第拾肆話:時を刻む鏡と、九十九の行商
深夜の『幽心庵』。大黒柱に掛けられた竹筒から、瑠璃色の蕾がふわりとほころび、鈴のような『幽鈴花』が涼やかな音色を響かせていた。
「おや、お客さんだねぇ」
帳場で煙管をくゆらせていた猫股のクロが、紫煙の向こうで億劫そうに目を細める。
ガラガラと引き戸が開き、夜霧とともに足を踏み入れたのは、黒の着流しを羽織った男だ。鼻頭にのせたシルバーの片眼鏡の奥で、黄金色の瞳がニタリと怪しく細められる。背中には、年季の入った黒塗りの大きな行商箱。
「いやはや、幽鈴花が綺麗に咲いたものでね……今夜は実に香ばしいお出汁の匂いに引き寄せられましたよ」
男――骨董商に化けたあやかしの鳥・九十九が、片眼鏡を押し上げながら薄っすらとした胡散臭い笑みを浮かべる。
「……けっ。また妙な黒羽虫が舞い込んできたね。その胡散臭い笑みを引っ込めな、九十九」
クロが不機嫌に尻尾を揺らすと、九十九は「おや恐ろしい」と肩をすくめ、背中の大きな黒塗りの箱をドサリと床に下ろすと、カウンターの端へ腰掛けた。
「さて、九十九さん。今夜はどのようなご用件で?」
勘吉が尋ねると、九十九は懐に手を差し入れ、静かに二つの骨董品をカウンターの上に並べた。
ひとつは、ゼンマイが錆びてすっかり止まった「古びた振り子時計」。もうひとつは、長年の曇りに覆われた小さな「手鏡」だった。
「どちらも、買い手がつかなくてねぇ。『時を惜しむ者』と『過去を覗きたがる者』……どちらの人間にとっても、今の世では重荷すぎるらしい。黄泉行きにする前に、ここで処分していこうかと思ったんだがね」
九十九がひらりと手帳を翻すのを見ながら、店主の勘吉と、お桂がふふっと人間に化けた狸らしい余裕の笑みを浮かべて、そっと温かなお品書きを差し出す。
今夜のしつらえは、じっくりと煮込まれた優しい出汁の「鶏と野菜の温麺」と、香ばしく焼き上げられた「味噌焼きおにぎり」だった。
「おや、これはまた身にしみるご馳走だ」
九十九が箸を伸ばし、温麺を一口すすると、店内にふわりと香ばしい出汁の香りが広がっていく。
その温もりに包まれるように、テーブルの上に置かれた古い振り子時計と手鏡から、微かに白煙のような光が立ち上った。
時計には「進まなくなった時間を取り戻したかった男の悔恨」がこびりついていた。そして、小さな手鏡――その曇った鏡面からは、かつて遠い昔の戦火の時代、誰かを深く想いながら離れ離れになった切ない記憶と、かつて彼らを救ってくれた恩人が大切にしていた「ハマグリの殻のお守り」を思わせる、静かな温もりの気配がかすかに漂っていた。
カウンターの端から、クロがスッと音もなく降りてくる。
クロ自身もまた、古い時代を知るあやかしとして、その鏡や時計に宿る想いの重みを感じ取っていた。彼女はそっと前足を鏡の端に触れさせ、あやかしの少女らしい澄んだ声で、そこに宿る声なき想いを代わりに紡ぎ出す。
「……時計はね、ただ進みたかったの。鏡はね、あの人の優しさを忘れたくなかっただけ」
クロの言葉に、古い時計と手鏡の光がふわりと柔らかく灯る。
九十九は飄々とした笑みを崩さず、懐から「漆黒の化粧箱」を取り出そうとした。だが――。
「おい、待ちなよ九十九」
不意に、勘吉が太い腕を組み、腹の底に響くような据わった声でカウンターの上の時計と鏡に視線の落とした。その瞳の奥には、遠い日の恩人を想う切なさと、温かな確信が宿っていた。
「そのガラクタ、そいつらを黄泉路へ送ちまうのはまだ早いんじゃないかい?」
「おや、勘吉さん。うちの商売に口出しですか?」
「買い取るよ。その振り子時計と手鏡、うちの店に置いとくんだ」
九十九は片眼鏡の奥の黄金色の瞳をパチクリとさせ、それからふっと悪戯っぽく意味深に笑った。
「ほう……? 黄泉へ送るはずの未練の塊を、あえてこの『幽心庵』に引き取るとは。腹の黒いタヌキさんにしては、どうにも見過ごせない曰くがありそうですな」
「さあね。ただ、いつかこの時計が再び時を刻み始める日や、この鏡が映す記憶を……この店でのんびり見届けるのも、悪くねぇと思ってよ」
勘吉の言葉に、お桂が「まったく、うちの主人は昔からお人好しだからねぇ」と優しく目を細め、クロもふっと小さく鼻を鳴らしてうなずいた。
九十九はしばらく驚いた顔をしたあと、やれやれと肩をすくめ、愉快そうに声を立てて笑った。
「いやはや、これだから化け物どもが営む店は面白い。承知しました。お代は……そうですね、今夜の旨い温麺と味噌焼きおにぎり、そしてお勘定代わりに、その粋な計らいで十分に釣り合いますよ」
九十九は持ってきた化粧箱をしまい、ひらりと手を振った。
「それでは、この二つのガラクタは勘吉さんにお預けするとしよう。また面白いガラクタが集まったら、顔を出しますよ」
「ああ、いつでも来い。美味い出汁をとって待ってるよ」
勘吉に見送られ、九十九は黒塗りの行商箱を背負うと、黒い羽を一瞬だけ夜風に舞わせながら、月明かりの夜霧の中へと姿を消していった。
静まり返った店内で、勘吉はまだ針を止めたままの古い振り子時計を大黒柱の脇にそっと掛け、手鏡をカウンターの片隅に丁寧に並べた。
振り子時計は静かに佇んだままだが、手鏡の曇りはすっと晴れて、店内のあたたかな灯りを優しく映し出している。
止まった時がいつか動き出すその日を静かに待ちながら、新しい品を迎えた『幽心庵』の穏やかな夜が更けていくのだった。
第14話「時を刻む鏡と、九十九の行商」をお読みいただきありがとうございます。
今回は、骨董商のあやかし・九十九が再び『幽心庵』に顔を出すエピソードでした。
いつも通り胡散臭い笑みを浮かべ、クロと軽妙な小競り合いを繰り広げながらも、彼が持ち込んだのは「古びた振り子時計」と「小さな手鏡」という、行き場のない未練を宿した二つのガラクタでした。
九十九の行商と、あやかしたちの阿吽の呼吸:
片眼鏡に黒の着流し、そして相変わらずの飄々とした佇まいでクロをイライラさせる九十九。お互いに毒を吐き合いながらも、どこか信頼し合っているような絶妙な距離感が、幽心庵の夜の楽しさを一層引き立ててくれます。
勘吉の手仕事「温麺と味噌焼きおにぎり」:
じっくりと煮込まれた優しい出汁の「温麺」と、香ばしい「味噌焼きおにぎり」。身体の芯から温まる素朴な料理の湯気が、時計や手鏡にこびりついた冷たい記憶を優しく包み込み、解きほぐしていきます。
手鏡に秘められた記憶と、あたたかな買い取り:
黄泉路へ送られるはずだった二つの品を、勘吉が「この店に置いておく」と買い取る選択。特にお手製の小さな手鏡は、今後、物語の大きな縦軸へと静かに繋がっていきます。
まだ動かない振り子時計:
あえて時計の針を止めたままにしたのは、いつか訪れるかもしれない未来や、止まった時間が再び動き出す奇跡をゆっくりと見守りたいという、あやかしたちの優しい気まぐれです。
手鏡の曇りが晴れ、穏やかな灯りを映し出した『幽心庵』。
また次回ののれんの向こうで、どんな出会いが待っているのか――どうぞお楽しみに!




