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幽心庵の温かい日々  作者: 宵月 ゆう
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第拾参話 :ネコハギの揺れる夜

深夜の『幽心庵』。雨上がりの静寂の中、重い引き戸が音もなく開いた。

入ってきたのは、どこか抜け殻のような目をした若い男性・直樹だった。彼はつい先日、長年連れ添った愛猫を亡くしたばかりだった。部屋に残された空っぽのケージや、もう鳴かないおもちゃを見るたびに胸が締め付けられ、食事も喉を通らないほどの深い喪失感に囚われ、あてもなくさまようようにこの店に辿り着いたのだという。

「いらっしゃい、雨に打たれちまったかい? どうぞ、こっちの暖かい席へお入りなさい」

勘吉の太く安心感のある声に出迎えられ、直樹はぽつりぽつりと、胸に溜め込んでいた痛みを零しはじめた。その痛切な苦悩を見つめるお桂と、カウンターの端で気怠そうに丸くなる猫又のクロ。彼女の瞳には、単なる客を労わる以上の、深い共感が宿っていた。

今夜のお品書きは、じっくりと時間をかけて煮込まれた「カブと鶏肉のポタージュスープ」と、温かい紅茶に添えられた繊細な「ラングドシャ」だった。

「お待たせしました。うち自慢のスープだよ。からだが冷えているだろうから、ゆっくり温まっておくれ」

お桂が優しく微笑みながら、湯気の立つスープをそっと差し出す。

一口スープを口にした直樹は、ハッと息を呑む。

それは、昔愛猫と一緒に訪れた小さなペットカフェのテラス席で食べた、あの日の味によく似ていた。日向ぼっこをしながら愛猫と並んで過ごした、あたたかくて穏やかな記憶の断片が鮮やかに蘇る。続くサクッとした食感のラングドシャの甘みが、張り詰めていた直樹の涙腺を優しく決壊させた。

声を殺して泣く直樹の足元に、カウンターから音もなく降りてきたクロが、すっと静かに歩み寄る。

クロ自身も明治の世、自分を命がけで救ってくれた人間の男性の最期を見送った過去を持っている。大切な存在との別れの痛みを、クロは誰よりも知っていた。

クロはぴたりと直樹の足に寄り添うと、やれやれと言いたげに小さく息をつき、それからすっと澄んだ瞳で直樹を見上げた。

「……いつまでメソメソしてるの、お兄さん」

冷たく、それでいてどこか心地よい、あやかし特有のクールな少女の声。驚く直樹の視線を受け止めながら、クロは愛猫の想いを淡々と、けれど優しく紡ぎ出す。

「あの子、こう言ってたわよ。『そんな顔しないで。日向ぼっこ、楽しかったよ。そばにいさせてくれて、ありがと』って」

それは、言葉を持たない愛猫が最期まで胸に抱いていた、あまりに真っ直ぐな感謝と愛情だった。クロの少しツンとした、けれど温かな言葉が、直樹の凍りついていた心をじんわりと溶かしていく。

涙を流し尽くした直樹の顔には、訪れたときのような重苦しい影はなく、不思議なほどの晴れやかさが戻っていた。

「……おや、いい顔になったね。腹の虫も、少しは満足したかい?」

勘吉がからりと笑い、お桂も「またいつでも、温まりにおいで」と温かいお茶をもう一口勧める。

「……ありがとう。なんだか、すごくすっきりしたよ」

直樹は深く頭を下げ、静かに店を後にした。

冷たい夜風が頬を撫でたとき、直樹はふと首を傾げる。

――自分は今、どこで何を食べていたんだっけ?

あんなにハッキリと感じていた愛猫の温もりや、店の人たちの顔、あの猫の女の子との不思議な会話の記憶は、夜霧に溶けるように、どこか遠い夢の出来事のように曖昧になっていく。けれど、胸の奥だけはなぜか嘘のように軽やかで、温かかった。

店の中では、静かに戸を閉めた勘吉たちの足元で、クロが「やれやれ」とでも言うようにすまし顔で小さく丸くなっている。

軒先では、ネコハギの苔玉が、夜風に揺れながらひっそりと旅立つ客の背中を見送っていた。

大切な存在を失った痛みは消えなくても、愛された記憶はきっと消えない。あたたかな余韻を残したまま、静かな夜が更けていくのだった。

第13話「ネコハギの揺れる夜」をお読みいただきありがとうございます。

今回は、愛猫を亡くしたばかりの青年・直樹と、猫又の少女・クロのお話でした。

ペットロスという深い喪失感の中、彼が口にした「あの日のラングドシャ」は、失くした記憶の扉を開く鍵であり、温かな思い出を呼び覚ますスープの温もりとともに、彼の凍った心をそっと溶かしていきました。

そしてラストにそっと佇む「ネコハギの苔玉」。

ハギ(ネコハギ)の花言葉には、「思案」「内気」「想い」という言葉があります。

言葉を持たず、ただひっそりと寄り添うように愛をくれた存在(内気、思案)と、いつまでも消えることのない飼い主への真っ直ぐな愛情(想い)。それらをクロが代わりに紡ぎ、旅立つ直樹の背中を、軒先のネコハギが静かに見送る――そんな情景を重ねて描いてみました。

あやかしの店を出たあと、記憶はふんわりと夢のように霧散してしまうけれど、胸の奥に残る温もりと軽やかさは本物です。

大切な存在を失った痛みは簡単に消えなくても、愛された記憶はきっと、心の中でずっと生き続け——いえ、そっと寄り添い続けてくれます。

また次回の『幽心庵』で、皆様とお会いできるのを楽しみにしております。

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