第十一話 ラストシーンにアンダーライン 1
すいません、更新が遅れていました。
これからは、完結まで出来るだけ短い期間で更新していきたいと思います。
自分が主役だったことを思い出したのは、舞台の裏に衣装を着て、立っていたときだった。
こんな初歩的で、且つ、最重要の事項を忘れていたのか、と君恵は我ながら恥ずかしくなった。
もちろん、それは数十分間の一時的な忘却に過ぎなかったが、その間、君恵の脳内を満たしていたのは、自らの友人のことだった。
有川久実。
彼女を自分はどうしたいのか。
それを、会場の外、凍てつく石段の上で薫を待ちながら考えていた。彼女が会場に入っていくのをひっそりと見ながら、考えていた。
彼女に伝えるべき気持ちは何なのか、を。これから選び取るべき友人との関係、を。
ベルが鳴り、場内にアナウンスが入る。
君恵は足踏みをして、いやがうえにも駆け上がる緊張感を抑えた。
さあ、これからが、自分の腕の見せ所だ。これまでの練習の成果を見せるべき、本番の場だ。そして、自らの思いを伝えるべき……。
君恵は目を閉じる。
久美に、それを見せよう。
幕は音もなく滑るように上がっていき、舞台に向かって突き抜けるライトの明かりが、夜空を穿つ、綺羅星がごとくきらめいている。
誰かに後ろから押され、君恵は駆け出した。
会場の誰もが、息を呑む音が聞こえた。
さあ、第一声だ。
自分は両親が死に、悲しみに暮れた少女だ。
両手で顔を覆い、崩れるように、舞台の床に倒れ伏す。
「嗚呼……お父様、お母様」
君恵の中で、純真な優しき心を持つ幼き少女は、心を引きちぎられるような悲鳴を上げていた。彼女と一体化し、君恵は現実の世界でそれを表現する。
間を置いて、悲劇的な曲が舞台の横から聞こえてくる。
劈く悲鳴のようなバイオリンの音色。
それに合わせて身をよじった。
その友人はここに来ているのではないかね?
あの老人に言われたことが蘇った。
そう、彼女なら、自分に一番近い場所で、自分の演技を見てくれている。なぜなら、彼女は、この劇を作り上げた張本人なのだから。演劇部の部長なのだから。
あの如才無い久美ならば、主演である君恵の僅かな表情の違い、声の響き、髪のなびき方さえ、微細に見ているのではないだろう、と君恵は思う。彼女はそういう人間だ。
だから。
だから、久美ちゃん、きちんと見ていて。私のこと。
切なる願いを込めて、君恵は演技の中に身を投じていった。
有川久美は舞台を見ながら、すぐに、いつものようでない違和感を感じ取っていた。
特に誰かが演技を誤っているいるわけではない。場面の切り替えもスムーズで、吹奏楽部の演奏も申し分なく、劇の雰囲気を底辺から支えていた。
なのに、何なの。
この筆舌に尽くしがたい、焦燥感のようなものの正体は。
音響室で、奥山紗江と二人しかいない部屋の中で、久美は椅子に座ったまま、顎に手を当てる。背もたれがぎしりとゆがみ、組み替えた足が床に当たって、音を立てた。
そしてもう一つ。
感じる。
劇中で時折感じる、視線。
どうやら、それは、誰か特定の人物からだけ、自分に送られているようだった。
「どうしたんです? 部長」
久美の腑に落ちない表情に、落ち着かなさそうな奥山紗江が隣に立つ。
「先ほどから、何か唸ってますけど」
「う、ん。ちょっとね」
久美には珍しい、断言ではない、曖昧な返答に、ますます紗江は不審そうに眉をひそめる。少し考えたように首を捻った後で、
「何か、指示を出してきましょうか?」
そう提案してきた。
「ちょっと待ちなさい。別にいいの」
「いいんですか? 今回は特別な意味のある劇なんですよ。気に入らない部分があるなら、即急に手を打った方がいいと思いますけど」
「いえ、本当にいいの。もう少し見させて!」
久美の大声に驚いたのか、彼女は黙って椅子に座った。
「は、はい」
しかし、彼女が指示を出す提案をしてきたのには頷ける。
今回の劇の出来、観客の反応次第では、この学校の校長から、もっと大きなホールでの、演劇の発表を約束されるのだ。
それを唯一知る紗江は、久美と同じく、今回の劇をなんとしても成功させたいと思っているのだろう。だから当然、部長である久美が上演中の劇になんらかの不審感を抱いている様子が、看過できず、気が気ではない違いない。
しかし、久美が感じているのは、劇の完成度如何の話ではなく、それとはまた別次元の事なのだ。
例えるならば、操り人形。
糸を人形の手足に繋いで、歩かせたり、躍らせたりする、アレだ。
そう、今回の劇はまるで、自分が操っていたはずの人形が、実は電池が内蔵されており、久美の意思ではなく、人形自身が久美の指示に合わせて自分の意思で動いているような、そんな錯覚にも似た感覚なのである。
繋がっているはずの糸に、実は伝達の役目は備わっておらず、単なるお飾りに成り下がっている。
だが、今回は特にその人形が、有川にとって不都合な動きをしているのではない。全く自分が思い描いたとおりである、そこに奇妙な感覚の齟齬があった。
劇は中盤に差し掛かり、主人公の少女が、音楽家の家でピアノに合わせて歌い始めるシーンだ。
歌姫の誕生の場面である。
君恵の伸びやかな歌声が会場に響き渡る。湖畔を撫でる風のような爽やかさと、穏やかな波を思わす優しさが溶け込んだような、歌声。
「夜道を照らす月の光、妖精たちと水辺のダンス♪」
ふいに、目が合った。
「ランプを持っていこう。はぐれずにいよう♪」
ほかならぬ、歌姫。
須藤君恵だ。
「ねえ、夜が明けるまで、まだもう少し♪」
彼女が、ふわり、微笑んだ。
その瞬間。
何かが、頭の中を駆け巡った気がした。
「あ、あ、あ……」
知らず、出所不明の感情と共に、声が漏れる。背後でガタリと席を立つ音が聞こえ、紗江がまたしても不審げに久美を呼んだ。
「有川、部長?」
「あ、私……」
口を覆おうとした手が震えている。
「どうしたんですか?」
「……いや、何でもないの」
振り返って、首を振るが、紗江は半信半疑のようだ。さすがに、いつもの自分と行動が違いすぎることに気がついたのだろう。
なにしろ、自分の中で盛りかえるような動揺を隠せていないと思った。軽く笑って見せるが、それが果たして笑顔なのか、驚愕の顔なのか、困惑顔なのか、悲しい顔なのか、それすら分からない。
筋肉が痙攣しているようで、自然な状態を保てないのだ。
「もしかすると、気分が悪いんですか?」
「そうじゃないの。平気よ。大丈夫だから、ここで見させて」
見させて、なんて。
口を衝いて出た言葉が、さらに久美を揺さぶった。自分がここにいなければならないのは『当たり前』なことではないか。
それでも、久美には不思議なもので、なぜだが、この劇を最後まで観覧しなければならない、という使命感に取りつかれていたのだ。まるで、自身が一人の観客にでもなったような気分である。
もはや、この舞台の頂点から俯瞰しているのは、自分ではない。
そんな気もしていた。
「これは、どういうことよ」
「有川部長……」
紗江はいまだ不審げだったが、久美にかける言葉も見つからないのか、それきり黙ってしまった。久美も彼女に意識を向けなかった。劇を見ていたい。このまま、最後まで。
そしてついに、聖夜の歌姫はクライマックスだ。
観客達が水を打ったように静まり返り、事の成り行きに目が奪われているのが分かる。久美も同じだった。歌姫である君恵が、王国の城に呼ばれ、王座の前へ連れられてくるところだ。久美はナレーションを読む。
物語では、ここで彼女が歌を披露し、それに魅了された王子が彼女を自身の妃として迎え入れ、ハッピーエンドとなる。
吹奏楽部の演奏に一層熱が入り、君恵の歌声が軽やかに無理なく耳に届く。このとき久美には、君恵の後ろにいる、真の歌姫が見えている気さえした。いつでも淑やかで優しく、卑しさの欠片もない純真無垢な少女の姿だ。
そんな一種の幻覚さえ見せる君恵の演技はすばらしく、おそらくこれまでで一番の出来ではないだろうか。久美は思う。
これは、間違いなく大成功の劇になる。
そう、確信していた。
ところが、そこで予想外の事態が発生した。
音響室の扉が、なぜか、ゆっくりと開いた音がしたのだ。
ぎょっとした。
立ち入り禁止のはずの、上演中、その扉が開くことなど、まずありえない。
「誰!?」
首を回して、目を疑った。
長身の少年がのっそりと、どっしと立っている。
「堂野、君?」
彼は無表情に部屋に踏み入ると、止める間もなく真っ先に久美の隣をすり抜け、小型マイクのスイッチを入れた。
「あなた、何を!」
「し、静かに。上演中だ」
「そんなこと分かって……」
彼が伸ばした手で、口を塞がれる。
そして、もう片方の手を丸め、舞台に向かって親指を立てた。
その途端、だった。
どこからか、『自分の声』が聞こえてきた。
「少女の運命は王子と結ばれ、華やかなものになるはずだった。しかし、そこには王国リノンドンのある思惑があった……」
「……!」
これは、まさか。
「よし、始まったな」
そう言って、堂野は満足げに笑った。