三葉 四節 父様の告白
視界を占めるのは、萩太郎の大きな背中。
――この背中を頼もしいと感じるのは二度目ですね……。
泣きすぎてぼんやりとした頭で、二度目がこんなにも早く訪れたことに、場違いな驚きを覚える。
そんな私の前に、丁寧に火熨斗をかけられた手巾が差し出された。
「菜乃華様、これを……」
「なずな……」
手巾の先へ視線を向けると、そこには今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で私を見つめるなずながいた。
口を強く引き結んで堪えているなずなに、今の私は何も言葉を掛けることができない。
せめてと、私は差し出された手巾を手に取った。
「ありがとう、なずな」
「お礼なんてっ……!私は……、私は、菜乃華様のことをっ……!」
そう言うと、言葉を詰まらせたなずなが口元を手で覆う。
なずなの堪えきれなかった嗚咽が、静かな部屋に流れた。
――なずなは、私のために泣いてくれているのですか……?
いきなり泣き出したなずなに困惑していると、反対側に控えていたせりが動く気配がする。
せりはそのままなずなの横に正座し、深く頭を下げた。
「なずなの代わりに僕から……。僕たちは菜乃華様のことを誤解してました。その謝罪を」
「誤解……?」
「……菜乃華様が、僕らと同じ“混じりの仔”であることは理解してましたが、王族である以上、守られて育てられたとばかり……。僕らが受けたような迫害なんてなかったのだろうと思っておりました」
「あ……」
「言及はされませんでしたが他にも被害はあったのでしょう?……表立った暴力より、周囲からの無視や嫌がらせの方が多かったのですよね?」
僕らにも覚えがありますので、と話すせりに対して、父様と爺やが息を呑んだのが分かった。
「菜乃華、それは……!いや……」
萩太郎の向こうで、父様が立ち上がる。
けれど、父様は長い沈黙のあと苦しそうに呟いて、居住まいを正す衣擦れの音が聞こえてきた。
「……今の私が、菜乃華に触れてはいけないね」
その声が、今は何故か遠くに感じる。
隣に控えるせりとなずなが身じろいだ。
「萩太郎君、座ってくれ。……君の疑問に答えよう」
父様が告げる。
その言葉を受けて、萩太郎は私の前から立ち退き、先ほどまで座っていた場所に戻っていった。
萩太郎が立ち退いた瞬間、私とよく似た新緑の瞳と目が合う。
覚悟を決めたその瞳に、体の芯を射貫かれた。
「……菜乃華」
私にとっては気の遠くなるような、けれど、実際はほんの僅かな沈黙を、父様が破る。
何度も呼ばれた自身の名前に、これほど緊張したことはなかった。
「おめでとう、菜乃華」
「……え?」
「話の規模が大きすぎて言うのが遅れたね……。すまない。けれど、」
私は、菜乃華が神託の儀を終えたことを、心の底から誇らしく思っているよ。
「それだけは、信じてほしい」
「あ……」
父様の言葉が届いた瞬間。
止める間もなく視界がまた涙で滲む。
ぽろぽろと、頬に涙が零れていくのを肌で感じた。
「……父様。とう、さまっ……!」
あぁ、そうだ。
私はただ、父様からの“おめでとう”が聞きたかったのだ。
「ありがとう、ございます……!」
「……で?親子の情を確かめる前に、早く理由を話してください」
「お前っ!!」
少し離れたところから、やけに冷えた萩太郎の声がする。
爺やが発する威圧で、場の空気が一気に重たくなった。
――……相手は父様なのに、どうして?
私の扱いはぞんざいな萩太郎だけど、父様に対しては王族として弁えた態度を取っていたのに。
ちらりと萩太郎を見やる。
萩太郎は爺やの威圧にも屈することなく、ただ憎しみを込めた瞳で私と父様を睨み付けている。
――……私だけでなく、父様も?
萩太郎の憎しみは、いつも私に向けられていたものとどこか違うように感じた。
「爺、いい。下がって」
「ですが、柊哉様!此奴は!」
「分かっている。けれど、今は菜乃華の方が先だ」
そう言いながら、父様も冷ややかに萩太郎を睨み付ける。
その体から、そよ風とともにふわりと新緑の光が舞った。
「……君にも分かるように話すから、親子の会話に口を出さないでくれ」
「……っ、申し訳、ありませんでした……」
巫術も使った牽制の言葉に、さすがの萩太郎も我に返り頭を下げる。
――父様が、誰かを威圧するために巫術を使うのを初めて見ました……。
そのことを、嬉しいと思う私が確かにいる。
父様は萩太郎を冷たく一瞥して、巫術を収めてから私と向かい合った。
そして、いつもより硬い表情で語り出す。
「まず、事実を正確に伝えさせてほしい。言い逃れをするつもりはない」
謝罪するように視線を床へ落としながら、父様が静かに言葉を続けた。
そして静かに息を吐いて、床に落としていた視線を私へと定める。
「私は、神託の儀に関しては書を隠してはいないよ」
「え……?」
「直近だと榊君、その前のあざみ様の儀の内容に関しては記録を残し、書庫殿に保管してある。もちろん、菜乃華が手に取れる範囲に」
「そう、なのですか……」
――執行人に関する書は隠されていましたが……。お二人の儀の内容について知らないのは、単に私の目に入らなかったからなのですね……。
執行人の時のように、父様がわざと目に付かないところに隠した訳ではないと知れて、ほっと安堵の息が漏れる。
けれど、穏やかな気持ちでいられたのは、次の父様の言葉を聞くまでだった。
「書は隠していない。けれど……菜乃華がそこへたどり着かないよう、私は黙っていた。それは隠したのと同じだと思われても仕方がない」
「……え?」
「……私は、菜乃華に二人の儀の内容を知って欲しくなかったんだ。なぜなら、」
二人が賜った神託は、特殊すぎた。
「ちょうど、今日の菜乃華の神託の儀のように、ね」
「特殊……?あざみ様と榊様が、私のような……?」
言われた言葉をただ繰り返すことしかできない私に、父様は静かに頷く。
そして、いつものように茶器に手を伸ばそうとして、茶が準備されていなかったことに気づき、決まり悪そうに伸ばした手を膝の上に戻した。
「そう……。菜乃華は、神託の儀を行うと具体的にどのようなことが起こるのか、読んだことはあったかい?」
「え?……あ、」
ひどく静かな目で私を見つめる父様に、まさか、と声が漏れる。
愕然と父様を見る私に、父様は目を逸らすことなく頷いた。
「そう、それについても、書はあったけど菜乃華を誘導しなかった。……二人の神託を知ることで、混血で巫術の才なしと忌避されている菜乃華に、余計な重圧を掛けたくなかった。それが、菜乃華を宮廷から守ることだと思ったんだ……」
後悔に濡れる父様の呟きは、胸の内まで届かない。
今の私には、その言葉を素直に受け取ることができなかった。
――父様は、記録を隠しはしなかったけれど、私に教えることはしてくれなかった……。
それは父様なりの理由があったのだろう。
けれど、私が知らないままでいることを望み、黙って見過ごしたことを、正しいと受け入れられない。
幼かった私に、知らせなくてもいいと判断されたこと。
それが、ただ、悔しくて悲しい。
「……なら、今、教えてください」
悔しさを押し殺して、父様に問いかける。
「神託の儀で起こることを。……あざみ様と、榊様の神託の儀で何が起こったのかを」
正服の裾をわずかに握りしめ、父様の瞳をただ静かに見据える。
「……あぁ、分かった」
覚悟を決めた同じ色の瞳が、静かに閉じられた。




