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【二部 五章】 暗闇での作業、旅路、王姫

 ま上に、くちばしを突きあげた。

 粉っぽいかすが、顔に降りおちてくる。

 あたりは完全な闇だ。物音はまったく聞こえず、乾ききった落ち葉のようなにおいが充満している。

 巨石の裏に通じるたて穴を埋めているのは、奇妙な物質だった。土とも砂ともちがう。くちばしから伝わる感触からすると、泡のような小さな粒が無数に寄りあつまっているようだ。縦穴の内がわの側面に張りついている部分だけでも、おれの体を支えるだけの強度がある。同時に、しつこくくちばしで引っかいていれば削ることができた。

 削りかすは、羽のあいだからもぐりこみ、肌に触れるとひどいかゆみを引きおこす。息を吸うと一緒に吸いこんでしまうし、まぶたをとじていても眼球の表面が痛みだす。叫びだしたくなるほど不快だが、耐えるしかなかった。

 四日まえ、ゲッセンバウムが訊ねてきた。その日から一日の大半をここで過ごしている。やつが床に落としていったちり紙には、走りがきの乱雑な文字でこう書いてあった。

〈裏の穴から。共闘しろ〉

〈詳細はロンユエから〉

〈この紙は燃やせ〉

 フォッテのことには、ひと言も触れていなかった。おれの気がかりは、まずそれだった。

 アリアの手の者に、なにかされていないだろうか。穴がふさがったことを知り、心配したり、悲しんだりしていないだろうか。

 そんなことは考えるだけ無駄だ、とシュピールは言った。感情を押し殺してやるべきことをやれ、と。やつは寝こんでいる。居室のすみに倒れたまま動けない。枯れ枝のような腕と足で戸棚を運んだ。シュピールにとっては、肉体の限界をはるかに超えた大仕事、三百年ぶりの重労働と言えた。

 命の危機が迫ったときに、平時とは段ちがいの力が突如として表出することがある。はるか昔のことではあるが、そういう瞬間をおれは戦場で何度も目にした。ただしそのあと数日間、人間ばなれした力を発揮した当人は使いものにならない。鍛えあげた肉体を持つ兵士でもそうなのだ。風が吹いただけで倒れこむようなシュピールの体が、どれだけ損傷したのか、おれには想像もできない。

 首の肉が、痙攣しはじめた。左右へ伸ばして突っぱっている足の力を抜いた。

 自室へつづく通路へ降り立つ。その場に伏して、体を休ませる。

 四日かけて、二度羽ばたく程度しか進んでいない。この調子だと地上へ出るのに早くてひと月、だらだら進めば五十日ほどもかかってしまう。

 幸いなことに、いまのところ窒息する気配はない。以前フォッテも気にしていたが、おれたちの住まいには空気を循環させるための狭い通路が数本通じている。そのうちの何本かが、まだ生きているようだ。ゲッセンバウムが故意に見過ごしたのかもしれない。その通気の道をおれが通れれば話は早いのだが、野ねずみも潜りこめないほど穴は小さい。くちばしで削って拡張したとしても、途中で天井や壁が崩れてくる怖れがあった。

 食いものにも、問題はない。肉の燻製、野菜の酢漬け、ハム、チーズ、ひまわりの種などが半年分は蓄えられている。問題は水だ。倹約してももってひと月というところだろう。

 舞いあがり、穴の側面につかまる。たて穴をのぼっていくと、頭頂部がぶつかった。半歩分下降して、ぱさついた物体にくちばしを突き入れる。

 作業を再開した。暗闇のなかでひたすらひとつの動作をくり返す。なんとなく頭をよぎるものがあった。はるか昔、同じようことをしていた気がする。ひとりで、だれに見られることもなく、一定の動作を気が遠くなるほどくりかえす。

 ――いつだったか。

 頭上の塊を削りながら、記憶を探る。

 しばらくしてから思いあたった。カラスになった直後のことだ。おれは当時属していた国を出て、ゴドルフィンまでやってきた。その行程と現在の状況には、たしかに似かよった部分がある。

 ただしあのときは、くちばしではなく羽をひたすら動かした。慣れない飛行をつづける以外に、シュピールらと合流する手段はなかった。

 飛ぶこと自体は、すぐにできた。あけはなされた城門から出て、平原を進んだ。そのうち肩口が硬直し、力が入らなくなった。こつがつかめずに無理な動かしかたをしていたせいもあったのだろうが、そもそもカラスの体は長い距離を飛ぶようにはできていないのだ。

 横にわたした棒にぶらさがり、両腕の力だけで体を引きあげる鍛錬がある。カラスがその両翼で上昇し、高度を維持するためには、羽ばたくごとにあの動作一回分と同等の力が必要だ。百回も羽を上下させれば、体が痙攣しはじめる。

 四つの国をまたぐ旅のあいだ中、わたり鳥だったらずっと楽だったろうにと、毎日のように考えていた。限界まで飛び、木陰に身を潜めて仮眠を取った。果実がなっている木を見つけたら食えるだけ食った。木の実も食おうとしたが、当時はうまく皮を向くことができなかった。

 飛行による消耗を回復するには、どうしても肉が必要だった。人が捨てた残飯をあさったこともあるし、やむにやまれずミミズやバッタや野ねずみで栄養を補給することもあった。

 体はすぐに汚れた。汗もたっぷりかいたが、行水をする気は起きなかった。自分の体が臭うことは自覚していたが、たいして気にならなかった。旅路について二十日ほど経ったころだった。唐突にその異常さに気づいて、おれは激しい恐怖と狼狽を感じた。自分が心まで獣になりかけていると思ったからだった。

 あるとき、人の言葉を操れることに気がついた。捕まえようとした野ねずみに逃げられて、悪態をついたときだったと思う。これはありがたかった。おかげでゴドルフィンの方角をたしかめ、進路を調整することができた。やりかたはこうだ。

 羊飼いを見つけたら、その付近で夜を待つ。彼らは羊とともに野宿をするのが常だからだ。夜が更けてから近づいていき、背後から声をかける。『振りかえったら殺す』と脅してから、現在地とゴドルフィンの方向を訊ねる。たいていの羊飼いはおれを野盗のようなものだと思いこみ、おびえながらもていねいに方角を教えてくれた。なかにはこちらを化けものかなにかだと早合点して、まともに口が利けなくなる者もいた。

 ゴドルフィンにたどり着くまでに、二ヶ月以上はかかったと思う。四十日目までは数えたが、そのあとは何日経ったのかよくわからなくなってしまった。

 街に着いてからが、また大変だった。シュピールと王姫がどこにいるか、まったくわからない。さらに言えば生死も定かではなかったが、それについてはできるだけ考えないようにしていた。

 しかたがないので、毎日街をうろつき、ふたりを探した。ある日の午後、北街区の通りで王姫を見つけた。庶民のような服を着ていたが、まちがいなかった。彼女は買いものかごを片手に提げて、ひとりで歩いていた。うつむき加減の顔には陰りが差し、往時の陽気な愛らしさはなりをひそめていた。

 声をかけたい衝動をこらえて、あとをついていく。路地の奥の、生け垣に囲まれたうらぶれた一軒家に彼女は入った。そこにシュピールがいるのだと確信しつつ、おれは窓に体を寄せた。一応、ふたり以外の者がいないかたしかめてから声をかけようと思ったのだ。

 部屋にいるのは王姫ひとりだった。木製の粗末な椅子に腰かけて、編みものをしている。

 くちばしで、窓を叩いた。

 三度目で彼女はこちらへ顔を向けた。

 おれは伸びあがり、羽を広げ、窓を突いた。

 王姫がおびえたような表情になり、顔をそむける。

「姫、ランドルフだ。あけてくれ」

 彼女がこちらへ駆けてきた。窓がひらく。「ランドルフ様?」

「そうだ。こんな格好だが、許してほしい」部屋に入った。「あなたに謝らなければならないことは山ほどあるが――とにかく無事でよかった。シュピールは?」

 王姫が眼を伏せて、頭を振る。いまにも泣きだしそうな顔つきだった。

 忌まわしい予感が足もとから這いあがり、背筋を通過して頭頂部へ達した。「あいつ、死んだのか?」

「いいえ」

「おお、そうか。あいつはどこにいる?」

 北街区のはずれにある、荒れ果てた墓地だという。墓地の一番奥の地面の下に、シュピールは魔法でねぐらを造ったそうだ。

「あなたはなぜここにいるんだ。ひとりじゃ危ないだろう」

 王姫の頭が垂れる。華奢な肩がふるえはじめた。笑い声をたてるようにして、彼女が断続的に息を吐く。

「わたしがいるのは、迷惑だそうです」言って、泣きはじめた。「王族でなくなったわたしにはなんの価値もないと、はっきり言われました。わたしはもう二度と、シュピール様には会いません」

 しばらくのあいだ、おれは途方に暮れて、泣きつづける彼女を見つめていた。

 ふたりの身に起こったことを訊きだし、墓場へ向かって飛び立ったのは、それからおよそ半刻後のことだった。

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