカーが隣の席の背もたれに腰掛けていた。
「オスカー。いつからそこに?」
「今来たところ。勉強会に来ないから、何してるのかと思って」
そう言われて、マリエルは時計を見た。いつの間にかすっかり勉強会が始まる時間になっているではないか。
無断欠席になってしまったが、致し方ないだろう。
「オスカーは、勉強会に戻らなくていいんですか」
「うーん、まあね。今やってるやつの方が面白いから」
「今やっているもの、ですか」
オスカーは、ぱあっと顔を明るくして告げる。
「時間魔法だよ。過去と未来を行き来できるやつ。教授には百年早いって笑われたけどさ」
「なるほど…?」
マリエルは、ぼんやりしたままうなずいた。
オスカーの話す魔法学の話は専門的過ぎてよく分からない。マリエルは優等生ではあったが、オスカーのような天才ではないからだ。
「それで? マリエルは何を一人で抱え込んでるんだ?」
「抱え込んでなんて――」
「その顔で?」
オスカーが向かいの椅子を引いて腰掛ける。マリエルは少し迷ったあと、机の上の手紙を指先で押した。
「……ルシア様から、お手紙をいただいたんです」
「例の病弱令嬢か。何だって?」
「……婚約破棄をしてほしい、と」
オスカーの表情がぴしりと固まった。
「……は? おかしいでしょ。なんで関係のない令嬢がマリエルの婚約に首を突っ込んでくるわけ」
「オスカー、落ち着いてください。私は、もういいんです」
オスカーはしばらくマリエルを見つめていたが、やがて彼は眉を寄せて息を吐いた。
「――君は、そうやってまた我慢するの?」
そう言われて、マリエルは返事に困ってしまった。
別に我慢をしているつもりはない。ただ、自分が少し譲れば丸く収まるのなら、その方が楽だと思っているだけだ。
けれど、それを口にすればオスカーはもっと怒りそうな気がして、マリエルは黙って手紙へ視線を落とした。
「まあいいや。そのルシアっていう令嬢の住所は、手紙に書いてないわけ?」
「ありますが……」
「じゃあ、直接会いに行けば?」
あまりにも簡単に言われて、マリエルは目を瞬いた。
「婚約破棄してほしいって言われたんだろ。手紙だけじゃ分からないこともあるだろうし」
「ですが、突然押しかけるなんて失礼では……」
「婚約者を横取りしようとしてる相手にまで礼儀を気にするの?」
オスカーが呆れたような顔をする。マリエルは手元の便箋へ視線を落とした。
実際のところ、ルシアがどんな人物なのか、マリエルはほとんど知らない。
ジュリアンから聞くのは、身体が弱いこと。王都へ来たばかりで心細いこと。そして、とても健気で優しい少女だということくらいだ。
「きっと、何か事情があるのだと思います」
「たとえば?」
「ジュリアン様を、心からお慕いしているとか」
口にしてみると、胸の奥が少しだけ痛んだ。オスカーはそんなマリエルをじっと見つめたあと、ため息をついた。
「だったらなおさら、本人に聞かないと。このまま放置していた方が大事になると思うけどな。君やジュリアンの両親にも、臆せず手紙も書きそうじゃないか、この子」
確かに、それもそうだ。
ルシアから実家に手紙を送られることを想像したマリエルは、ぶるりと身震いをした。
◇
ルシアの家は、王都の外れにある小さな屋敷だった。
「本当に、ついてきていただいてよかったのですか」
「一人で行かせたら、君は玄関先で謝って帰ってきそうだからな」
オスカーに言い返せなくて、マリエルは困ったように苦笑いするしかなかった。
使用人に名を告げると、二人はすぐに応接室へ通された。しばらくして扉が開く。
「はじめまして。マリエル様……」
現れたルシアは、ひどく華奢な少女だった。
透けるように白い肌に、細い肩。大きな瞳が印象的で、なるほどジュリアンが放っておけないと言うのも分かる気がした。
けれど、その瞳がマリエルを捉えた瞬間――ルシアの顔が、くしゃりと歪んだ。
(えっ?)
そして、彼女はなぜかぽろぽろと大粒の涙を流しだしたのだ。
「あの、ルシア様。私、まだ何も申し上げていないのですけれど」
「ご、ごめんなさい。違うんです、これは、そういうのじゃなくて」
ルシアは袖で目元を拭うと、マリエルの正面に座って、テーブルに額がつきそうなほど深く頭を下げた。
「お手紙に書いたとおりです。ジュリアン様との婚約を、破棄してください」
その態度に、マリエルは、少しだけ違和感を覚えた。
恋しい相手を奪おうとしているのなら、もっと後ろめたそうにするか、堂々と勝ち誇るか、どちらかだろうと思っていたからだ。
「あの。ひとつ、伺ってもよろしいですか。あなたは、ジュリアン様をお慕いしているのですか」
マリエルの言葉にルシアが顔を上げた。
心の底から嫌そうな顔だった。
「まさか。あんな人と恋仲になるくらいなら、修道院に入ります」
(え、えぇ……!?)
思いもよらない答えが返ってきて、マリエルは絶句した。二人は愛し合っていたのではなかったのか。
「じゃあ、なんで他人の婚約に口を出すわけ?」
オスカーの問いに、ルシアはわずかに視線を伏せた。
けれど、彼女が答える前に廊下から足音が近づいてきた。
「ルシア! いるんだろう、ルシア!」
扉が開いて、ジュリアンが飛び込んでくる。
彼はマリエルを見るなり眉をひそめ、続いてルシアの涙に気づいた。
「マリエル、まさか君はルシアを泣かせたのか!」
「ジュリアン様、これは……」
「君は物分かりがいいんだから、こんなことで騒がないでくれ!」
その言葉は、思っていた以上にマリエルの心に深く刺さった。
物分かりがいい。わがままを言わない。迷惑をかけない。
ずっと褒め言葉だと思っていたものが、今はまるで、都合よく扱うための理由に聞こえた。
マリエルは何も言い返せず、ただ唇を噛むことしかできない。
「――違う!」
その時、立ち上がったのは――なんとルシアだった。
華奢な体から出ているとは思えないほどの大きな声に、その場にいた全員がびくりと肩を震わせた。
「なんでいつもそうなの! お母――」
ルシアは、ハッとした表情をしたあと、両手で自分の口を塞いだ。
それから、震える手を下ろしていく。
「マリエル様は何も悪くない。いつも悪くないのに、あなたが勝手に、この人なら我慢してくれるって決めてるんじゃない……」
「ル、ルシア。熱があるんじゃないか。休んだ方が」
「お願いだから、帰って!」
すると、気を利かせたオスカーが立ち上がって、ジュリアンの肩を後ろから掴んだ。
「聞こえただろ。ご令嬢が休みたいってさ」
「離せよ、オスカー。僕はルシアと話が」
「嫌がっているご令嬢の部屋に押し入るのは、みっともないぞ」
オスカーはジュリアンを廊下へ蹴り出して、扉を閉めた。
とたんに部屋が静かになった。
ルシアは立ったまま、肩で息をしている。マリエルは椅子から降りて床に膝をつくと、下からルシアの顔を覗き込んだ。
「ルシア様」
「……っ」
「本当のことを話して?」
けれども、ルシアはぶんぶんと顔を横に振るのだ。
「絶対に、信じてくれないもの」
「信じます。何か事情があるのだと、分かりますから。聞かせてください」
マリエルは優しく促したけれど、ルシアは長いこと黙っていた。
しばらくして、やっと絞り出すように言った。
「私――未来から来たんです」
「えっ」
そして、さらに信じられないことを口にした。
「私は……あなたの娘です。
――はじめまして、お母様」
あまりにも突拍子のない告白に、マリエルは瞬きを繰り返した。
冗談にしては、ルシアの顔はあまりにも真剣だった。
「あの、私の子どもって言われても」
にわかには信じ難い話で、マリエルは戸惑った。
けれど――どうしてだろう。
目の前の少女を見ていると、胸の奥がきゅう、と締めつけられる。
悲しいわけでも、苦しいわけでもない。ただ、この子を放っておいてはいけないような、今すぐ抱きしめなければならないような、そんな妙な衝動がこみ上げてくるのだ。
もちろん、娘だと言われたからといって、すぐに信じられるはずもない。
マリエルはまだ結婚すらしていないのだから。
それなのに。
(この子は、本当のことを言っている)
なぜか、そんな気がした。
根拠なんて何ひとつないのに、心のどこかではもう知っているような、不思議な感覚だった。
「お母様は、六歳の誕生日に、本当は欲しかったお人形を従妹に譲ったでしょう」
「なっ!? なんでそのことを……」
「へへ、未来の娘だから」
泣いていたはずなのに、ルシアはほんの少しだけ得意そうに笑った。
その笑い方を見た瞬間、また胸が締めつけられた。
初めて見るはずなのに。
どうしてか、ずっと前から知っていたような気がした。
「あのね。お母様は、あの人――ジュリアンと結婚したの」
ルシアは、ゆっくりと話しはじめた。
グレイフォード伯爵家に嫁いだマリエルは、領地の経営から使用人の雇用まで仕事のすべてを背負わされることとなった。
一方のジュリアンは王都で遊び歩く生活を続けており、家を空け続けたのだという。
「お母様はいつも、大丈夫って笑ってた。でも全然大丈夫じゃなかった。私が熱を出すたびに眠らず看病して、仕事を押しつけられても断らなくて、最後まで誰にも迷惑をかけたくないって言って……それで無理して、死んじゃった」
マリエルの膝の上に、ぼろぼろと大粒の涙が落ちた。
「お葬式の日、父は泣いてたの。僕は何も知らなかったって。知らなかったんじゃない、知ろうとしなかっただけなのに。被害者ぶって!」
ルシアがマリエルの手を掴んだ。冷たい手だった。
「だから、お願い。あの人と結婚しないで」
「でも……それでは、あなたが生まれないわ」
「いいの」
ルシアは笑った。
「私、お母様がいない世界で生きるくらいなら、生まれなくていいわ」
「嫌よ!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
それは、生まれて初めて胸の奥から飛び出した、マリエル自身のわがままだった。
「あなたが生まれない未来なんて選べない。だったら私が気をつければいいのよ。無理をしないようにして、ジュリアン様にもちゃんと――」
「駄目!」
ルシアが、悲鳴のような声で否定する。
「お母様の『大丈夫』は信用できない! 今度は無理しない。今度こそ大丈夫って。何度も、何度も……でも、結局」
ルシアの目から、また涙がこぼれた。
「お母様は、もっと自由に生きられる人と結婚すべきだったの」
自由に生きるなんて。
果たして、自分の人生について、真剣に考えたことがあっただろうかとマリエルは思う。
マリエルは今まで、求められた役目を果たすことが、令嬢の正しい姿だと思っていた。
少しくらい苦しくても、自分さえ我慢すれば誰も困らないのだから、と。
けれど、その生き方の果てで泣いているのが、自分ではなく娘なのだとしたら。
それでも同じ道を選ぶことを、本当に「我慢」の一言で済ませていいのだろうか。
「私は、お母様に私を選んでほしくて来たんじゃない」
ルシアは震える声で続ける。
「お母様に、お母様の人生を選んでほしくて来たの。それが私の願いなの……」
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちていく。
これまでマリエルは、我慢することを優しさだと思っていた。
けれど、その優しさのせいで、未来のルシアは母を失い、過去までやってきてしまったのだ。
ならば、今度こそ。
自分のために選ばなくてはいけない。
それがきっと、ルシアがここまで来てくれた意味なのだ。
「……分かったわ」
ルシアの手を、絶対に逃がさないように包み込む。
「あなたが時を越えてまで来てくれたんだもの。もう我慢はしないわ」
「お母様」
これが正解なのかはわからない。
だけど、もう自分の心に嘘をつくのはやめるのだ。
「私、ジュリアン様と婚約破棄します」
その言葉に、ルシアは安堵したような笑顔を浮かべた。
そんなルシアを見ながら、オスカーはなぜか「そういうことか」と笑っていた。
◇
婚約破棄は、思っていたよりもあっさりとカタがついた。
マリエルが両親に事情を打ち明けると、父はその日のうちにグレイフォード家へ出向いた。ジュリアンの両親は息子のふるまいをほとんど知らされておらず、話を聞くなり激怒した。
ジュリアンだけが最後まで、マリエルなら許してくれると思っていたらしい。彼は王都から領地に強制送還され、遊ぶ間もなく朝から晩まで働かされているという。
婚約破棄の書類が正式に受理されたあと、ルシアは未来に帰ることになった。
「未来に帰ったらルシアが消えてしまうんじゃないの?」
「大丈夫よ、お母様。きっとうまくいくはずだから」
マリエルの心配をよそに、ルシアは、明るく笑って「またね」と言いながら消えていった。「さよなら」ではなかったことが、何より嬉しかった。
もしかしたら本当に、また会えるのかもしれない、なんて。
そして、オスカーがアークライト伯爵家を訪ねてきたのは、それからひと月も経たない頃だった。
「実は、婚約者を探してるんだけどさ」
「それ、ずっとおっしゃってますね」
「ああ。ずっと目の前にいるんだけど、気づいてくれなくてさ」
彼が前々から探していたという婚約者が誰のことだったのか、マリエルはそのときようやく理解した。
いつ言おうか迷っている間に、マリエルが婚約してしまって言いそびれていたらしい。
二人が結婚したのは、その翌年だった。
◇
「ルシア、そっちは石が多いぞ」
オスカーの声がして、マリエルは書きかけの手紙から顔を上げた。
芝生の上を娘――ルシアが駆けていく。少し体が弱いけれど、可愛くて仕方のない我が子だ。
やがて足音がこちらへ戻ってきた。ルシアはマリエルの膝に手を置くと、背伸びをして手元を覗き込んだ。
「お母さま、またむりしてる。お茶にするっていったのに!」
「これくらい大丈夫よ」
そう言いかけて、マリエルはルシアがじっとこちらを見上げていることに気が付いた。
「お母さまの『だいじょうぶ』は、しんようしちゃメッなんだから」
その言葉に、マリエルはペンを置いた。
「……それ、どこで覚えたの」
「しらない。でも、ほんとう、でしょう?」
マリエルはルシアを抱き寄せた。柔らかくて、あたたかくて、大切な――。
「おかえりなさい、ルシア」
「変なの。ずっとおうちにいるのに」
その言葉にオスカーが笑って、二人まとめて抱き込んだ。
「じゃあ俺も交ぜてくれ」
「お父さま、苦しい!」
三人の笑い声が、大きく響き渡った。
ちなみに、オスカーが時間魔法を完成させ、ルシアが病弱令嬢を演じることになるのは、まだ十年以上あとのお話である。




