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【二部 四章】 深夜の客、視人、カティーナの忠告

 横たわったまま、視線をめぐらせる。

 左がわで、器に入った蝋燭の火が揺れている。そのわきに瓶と杯が置いてあった。

 ようやく自分がどこにいるか思いだした。それから例の穴が――埋められてしまった穴のあとが――脳裡に浮かんできた。

 寝間着の袖から杖を引きぬく。片手をついて上体を起こした。のどがひどく渇いている。

 特別な氷を溶かして作ったという水を杯に注ぎ、ゆっくりと飲んだ。

 外で風が鳴っている。高い場所にいるからか、やけに大きく聞こえた。

 異変が起きたのは、二杯目を注ごうとしたときだった。

 あけはなしてある戸口の向こう――うす暗い居室のほうで、ぱちっと音がした。瞬くほどの間ではあったが、雷光に似た細長い線が、枝わかれしながら宙をはしった。

 杯をそっと台に置く。すこし迷ったがベッドから出るのはやめた。動けば、フォッテが起きていると気づかれるきっかけになりかねない。

 ため息の音――足音も聞こえた。だれかが居室にいる。しかも、こちらへやってくる。

 魔法を使うのは、もうすこしあとだ。できるだけ引きつけてからのほうがいいだろう。

 戸口の向こうに立った人影は、背が低くて恰幅がよかった。カティーナではない。馬車でフォッテを連れてきた男でもない。そしてもちろん、女王のはずもない。

 無言のまま、侵入者はするりと寝室へ入ってきた。

『ヘテロ』

 思いえがいたとおり、瓜と同じぐらいの大きさの火が杖の先に現れた。

 侵入者が片手をあげる。眼のあたりをかばいながら「まぶしい。火を消せ」とつぶやく。

 フォッテはあわてて火を消した。聞きおぼえのある声だった。豆粒ほどの火を灯しなおして、戸口に駆けよる。思いがけない客――そしてなつかしい客だった。

「ゲッセンバウムさん」

 しかめっ面で、彼は小さくうなずいた。奈落の街で会ったときと同じように下くちびるを突きだしている。フォッテに自慢した長い杖を持っている。ただし服装は大ちがいだ。立派なマントを羽織り、スカーフを首もとに巻き、きちんと折り目のついたズボンを履いている。足もとは、つま先の部分がぐるりと巻きあがった靴だ。

「怪我はないな?」言いながら、ゲッセンバウムはフォッテのわきを通りすぎた。足早に寝室の奥へ向かう。部屋のすみまで行って、こちらへ向きなおった。

「ゲッセンバウムさんも、この城にいたんですね。女王に降伏したんですか?」

「まあな」

「よかったですね。おいしいものを食べて、気持のいいベッドで寝ているんですね」

 ゲッセンバウムが舌を鳴らした。「この、うつけ者」

「え?」

「そんなわけがあるか。固くなった肉をかじり、冷めたスープをすすっておるわ。戦場のただなかで、血と泥水を浴びながらな」

 あの女は牛馬のように人を使うからなとつぶやきながら、ゲッセンバウムは瓶を取った。杯に注いで一気に飲みほす。「うまい。ここまで飛びどおしだった。もうのどが渇いてなあ。よし、いまからおまえを逃がしてやる。行くぞ」

 杯を台に置いた彼が居室へつづく戸口へ向かう。

「待ってください、わたしは朝までここにいます」

「なんだと?」

「勝手にこの部屋から出てはいけないと、言われています」

「おい――」空いているほうの手で、彼はごしごしと肉づきのいい頬を撫でた。「おいおい、フォッテ。おまえ、アリアになにを吹きこまれた?」

「弟子になれと言われました」

「断ったんだろうな?」

「はい。でも女王は、お母さんをもとにもどすと――一緒にここで暮らせばいいと言ってくれました」

 ゲッセンバウムが鼻で笑う。「それで? おまえはその言葉を信じたのか?」

「女王にはとてもよくしてもらっています。お料理も、お風呂も、きれいな服も――」

 まとわりつく羽虫を払うように、禿頭の小男は素早く手を振った。「最初だけだ、そんなもの。夢見心地にして気概をくじく。贅沢に慣れきったところでしつけがはじまるぞ。半年もしたらおまえはあいつの愛玩物だ。犬や猫と同じだよ」

「そんな――」

「おまえの母とは、この城で再会できるかもな。三ヶ月ほどは楽しく暮らせるかもしれん。だがそれから、魔法も使えない母はどうなる? アリアには呆れるほどの加虐趣味がある。だれかの哀しむ顔を見るために、常人には思いもよらないような非道な真似を躊躇なく実行する女だ」

「――信じられません。あの人は、そんなことをするようには見えませんでした」

 にっと歯を見せて、ゲッセンバウムが笑う。「一度や二度話しただけで、なにがわかる? アリアはおまえに外法の話をしたか?」

「はい。大きな板に映る、動く絵を見ました。あれは外法だと女王は――」

「そうだな。あの絵、どうやって映していると思う?」

 そんなことは考えもしなかった。見当もつかない、とこたえた。

「〈視人〉というものを使う。現地へおもむき、絵を映す者をそう呼ぶ。視人になるよう命じられた者は、まず眼球をふたつともくり抜かれる。眼窩の奥から頭部の中心まで孔を穿たれる」ゲッセンバウムが、自分のひたいのまん中あたりを指した。「孔はこのあたりまで達する。そこにくさび状の器具を埋めこむ。器具の尻からは特殊な紐が伸びていて、丸い魔法石につながっている。そいつを目玉の代わりにはめこむ。これで行程の半分が終わる。水をくれ」

 杯に水を注ぎ、手わたした。

 ゲッセンバウムはいきおいよくあお向いて、杯の中身をひと息で飲みほした。「うまい。こいつがアリアが自慢していた、永久氷塊を溶かしたという水なんだろうな」

「そう、聞いています」突きだされた空の杯に、水を注いだ。

「この一杯のために、どれだけの者がどれほどの苦労をしているか、一度考えてみるといい。さて、つづきだ。魔方陣のことは知っているな?」

 うなずいた。拘禁世界へ行くとき、シュピールの手ほどきで魔方陣を使った。

「視人は全身にびっしりと入れ墨を彫られる。絵柄はアリアお手製の、亜流の魔方陣だ。つまり視人自体が移動式の魔方陣となるわけだな。そいつを目的の場所へ運べば準備完了だ。視人は目にしたもの――眼球がわりの魔法石に映った光景を、己の体に描かれた魔方陣を通してアリアのもとへ送る。やつはいつでも居ながらにして、その光景を見ることができる。あの半透明の板でな」

「それは――すごい技ですね」

 ゲッセンバウムが指を二本立てた。「視人の寿命はおよそ二年だ。体に負担がかかりすぎるせいだな。板に映る絵がぼやけはじめたら、替えどきなんだと」

「女王がそう言ったんですか?」

「他にだれが?」ゲッセンバウムが笑う。「視人は現在、千人程度いるそうだ。それが二年ごとに入れかわる。これまでにいったい何人が犠牲になったことか」

 彼はまだなにか言っていたが、よく聞きとれなかった。ふいに目まいがして、声が遠ざかってしまったのだ。

 気づくとフォッテはベッドに腰を降ろしていた。

「おい、フォッテ。大丈夫か。気分でも悪いのか?」

「いえ。目まいがしたんです。もうおさまりました」

「――アリアがおまえを引きこみたがるのも、まあわかる」わずかに語調をゆるめて、ゲッセンバウムは言った。「どういうわけか、あいつは清らかな心とか思いやりとか、そういうものを蛇蝎のごとく嫌うんだ。そういう性質の持ち主を虐めるのが大好きなんだよ。それも暴力を振るったり、どこかにとじこめたりするわけじゃない。そいつが自ら非道な行いをするように仕向けるんだ。そしてそいつの性根が腐りきったら、ぽいと捨てる」

 おまえもそのうち捨てられる、とゲッセンバウムはつけ加えた。「わかったな。ではこれから城を出る。ついてこい」

 頭を振ると、また目まいがした。「ごめんなさい。わたしは行きません」

「なに? なぜだ?」

「ランドルフとシュピールさんは、死んでしまいました」

「死んだ?」ゲッセンバウムがつぶやいた。「あいつらが?」

「わたしは、わたしの力だけでは生きていけません」口にすると胸が熱くなり、目の奥が熱くなり、涙があふれだしてしまった。とめようとしたが、思うようにいかない。

「おい、泣くな。おい」ゲッセンバウムが腰をかがめた。「わかったわかった、明日一日考えろ。アリアはおまえを囲いこもうとしている。いきなり怪我をさせられることはないだろう。ただし、明日の夜までには決めろよ。明後日になると遠征中の大軍が帰還する。そうなるとさすがにわしでも、無傷でおまえを連れだすのは難しい」

 しゃがみこんだ彼が、やさしくフォッテの手を取った。「わしを呼ぶときは、このテントウムシを使え。普段はじっとしているから窓ぎわにでも置いておけばいい。脱走を決意したら、爪の先で三度こいつの尻を撫でろ。そうすれば、こいつはかならずわしのところへもどってくる。どれだけ離れていてもな。では、わしは行くぞ。夜が明けるまえに戦場にもどらなければ」

 上体をあげたゲッセンバウムが、杖をわずかにもちあげた。

 紫色の光が杖の先に現れる。木の根のように枝わかれしながら素早く伸びて、部屋中に広がった。天井や壁や床に突き刺さって、すぐに見えなくなる。

「いまのは、なんの魔法ですか?」

「周囲の様子を探る魔法だ。監視魔法の有無をたしかめて、それがある場合は他所へ注意を引きつける。わしはこれが得意でな。アリアといえども、わしが探りを入れたことには気づかないはずだ。もちろん、いまこの城にいる他の魔法使いどももな。ちなみに現在にかぎって言えば、この部屋に監視魔法はかかっていない。安心してお休み」

「ありがとう、ゲッセンバウムさん。わたしのことを気にしてくれて」

 禿頭の魔法使いはあごを引き、むにゃむにゃとなにかつぶやいた。それから杖を傾げて、先ほどとは別の呪文を早口で唱えた。

 濃い霧に包まれたように、彼の姿がぼやけていく。そのまま見えなくなってしまった。

「念のためだ。では」

 足音が居室へ向かう。

 送るつもりで、フォッテも居室へ入った。

 ゲッセンバウムの足音は、白い扉のほうへ進んでいった。扉がひらき、すぐにとじる。

 しばらくのあいだ、フォッテは暗い居室で立ちつくしていた。

 風が鳴っている。

 もう、眠気はみじんも感じなかった。


 翌日の朝食は、ベッドのなかで食べた。

 カティーナがお盆に載せた食事を運んできて、膝の上に置いてくれたのだった。

 しぼりたてだというオレンジの果汁を飲みほし、パンをちぎりながら、何気ない口調を装って訊ねた。「カティーナさん、わたしはこの城で暮らしたほうがいいと思いますか?」

 彼女は返事をしなかった。視線を落としたまま、じっと立っている。

「昨日、弟子になれと女王に言われました。カティーナさんはどう思いますか?」

 やはり無言――。

「わたしの母は、ゴドルフィンという街にいます。原因はわからないのですが、ある日突然石のように固くなってしまいました。もう二ヶ月以上、動くことも話すこともできません。女王は、母を治すと言ってくれました」

 カティーナが視線をあげた。

「この城で、母と一緒に暮らせばいいと言われました。そうするべきだとカティーナさんは思いますか?」

 フォッテを見つめたまま、カティーナは小さく、しかしはっきりと頭を振った。

「なぜですか?」

 彼女はお辞儀をして、部屋から出て行ってしまった。

 女王に呼ばれたのは、正午近くだった。

 昨日と同じ部屋でふたりきりになると開口一番、「返事は」と訊ねられた。

「ごめんなさい。まだ決めかねています」本心からの言葉だった。

 女王の様子に変化はない。今日の彼女は、光沢のある青いドレスを着ている。金色の首飾りがあごの下から鎖骨のあたりまでを覆っていた。表情が抜けおちた顔と抑揚の乏しい声は相変わらずだ。

「外法のことを、教えてもらえませんか?」ゲッセンバウムの言葉が、頭にこびりついていた。「外法というものについて、わたしはまったく知識がありません。母を本当にもとにもどせるのかどうかも、わからないのです」

「わたしが、治せると言っている」

「はい、それはわかっています。でも、安心したいんです」

 女王は左手のなか指で二度、肘おきを軽く叩いた。「いまはすこしだけ時がある。おまえに講義をしてやろう。外法だけでなく、魔法の根幹にも関わる重要な事柄だ」

「――お願いします」

 女王が宙に視線を向ける。そっと背もたれに寄りかかり、幼い子供に言い聞かせるような口調で話しはじめた。「魔法は、自然に寄りそう技だ。火や氷や雷を形作っているものは、すべて同一のごく微少な自然物である。人の体も同様だ。馬も鳥も、花も虫もだ。魔法はこの考えに依っている。大気や生きものの体内に流れるその微少なものに、魔法使いは働きかけ、利用する。わかるか?」

「はい。いえ――なんとなくですが」

「その微少なものを精とか気と呼ぶ。おまえは火の魔法が得意だろう。おまえの精神は火の精と相性がいい。思念が届きやすく、向こうもおまえの望みを叶えようとする。わたしは氷の魔法が得意だった。いつでもちらりと思い描くだけで氷の精が集まり、動きだす」

 彼女の右手の指先――きれいに整えられた五つの爪の先端に、透明な筋が現れた。上へ伸びていきながら次第に太くなり、植物の茎のような形に変わる。五本の筋は天井付近でひとつにまとまった。ふくらみ、なめらかに形を変えて、鎧を装けた屈強そうな騎士の姿になる。

「できて当然と思うことだ。魔法を使うなら、それがもっとも効率がいい」

「はい」

 床に降り立った氷の騎士が、馬に姿を変えた。さらに鷲になり、巨大な蛇になり、最後に背中に羽を生やした女性の姿になった。

「こういうことも、すぐできるようになる。実際に目の当たりにすれば、成長は早い」

 ぱっと彫像が砕けて、霧のように広がった。次の瞬間には、あとかたもなく消えていた。

「外法は魔法の逆だ。自然の理に背き、ねじ伏せ、上位に立とうとする技だ」

 フォッテは黙ってつづきを待った。なぜか脈が早くなっている。

「腑に落ちないという顔をしているな」

「いえ、そんなことは。ただ、よくわからなくて」

 ややあってから、女王はフォッテに訊ねた。「魔法には禁呪というものがある。知っているか?」

「禁呪の魔導書という言葉を、聞いたことがあります」

「あれは特殊な魔法だ。魔法のなかでは、もっとも外法に近い」

 また、しばらく間があった。

「おまえは試しの門を通ったな?」

「はい」

「あれは自然の理に反したものだ。どこかにあれを造った者がいなければおかしい。いまのところ、そいつの正体も居場所もわからない。試しの門がああやって動く理屈もわからん。禁呪についても同様だ。わたしはああいう不可解なものの秘密を解くために、自然に逆らい、ねじ伏せる力を探求している」

 思いきってフォッテは訊ねた。「人をたくさん殺しても、知る必要がありますか?」

「当然だ。人の命の重さは、小麦の種ひと粒に等しい」

「そんな――」

「植物だろうが、昆虫だろうが、ひとつの命であることに変わりはない。人の首をもぐときに躊躇するなら、花を摘むときも同じように感じなければ不平等だろう」

 理屈はわかるが、心が受けつけない。そう言うと、女王はわずかに眼を細めた。

「魔法と外法を極めていけば、そのうちそういう境地に達する」

 しばらく、静けさがつづいた。

「女王様。外法には、どのようなものがありますか?」

「面白いものがいろいろとあるぞ。人の性格をがらりと変える。心身の若さを保つ。河を逆流させる。石にされた者を、もとにもどす」

「まちがいなく、できるんですね?」

「できるだろうな、わたしなら。そろそろ次の面会人が来るころだ。部屋へ帰れ」女王が肘おきの上で指を動かす。扉がひらき、半球形の帽子をかぶった男が現れた。

 戸口のまえまで行ったところで、女王に呼びとめられた。

「なんでしょう?」

「待つのは明日の朝までだ。それを過ぎるようなら、おまえの扱いを変える」

 返事をして戸口をくぐった。

 階段をのぼっていく。階上へ立つと、生きかえったような心地がした。


 部屋では、カティーナが待っていた。

「フォッテ様、湯浴みをしましょう」

 いまはそういう気分ではないとこたえたが、彼女は譲らなかった。

 しぶしぶドレスを脱ぎ、浴室に入る。

「髪を洗ってさしあげます」

 頭頂部へ湯をかけられた。

 カティーナが石鹸を泡だてはじめる。

 腐りかける寸前の果実のような、濃厚な甘い香りが漂ってきた。

 背後にまわったカティーナが、両手で髪を洗いはじめる。

「痛い!」つい大きな声を出してしまった。彼女の指先には、頭皮が破れてしまうのではないかと思うほどの力がこめられている。「カティーナさん、もうすこしやさしく洗ってください。痛いです」

「申しわけありません」と言ったのに、力加減は変わらない。

「ちょっと、痛いです!」立ちあがろうとしたら、肩を押さえつけられた。

「フォッテ様、動かないでください」

 彼女の吐息が耳にかかる。

 力まかせに頭皮をこすりながら、彼女は声を潜めて言った。「お逃げなさい」

「え?」

「お逃げなさい。わたしも昔、魔法使いでした。母の病を治してやると言われて、当時の師匠の制止を振りきり、女王の弟子になりました。母はたしかに快癒しましたが、その半年後、もっと重い病気にかかりました。そのとき女王はなにもしてくれませんでした。母は死に、わたしはいまではただの召使いです。あるとき女王に口ごたえをして、魔法の力を取りあげられたのです。振りかえってみれば、母が二度目の病を患ったのは女王の差し金ではないかと思うこともあります」

 肩ごしに振りかえった。病人のような青白い顔が、目のまえにあった。

「カティーナさん、もしそれが本当なら――」

 彼女が自分のくちびるに指をあてる。もう一方の手は休むことなくフォッテの頭皮をこすっている。「大きな声は厳禁です。どこに耳があるかわかりません。女王が作った耳が」

 うなずき、フォッテはつぶやいた。「今夜、わたしの知りあいが助けにきてくれます。カティーナさんも一緒に逃げましょう」

「ありがとう。でも、それはできません。わたしは以前、拘禁世界というところに堕とされました。そこにいることに耐えられなくなって、女王に許しを乞いました。そのとき、これを――」泡がついたままの手で、彼女はシャツの首もとの紐を引っぱった。ひらいた襟首をつかんでまえかがみになる。左右の鎖骨に、黒びかりするものが食いこんでいた。猫の足ぐらいの太さだ。

「奈落の街という場所から引きあげてもらう条件が、これを体に埋めこむことでした」上体を起こすと、今度は上着をめくり、シャツの裾を引っぱりあげた。ほとんど肉のついていない腹部があらわになる。みぞおちのあたりに、丸みを帯びた物体が張りついていた。色は黒く、表面に産毛のようなものが生えていて、かぶと虫の背中を連想させた。その異物の両がわから棒状の――やはりかぶと虫の足を思わせるものが、三本ずつ伸びでている。赤子が母親にしがみつくような感じで、カティーナの腰と背中と鎖骨に先端が食いこんでいる。

「女王が命じれば、これは動きだします」ひそめた声で彼女が言う。「人の首や腕を切断するぐらいの力は、あるのですよ」

「取れないんですか?」

「わたしよりずっと力のある魔法使いが何人も、これをはずそうとして死にました。なんらかの手段で剥がそうとすると、暴れだします。女王にも知られてしまいます」

 服をなおしたカティーナが、ふたたび両手を使ってフォッテの髪を洗いはじめる。

 眼をとじて痛みをこらえていると、彼女が顔を近づけてくる気配があった。

「充分、注意するように。捕まればひどいことになります。このまま城にいても結果は同じです」

 幸運を祈ります、とささやいてカティーナは手をとめた。

「さあ、すっかりきれいになりました」今度は大きな声で言う。「さっぱりしたでしょう?」

「痛くてびっくりしたけど、血の巡りがよくなったみたいです」ふり返る。力をこめて言い添えた。「カティーナさん、本当にありがとう」

「お安いご用ですよ」彼女は手桶を取り、フォッテの頭の上からいきおいよく湯を流しはじめた。

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