第13話「全艦隊、阿鼻叫喚(後編・最終回)」
ゴンザレスがコーヒーメーカーを拭いていた。
200隻に包囲され、要塞が待ち構えている状況で、コーヒーの準備をしている人間がいた。誰も何も言わなかった。なんとなく、ゴンザレスがコーヒーを淹れ始めたということは、この戦闘が終わるという意味な気がした。根拠はなかった。なんとなくだった。
「行きます」レオンが操舵桿を握った。
「待ちなさい」エレナが言った。「レオンが包囲網を抜けながら要塞後方に回り込む。バルドが排熱口を狙う。シドはエンジンを維持する。クロエは座標をバルドに送り続ける。トビーはレーダーを維持する。マリアは——」
「敵の通信が来たら対応します」マリアが言った。
「コールセンター対応はなしで」
「……善処します」
「艦長は」
「みんなに任せます」アランが言った。「みんながやることを信じます」
エレナが何か言いかけて、やめた。前を向いた。
「行きます」
レオンが操舵桿を引いた。
『アルテミス』が動いた。ゆっくりと始まり、急加速した。全員がシートに叩きつけられた。ゴンザレスだけがコーヒーメーカーの前で微動だにしなかった。
「敵、右舷から来ます!」トビーが叫んだ。
「バルド」エレナが言った。
「撃ちます」
右舷の敵艦2隻が光った。穴が開いた。レオンが操舵桿を倒した。直角に近い旋回で穴を抜けた。オリヴィアが椅子から半分落ちた。
「Gが——」
「すみませんっす!」
包囲網の外に出た。しかし要塞が待っていた。
「要塞、主砲チャージ開始!距離3万!」
「座標送ります」クロエが言った。「5秒ごとに更新します」
艦が要塞の横を駆け抜けるように動いた。要塞が追うように回転する。照準が旗艦を追いかけてくる。
「チャージ80%!距離2万!」
「シド」エレナが言った。
「出力を上げます。爆発するかもしれません」
「上げなさい」
「……了解です」
「チャージ95%!距離1万2000!」
レオンが操舵桿を引いた。要塞の巨大な影が艦全体を覆った。
「後方に出ます!今っす!」
艦が要塞の後方に滑り込んだ。
「排熱口、見えます!」トビーが叫んだ。
「バルド」エレナが言った。
「見えています」
クロエが5秒ごとに座標を送り続けていた。その隣の画面には、マリアへの詩の第七稿が表示されていた。
「チャージ99%!要塞主砲、発射直前!」
「バルド!」エレナが叫んだ。
「撃ちます」
バルドが発射ボタンを叩いた。
エネルギーが宇宙空間を走った。要塞が回転していた。排熱口が動いていた。エネルギーが排熱口の縁をかすめて——
入った。
0.5秒の静寂。
要塞の内部で何かが始まった。光が広がり、表面に亀裂が走り、砲台が次々と停止した。
そして要塞『ゴルゴン』が、静かに、しかし壮大に、爆発した。
爆発の光がブリッジのモニターを白く染めた。
バルドが射撃管制パネルを見た。当たっていた。
「当たりました」
「見えています」エレナが言った。
「当たりました」バルドがもう一度言った。
シドが機関コンソールを確認した。
「エンジン、無事です。爆発しませんでした」
「よかったです」バルドが言った。
「よかったです」シドが言った。
2人が顔を見合わせた。こんなふうに同意したのは、初めてだった。
レオンがオリヴィアを見た。
「Gが」オリヴィアが言った。
「すみませんっす」
「……でも」オリヴィアは少し止まった。「よくやりました」
レオンが少し笑った。
「トビー」クロエが言った。「レーダー、維持できていましたか」
「できてた」
「よかったです。あなたがいないと座標の更新が意味をなさないので」
トビーが少し驚いた顔をした。クロエに褒められたのは初めてだった。
「……ありがとう」
「事実を述べただけです」クロエはすでにタイピングに戻っていた。「マリアへの詩、第七稿を完成させます」
「あの、クロエさ」トビーが少し声を低くした。「せっかくだし、今夜一緒に食事でもどうかな。2人で」
「それは別です」クロエが即答した。タイピングは止まらなかった。
「別って——さっきの話と」
「さっきはレーダー担当としての評価です。食事は関係ありません」
「マリアと食事します」
「え」マリアが振り返った。
「今夜空いてますか」
「あ、は、はい——」
「では決まりです。トビーくんはまた別の機会に」
「別の機会って」
「ありません」
アランが艦長席に座ったまま、モニターを見ていた。エレナが振り返った。
「艦長、よかったですね」
「うん。みんながいてよかった」
エレナは何も言わなかった。前を向いた。その背中が、いつもより少しだけ柔らかかった。
そこに、ゴンザレスが現れた。全員分のコーヒーを、小さなトレイに乗せて。
全員の前に順番にカップを置いていった。最後にアランの前に置いた。
「……ありがとう、ゴンザレスさん」
ゴンザレスは何も言わなかった。
全員がコーヒーを持った。震えている手もあった。誰も何も言わなかった。ただ全員で、熱いコーヒーを飲んだ。それがこの艦隊の祝杯だった。
通信パネルに信号が殺到していた。
『要塞撃破、旗艦の勝利!』『旗艦『アルテミス』、伝説だ!』
マリアが通信パネルに向き直った。ヘッドセットを装着した。
「お電話ありがとうございます、銀河連邦軍旗艦——」
「マリアさん」エレナが言った。
「……失礼しました。旗艦『アルテミス』です。応答します」
本部からの通信が入った。
「要塞『ゴルゴン』撃破の戦果、確認した。銀河連邦軍史上最大の戦果として記録する。スターフィールド中佐、その卓越した指揮能力を評価し、旗艦乗員全員に最高勲章を授与する。また——第一宙域最前線への栄転を命ずる。即時赴任のこと」
沈黙。
「……最前線」アランが繰り返した。「今より危ないところに」
「そうなります」
アランはエレナを見た。バルドを見た。シドを見た。レオンを見た。オリヴィアを見た。トビーを見た。クロエを見た。マリアを見た。
ゴンザレスが戦闘で汚れたブリッジの床を、黙々と磨き始めた。
「床拭くんでどいてください」
全員がどいた。
アランはゴンザレスの邪魔にならないように艦長席の上に立った。
「了解しました。喜んで参ります」
喜んでいる顔では、まったくなかった。しかしそれが、旗艦『アルテミス』の返事だった。
『アルテミス』が動き始めた。
ブリッジでは、バルドとシドがすでに口論を始めていた。レオンが操舵コンソールに足を乗せて、オリヴィアに注意されていた。トビーがクロエの横顔を見ていた。クロエがマリアへの詩の第八稿に取りかかっていた。マリアが定期通信を処理しながら、ちらりとトビーを見ていた。
アランが4分遅刻してブリッジに戻ってきた。
「遅刻です、艦長。4分」エレナが振り返らずに言った。
「コーヒー取りに行ってた」
「艦長席への飲食物持ち込みは——」
「わかってる、わかってる」
アランはコーヒーを持ったまま、艦長席に座った。窓の外に、宇宙が広がっていた。星が見えた。
「天気いいなあ」
「宇宙に天気はありません」
「でもなんか気持ちいい感じがして」
「感じません」
ゴンザレスが、ブリッジの端から端まで、黙々と床を磨いていた。
旗艦『アルテミス』は今日も、どこかへ向かっていた。
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