第五話 若き王の悩み
薄暮の庭の木々の向こうに、紅い影が見え隠れしている。
「あそこか」
機淵は紅い気配を辿り、回廊を抜けた。内廷と外廷の境に設けられた庭園に続く小道に入る。
垣の向こうに、小さな庭がある。池を囲んで柳が植えられ、奥まった一角に四阿が建っていた。
そこに、鳳凰の姿はあった。
本来の姿——大人の背丈を優に超える巨躯、四阿を包み込むように、大きな翼を左右に広げている。淡く光る翼が、夕暮れの庭に温かな明かりを落としていた。
風切羽の隙間から、二つの人影が見えた。
王と、宰相だ。
巨翼に抱かれた四阿の中で、王は椅子に腰掛け、卓を挟んで宰相・游恒志と向かい合っていた。王の手元には茶器があり、游宰相の前には広げた帳面がある。
鳳凰の様子も落ち着いている。検診の好機だ。
機淵は足音を殺し、翼の外側から回り込んで庭へ近づいた。
二人の声が聞こえてくる。
「——今朝の趙侍郎へのご下問ですが」
游宰相が穏やかに切り出した。
「あの場で数字の誤りを指摘なされたのは、正しいご判断でした」
「……厳しく言い過ぎたであろうか」
声に、わずかに問うような色があった。
謁見の場とは正反対の、年相応の響きだ。
「いえ。報告に怠慢があれば、その場で正すべきです。一つだけ。ご叱責の後に一言添えると、尚よろしかったかもしれませんな」
「一言?」
「『次の報告を待つ』、と。過ちを正すだけでなく、次の機会を与えるお言葉があれば、臣下は萎縮ではなく奮起いたします。主上が働きを見ていて下さると。言葉の贈り物は、時に宝物よりも効果的でございます」
「言葉の贈り物、か。そうであるな」
若い声が素直に頷いた。
「午後の陳典簿との問答は、どうであった」
「ようございました。あの者が言い淀んだ際に、急かさず待たれた。あの間があってこそ、彼は落ち着きを取り戻しました。沈黙は、時に信頼の証になります」
「あれは——あの者には明瞭な考えがあると、感じたのだ」
「それこそが、主上の御器量でございます」
「だと、良いのだが」
まるで、老師と若弟子の問答だ。
迷いの色を浮かべる若き王の声を聴きながら、機淵は巨大な翼が作る長い影の中で足を止めていた。
「……それから昨日の、徐機淵との引見だが」
俺の話か。
機淵は翼の影の中、気配ごと立木に化けるつもりで息を殺した。
「私から仕えてほしいと願い出るのに、あのような物言いしかできなかった」
王の声には、暗い悔恨が染みていた。
――其方に、否と言う権があるか
あれはまさしく、臣下の膝を折らせる、王者の声だった。
「主上。あの場は、あれがようございました。王命の重みを損なわせてはなりません」
宰相の声は、穏やかだが確信に満ちていた。
「その証拠に、鳳凰様も主上のお味方をされたではありませんか」
王は笑ったのか、呆れたのかは分からない、小さな息をついた。
「主上。毅然となさいませ」
宰相が居住まいを正す。
「正しいとお感じになったこと、望まれることを、堂々と、真っ直ぐにお伝えになることです。王は、揺るがぬものでなければなりません」
椅子が軋む音がした。
「迷いは後でいくらでも、この老骨にお聞かせくださいませ」
孫を諭すような柔らかな声が、暮れの庭にゆったりと流れた。
「では、主上。本日はこれにて」
「ああ。いつもすまない」
「なんの。毎日の楽しみにございます」
衣擦れと足音が、庭園の砂利を踏んで遠ざかっていく。
四阿に、王と鳳が残った。
王はおもむろに椅子から降り、四阿の床板を越える。
土に直接腰を下ろし、背中を翼に預けた。
鳳凰は王の体を包み込むように羽を寄せ、夕の冷気から遮る。
野暮なことはできない。
機淵は一歩退き、このまま立ち去ろうとした、が。
「誰かいるのか」
王の沈んだ声が、機淵の足を留める。
「お寛ぎのところを、お邪魔いたします」
機淵は垣の陰から姿を見せ、右手を左手で包んで胸の前に据えた。
「煌羽様の検診をお許しいただきたく」
「徐機淵か――煌羽」
王は気まずそうに腰を上げ、鳳凰の首筋に軽く手を添える。
鳳凰は、長い首を傾げて機淵を見た。
「嫌がってはおらぬようだ。頼む」
王は四阿の椅子に戻り、腰掛けた。
機淵は一礼し、静かに煌羽の前に膝をつく。
まず、翼を診る。妖鳥に削り取られた欠損部は、既に皮膜が滑らかに塞がっている。薄い膜の下では、新しい羽芽が鞘に包まれたまま、もう指先に触れるほどの長さにまで伸びていた。
次に、体表へ手のひらを当てる。
翼の付け根から背にかけて、体温が均一であるか計る。冷えや、局所的な熱の偏りがないかを、診るのだ。羽軸の弾力、脚の爪、嘴の先端、尾羽の付け根と、一通り体に触れて確認する。
最後に、正面に回って双眸を覗き込んだ。
焔色の珠の中に——昨日と同じ、濁りがある。
だがこれは、病ではない。
「——どうであった」
王が、椅子から声を掛けた。
「先日の傷は、すでに消えております。羽根、骨格、いずれも異常は見られません」
機淵は嘴の横に手を添えたまま、立ち上がった。
「では、問題はないのか」
「ですが」
安堵しかけた王の目元が、微かに揺れた。
機淵は向き直り、率直に口を開く。
「天核の気が、消沈しているように感じます」
王は椅子から腰を浮かした。
瞳が「どういうことだ」と機淵に問いかける。
機淵は己の胸元に手を添えた。
「神獣の体の中心——ちょうど人や獣でいうところの心の臓のあたりに、最も強い熱の源がございます。神獣医術ではこれを『天核』と呼びます。天核から天血が脈を巡り、天髄が骨と筋を織り、神獣の体を支えている」
神獣は、天命によって王へ遣わされるものである。
人の棲まう世に顕現するにあたり、土地の理と風土に馴染んだ器を纏う。
血の代わりに霊力の源たる天血が巡り、肉の代わりに天髄と呼ばれる天命の質によって体を成している。
獣や霊獣を遥かに超越した力を持つが、仕組みそのものは、獣や霊獣と大きくは変わらない。
人の国で、王の側に在るために、傷つきもすれば病みもする——だからこそ、神獣医が要るのだ。
「掌に伝わる熱と脈動が少し――細いのです」
機淵は己の胸に添えていた手を、再び煌羽の胸元へ移す。
これが、清徳が言っていた「煌羽君、弱っているみたいで」の正体だ。
「……国の乱れが、神獣を苦しめるとも聞く」
王は鳳凰を見た。
天命の使いは何も答えず、ただ静かに王を見つめる。
「機淵」
王の瞳が、機淵を捉え直した。
「其方は、六年の間、流しの獣畜医をしていたと聞いている。国のあちこちを見て回ったのであろう」
「北嶺の山裾から南郡の海沿いまで、およそ足の届く限りの鳳国全土を渡り歩いたと言えるでしょう」
「聞かせてくれ。何を見てきたのか」
王の体が、機淵の方へ前のめりに傾ぐ。
機淵は一つ息を吸い、話し始めた。
「幽谷の住人であったはずの妖異は、年を追うごとに山を越えて里近くまで降りてくるようになり、種も多様になりました。家畜が子を産まなくなり、作物が実らなくなった村をいくつも見ました」
王の瞳は、真っ直ぐ機淵の目を貫いている。
「水脈が干上がり、草一本生えなくなった土地もありました。まるで時が止まったように——何もかもが途絶えていた」
「それは、南郡の楡県であるな」
機淵の語りを、王の声が継いだ。自然と、機淵は口を噤む。
「水脈枯渇の被害面積は、約五百畝。灌漑の引き直しを試みたが、二年目に入って、ようやく地表に湿りが戻り始めた程度だ。このままでは一郷の民が土地を捨てなければならなくなる」
王の言葉は、滑らかだった。
「妖異は主に北嶺筋、西方の峡谷部での出没数の増加傾向が顕著だ。直近一年だけでも、被害を受けた村落は北嶺だけで十二を数える。里近くまで降りてきているのは、山中の獲物が減った為だ。子を産まなくなったのは家畜に限らぬ」
機淵は、深く頷いた。
「よく、把握しておいでです」
率直に感心する。各地を頻繁に巡察している成果であろうか。
「皆に無理を強いている自覚はある」
褒め言葉にも、王の顔色は晴れなかった。
「人も、金も、限りがあることは承知の上だ」
若い声に、力がこもる。
「だが、知らなければ、何を正せばいいかもわからぬではないか……!」
勢いづいた王の声に共鳴するように、神翼が揺れた。
機淵は、黙って王の言葉を待つ。
沈黙を受け取って、王は羽先に目を逃し、少し間を置いてから続けた。
「……私は、地方の下級役人の家の出だ。十八の時、父に倣い役場に入った。その頃から不作や妖魔の脅威は顕在化していた。だから私は……地方を地道に繕うことが、いずれ即位されるであろう新たな王を支え、国を建て直す未来に繋がるものと、信じていた」
なるほど、と機淵は得心した。
民の切実さに寄り添う感覚は、やはり宮中に届く書簡からだけで得られるものではない。
機淵への、食らいつくような傾聴の姿勢も、畈畝で民の訴えを受け止めていた頃と変わらないのであろう。
機淵の脳裏に、あの日、見上げた蒼天を横切る焔が蘇った。
俺には関係ないと、背を向けた街道の向こう――鳳凰が降り立った先にいたのは、真摯な志を抱く一介の若手役人だったのだ。
「空に紅翼が見えた時は、ようやく誰か立派なお方が王に選ばれたのだと、安堵したのだが……」
王の瞳に、煌羽と同じ紅の翳りが差した。血色の悪い唇に、皮肉な笑みが浮かぶ。
「……国の乱れが治らぬのは、私が至らぬ王であるからだ。游宰相の支えがなければ、気の利いた言葉も言えずに人を不快にさせてしまう。皆が、天徳王の世を懐かしんでいることも、わかっている」
羽音がして、煌羽の首が王の顔に巻き付く。
下がりかけた王の肩を、黄金の嘴が撫で付けた。
「煌羽様は、否と仰っているようですが」
「違わぬ」
王は目を伏せる。
「そういえば」
機淵は己の後頭部を、嘴を形作った指先で、軽く突いてみせた。
「これ、陛下もやられたのですか?」
「え――」
少しの間があって、機淵の仕草の意味に気づいた王の目が、みるみる見開かれる。やがて観念したように小さく息を吐いた。
「叩頭して待っていたら、頭を小突かれた」
王の耳端が、夕暮れの色よりも鮮やかな朱に染まっている。
「三度もだ」
まさか天命の矛先が自分へ向くとは、本当に思っていなかったのだ
恨めしげに王が肩越しに見上げると、煌羽は、くるりと首を巡らせて嘴で王の頬を突いた。揶揄っているように。
「……やめろ」
王は黄金の嘴を、そっと押しのけた。
声の芯からは、すっかり堅さが抜けている。
「ふ……」
機淵が目尻を緩めると、王の口元も和らいだ。
「恐れながら」
機淵は緩やかに頭を下げた。自然に、体が動いた。
「神獣医学の古諺を一つご披露しましょう」
「それは?」
いかにも畏まった機淵の物言いに、王の呼気が微かに強張った。
「『暇な王の国には、暇な神獣医あり』と」
改まって顔を上げると、そこにあったのは、九旒も外套も纏わぬ若者の貌。
「天命が国を認め、神獣を遣わし、王を選ぶ。王と神獣は一命一体でございます。煌羽様のご不調は、陛下が国と民に心を砕いておいでの証」
機淵は、片方の口角だけを持ち上げ、改めて頭を低くした。
「これより先、しっかり働かせていただきます」
「機淵」
王のつま先で、砂利が擦れる音がした。
見守る煌羽の瞳からも、翳りは消えていた。
今は暮れなずむ空に浮かんだ一番星が、焔色の双眸で瞬いている。
「主上、お戻りの刻限でございます」
庭の外側から、近侍の宦官の声が掛かった。




