9-2.礼羅
新月の日。陽光はまだ不十分ではあるものの、感情を揺らがなければ魔力が乱れることがないと分かると、その時の感覚を必死に覚えることで制御出来るようになっていた。妖力が減る新月でも血を吸いたくなる衝動は大分薄らいだらしい。
私の方は北の方やその女房の人達が朝から総出で私をめかし込んでいった。数日前から梅花の香ではなく、荷葉の香を髪や衣に焚き染められ、眉毛を抜かれたりお歯黒を塗られたりしたけど、私は今まで化粧をしたことがなかったので鏡を見た時は驚いたものだ。怖い。
「あの、本当に化粧しなければなりませんか」
「何を言っているのです。嵐山殿に見劣りしてはいけませんよ?」
ただでさえ着替えてからは何も口にするなと言われたのに。化粧をしたら今度は着替えだ。
夏真っ盛りの日に長袴を着たくない。
「あ、そうだ」
紗の袿や単衣が着る順番に並んでいるのを見て私はぽんと手を叩いた。
怪訝な顔をした北の方を前に私は妖術で姿を変える。北の方は頭を抱え女房の人たちはぽかんと口を開けた。
小袖だけの格好からたちまち夏仕様の装いに変化だ。
「これなら衣が軽く――」
北の方に扇で頭をはたかれた。
「文句を言わず着替えなさい。変化が解けたらどうするのです?」
世知辛い。
着替えてからしばらくすると北の対に陽光がやって来る。かしこんだ私を見ては無言で狐面を渡してきた。今度は目元だけ隠せるものだ。目には穴が開いている。
「どうしたのよそれ」
「……帝には赦しを得た。お前の顔を見て疑われたら困るだろ」
母親のことだろうか。そこまで気にすることだろうか。
「そんなの簡単には分からないでしょう?」
「帝が暗闇で察するくらいだ。他の貴人が気付くかもしれないだろ」
気分は良くないが仕方ない。付けるよう頼めば無言で背中に回っては面を付けてくれる。だけど陽光の手がおぼつかなかった。
「礼羅」
「なに?」
「……いや」
何か言おうとして口をつぐんだように聞こえる。
『そんなに内裏が怖いなら抱き締めてあげましょうか』
「だっ!?」
「嵐山殿?」
「い、いやなんでもない」
近くにいた北の方が扇の下で怪訝な顔をする。
『そんなことしなくていい!』
冗談言ったつもりなのに思ったよりも初心な反応をされて逆にこっちが照れる。
「見とれていたならはっきりと仰ったらどうです?」
「……違う」
いたたまれない。
昼餉を軽く食べまた化粧を塗り直していると、残月が晴明の屋敷に迎えに来た。
「よくお似合いですよ」
「それはどうも」
残月は嘘でも歯の浮くことを言う。私の顔はお面を被っていても嫌そうな顔が目に見えているだろう。
晴明は既に出仕しているため乗るのは陽光と私。晴明の長男の吉平が惟也の代わりに、そして意外にも私の付き添いと称して椿がついてきた。
残月は内裏に入る面子を見回す。その笑みは本当に虫唾が走るから見ないで欲しい。そして梅ではなく白い椿の花で彩られた扇でしっかりと顔を隠す椿に残月が視線を交わすと眉を下げる。
「宮中は避けておいででしたのに、お互い苦労しますねぇ」
「……有明の君ほどではございません」
意味ありげな会話だ。巫女と神祇官だし以前より関わりがあったのだろうか。
吉平が残月の前に出た。
「有明の君、本日はよろしくお願いいたします」
「吉平殿は内裏は初めてでしたねぇ」
「ははは、父上ではないのでこの身で帝にお目にかかれることはあまり……」
「意外ですねぇ。陰陽寮に籍を置きながら様々なところに行っていると聞きますが」
「所詮小僧の使いですよ」
それから椿が終始黙っていることが妙に感じたのだった。




