第四話 神獣医の一日
神獣は、家畜や騎獣のように、畜舎や繋留場で大人しく待っていてはくれない。
鳳国の神獣医の朝は、鳳凰――煌羽の姿を探すところから始まる。
「今朝は東苑の方で赤い影を見たという者がおりました」
「あら、私は西苑の四阿にとまっているのを見ましたわ」
宦官や女官たちから証言を集め、庭から庭へ、回廊から回廊へと渡り歩く。
「毎朝これか」
「毎朝これです」
紅い羽の痕跡すら見つけられないまま、ただ宮中散歩で時間が潰れるのだ。
「麒国の麒麟は大人しかったのだがな」
「蒼淵国の蛇神様は土に潜ってしまうから、探すのが大変みたいですよ」
国によって神獣の性格も様々なのである。
「どんな姿で、どこで、何をするのか。煌羽君の気分次第です。ほら」
清徳は帳面を開き、機淵に差し出した。『鳳凰との接触叶わず』と書かれた行が散見される。
「隙を見て近寄っても、嫌がられたら即撤退ですよ。機嫌を損ねた煌羽君に本気で睨まれると、熱風だけで眉毛が焦げます」
「なるほど?」
機淵は清徳の丸い顔を覗く。片眉の一部が欠けていた。
「い、一度だけですっ」
清徳はばつが悪そうに、片手で眉頭を隠した。
機淵は肩を揺らして笑った。
昼前。
二人は正殿の外廊——朝議の間に続く回廊の隅で控えていた。
煌羽は公の場で、王の肩に停まっていることが多いのだという。
朝議が終了した直後を狙う作戦だ。
「そろそろ終わる頃——」
扉が開いて数名の官吏が足早に出てきた。
いずれも額に薄く汗を滲ませ目を伏せ、二人の前を足早に通り過ぎる。
落としきれない声が、機淵の耳に届いた。
「っ……たかだか治世三年の若造が」
「先代ならば、あのような詰問はなかったものを」
「天徳王の再来などと持ち上げる者があるが、冗談ではない」
機淵は黙って、去っていく驕臣たちの背を見送った。
声は回廊の角を曲がり、聞こえなくなった。
「先輩、どうかしましたか?」
「――いや。煌羽はまだ中か」
「はい。もう少し待ちましょう」
朝議が終わったのは、それから半刻ほど後のことだった。
扉が開くと同時に、赤金の小さな影が風のように飛び出し、回廊の柱を蹴って屋根の上へ消えた。清徳が「あっ」と手を伸ばした時には、もう影も形もない。
「……行っちゃいましたね。午前の診察は、なしです」
清徳は帳面を開き、慣れた手つきで書き込んだ。「本日午前、接触叶わず」と。
「後で再挑戦しましょう。いったん諦めて、蒼鷲たちの巡回診察に回ります」
神獣医が診るのは、鳳凰だけではない。
天翼衛の蒼鷲をはじめとする霊獣全般、時には女官や王族が飼う愛玩の小鳥や猫の類まで。
牛馬や家畜については馬医や畜産医の一団が別に組まれているが、難しい判断に迷えば神獣医に相談が回ってくることも少なくない。
発着場に向かうと、数頭の蒼鷲が繋留場で休んでいた。二人で一頭ずつ翼を広げ、羽根の状態を確かめていく。
羽軸の弾力、根元の血色、皮膜の張り。
機淵の手つきは、流しの獣畜医のそれと変わらない。
「少し痩せているな」
三頭目の蒼鷲の胸骨に触れた機淵が、手を止めた。
竜骨突起の稜線が、指先にはっきりと浮き出ている。筋肉の厚みが足りない。
「食餌の記録はあるか」
「はっ。こちらに」
当番の武官が差し出した帳面を、繰る。
干し肉の量、穀物の配合、給餌の間隔。細かに記録されていた。
「筋繊維が硬い。慢性の疲労が溜まっている」
機淵は帳面を閉じ、蒼鷲の翼の付け根を揉むように触診した。
清徳が横から覗き込んだ。
「疲労、ですか。栄養計算は合っているはずなんですが……」
「質は悪くない。量が足りていないんだ」
機淵は蒼鷲の背を軽く叩いてやりながら続けた。
「陛下は頻繁に各地を視察されていると聞いた。前より騎獣の出動が増えているだろう」
世話係の武官が、苦笑とも嘆息ともつかぬ顔で頷いた。
「仰る通りです。陛下の御代になってからは、巡幸の護衛だけで天翼衛の出動は月に五、六度。妖異討伐などの出撃を合わせれば、休みなしで回している月もございます」
「陛下は精力的でいらっしゃいますね。お若いですから!」
と清徳。
機淵は黙って、繋留場に並ぶ蒼鷲たちの背を見渡した。
王が動けば、禁軍が動く。宿営の手配から警護の配置まで、禁軍の各部署が連動して動く。
天翼衛が動けば、蒼鷲の飼料が要り、世話係が走り、鞍や装具の修繕が追いかける。
そして王と共に鳳凰も動く。鳳凰の行くところには、神獣医もつく。
清徳が汗だくで王を追いかけていた姿に、今となっては同情の余地がある。
勤勉で活動的な王というのは、臣下にとっては有難くもあり、時に厄介でもあるのだ。
「それに、鳳国は山がちだ。人を乗せて高い峠を越えるだけで翼にかかる負担は平地の倍以上になる。三年前までと同じ食餌量では、追いついてないんだ」
「あ」
機淵の指摘を受け、清徳の顔が曇った。
「……気がつきませんでした。申し訳ないですぅ……」
「気にするな。麒国は平野や草原の国だからな」
「勉強になります!」
清徳が深々と頭を下げた。
機淵は世話係へ、食餌の増量と配合の変更を書き付けた紙を渡した。
「これで二十日ほど様子を見てくれ。改善が見られなければ、また調整する」
「承知いたしました」
世話係は早速、廄厨――霊獣や家畜の飼料の準備や食餌の調理を行う部署――へと駆けて行った。
*
蒼鷲たちの診察を終え、二人は鳳医署へ戻った。
鳳医署——その名の通り、鳳国の神獣医に用意された施設である。
内廷と外廷の境界付近、宮城の要所を結ぶ回廊の交差点のような位置取りだ。
調合室の奥で、一人の薬師が薬棚の整理をしていた。
生成り色の作業衣で着膨れした後ろ姿が、棚の前で上下左右に屈伸を繰り返している。
「あら、お帰りなさい。煌羽様は捕まえられた?」
振り返った薬師は、場違いなほどに整った造形の女だった。
長い髪を無造作に後ろへ束ね、晒し布を頭巾代わりに額から巻き回して留めている。草汁と土に薄く汚れても尚、目を逸らすことを許さない華があった。
宮の奥深く、絹と香に守られて咲くべき花が、なぜか泥にまみれて立っている——そんな、美貌の持ち主の名は、梁瑶月。
二代前の名君、天徳王の寵姫であったという、異色の来歴を持つ。
機淵の父、徐翰林が神獣医長を務めた時期から鳳医署に属し、空位の時代も、この場所を守り続けていた。
「先に蒼鷲の診察をしてきた。痩せの傾向にあったんで、食餌増量の指示を出してきたところだ」
「了解。滋養強壮薬でも作ろうかしらね」
「霊茸の在庫はあるか」
「北嶺の白霧山で採れた二等品が六斤、昨日入ったばかりよ」
瑶月は薬壺を棚に戻す手を止めず、すらすらと答えた。
「今日のうちに、滋養の煎じ薬だけは仕込んでおきたい」
機淵が棚から乳鉢を取り出すと、清徳が「わかりました!」と袖を捲り上げる。
「清徳。薬の仕込みは俺がやっておく。今日はもう休め」
それを制して、機淵は戸口へ視線をやった。いつの間にやら、窓の外が橙に染まり始めている。
「でも」
「案内に走り回って疲れただろう。助かった」
「先輩ぃ!」
清徳は何か言いかけたが、くすぐったげに笑った。
「では、お言葉に甘えます。無理をなさらないでくださいね、『神獣医長様』!」
丸い影が扉の向こうに消え、足音が遠ざかる。
途端に、がらんと署内が静まった。
乳鉢で霊茸を擂り潰す音だけが、薄暗い調合室に響く。
機淵は手を動かしながら、室内を見渡した。
棚には薬材の壺が整然と並び、壁には霊獣の骨格図や鳳凰の羽の構造を描いた古い掛図が掛けられている。瑶月と清徳が几帳面に管理してきたのだろう、どの器具も手入れが行き届いていた。
だがこの施設の本来の規模に比べて、あまりに閑散としている。
今、鳳医署に在籍しているのは三名。
医師は機淵と、他国からの助っ人である清徳。そして薬師の瑶月だけだ。
父が神獣医をしていた幼少期、機淵は見学という名目でよく鳳医署に出入りしていた。医師七名、薬師三名の十人体制。常に誰かが薬を煎じ、器具の手入れをし、症例について議論を交わしていた。
機淵が十八の時。
父は神獣医長に昇格し、同時に機淵は麒国への留学が決まった。
麒国は小国ながら、神獣医療発祥の地とされた本場なのだ。
研鑽を積み、帰国したら父の下について、いずれ後を継ぐのだと信じて疑わなかった。
「……」
追憶に浸っているうちに、乳鉢の中で霊茸が細かな粉になった。
機淵は手を止め、粉の具合を確かめる。
「あらあら閑雲、それじゃ粒が粗いよ」
調合室の隅で帳面をつけていた瑶月が、筆を置いて立ち上がった。
機淵の手元の乳鉢を覗き込み、僅かに眉を上げる。
「もう二段は細かくないと。でも力任せに押し潰すと繊維が切れて、有効成分が飛んでしまうのよね。霊茸はね、産地によって繊維の硬さが違うの。今の時期に出回っている北嶺産は芯が硬いから、砕く前に軽く蒸すと擂りやすくなるわ」
言いながら、瑶月は棚の一つを開けて小さな蒸籠を取り出す。
機淵は、わざとらしい半目でそれを受け取った。
「ガキの頃の呼び名はやめてくれって」
閑雲は、父親が機淵につけた字名だ。
「あら。私のことは『瑶月姐さん』って呼んでもいいのよ」
仙女の眼に、笑みが浮かぶ。
年は四十を超えているというのに、若さと美貌は変わらない。
機淵は内心、姐さん妖怪説を疑っている。
「さて、私はそろそろ上がるわ。明日もよろしくね、『徐医長』殿」
瑶月は戸口へ向かった。敷居をまたぐ直前、舞うようにくるりと身を翻す。
「そうそう、さっき薬材の受け取りで西の庭を通ったら、煌羽様を見かけたわよ。検診がまだなら、今が好機ね」
「なんだと、助かる!」
慌てて蒸籠を卓に置いて帳面を引っ掴む機淵の様子へ「ふふ」と含んだ笑みを残し、瑶月は署を出て東側の回廊へと姿を消した。
足音が遠ざかり、署内に再び静寂が戻る。
機淵は棚に並ぶ薬壺の列に目をやった。
全て同じ向きに置かれた壺の表書きには、瑶月の流れるような筆跡。
昔と変わらない、丁寧で美麗な仕事だった。




