この胸のささやきが。
完結によせて、レビュー5本とランキングに載るほどのポイントをいただいたので、お礼です。
皆様、ありがとうございました。嬉しいです。
『ねぇ』
年老いても、いつまでも無邪気だった妻は。
『あなたが私に会いたくなったら、あの花の木彫りを彫って、丘の広場に行ってね』
そう微笑んで、先に逝った。
彼女の言葉通りに。
彼は暇さえあれば木彫りを作って色を塗り、晴れた日に広場へとゆっくり歩く。
彼は今日、大きなケースを抱えていた。
彼女との思い出が眠る道を歩き、たどり着いた先には知り合いの管理人がいる。
「いつもの?」
「ああ、頼む」
彼の木彫りを受け取った管理人は、広場の花壇に目を向けた。
「この広場は、年中枯れませんなぁ」
花壇の一角は、色とりどりの、でも同じ形をした木彫りの花で埋められて。
「あいつの好きな花だったからな」
管理人と別れた彼は、広場の奥、見晴らしのいい場所に建てられた石像に向かう。
『チェロを抱く乙女』と名付けられた石像は、若い頃の、微笑む妻の顔をしていた。
石像は旧知の男が掘り、彼に一つの楽譜と共に、妻の葬儀で贈ってくれたもの。
『……生前なら、あいつも喜んだろうに』
『彼女が、死後に君に、と望んだんだ。君も楽譜の中身は知ってる。よく彼女が口ずさんでいただろう?』
渡された楽譜の中身を、彼は確かに知っていた。
『石像は、丘の広場に、と』
その言葉に、涙は流れなかった。
彼は石像脇のベンチに腰掛け、ケースを開ける。
入っていたチェロを取り出し、目を閉じた。
音を奏で始めると、耳元に妻の歌う声が蘇る。
音楽と共に、彼女はいる。
思い出の中に、笑顔がある。
寂しくはない。
彼女の遺したものは、彼に寂しい想いをさせないから。
記憶の中の歌声に、不意にほかの歌声が重なる。
伸びやかで、若々しく。
かつての彼女に、よく似た歌声。
演奏を終えて、彼は目を開ける。
「おじいちゃん! 行くなら連れて行ってって、いつも言ってるでしょ!」
ぷく、と頬をふくらませて腰に手を当てているのは。
かつての妻によく似た少女。
「すまないな」
少女はいつも、彼が広場に来ると追いかけてくる。
そして連れて行かないことを怒る。
少女の歌が嫌いなわけではない。
それでも最初は、彼女の歌声に耳を澄ませたいのだ、と。
彼は口にせずに、ただ少女に謝る。
「それ、今度私が歌うやつだよね!」
少女はころころと気分が変わる。
そんなところも、彼女とよく似ている。
「そうだな」
「聞きに来てくれる?」
「もちろんだ」
遠出は、これが最後になるだろう。
だが、旧友の顔を見に行くのも、少女の歌を聴くのも楽しみだ。
「ね、もう一度頭から弾いてよ!」
「ああ」
彼は少女に乞われて、チェロを奏でる。
父がわりだった男が再び彼の手元に戻してくれた、名器を。
彼は弾きながら、彼女との最後の会話を思い出す。
『あなたの方が年上なのに、なんで私のほうが先なのかしらね?』
天の、あるいは悪魔の采配だろうと、彼は思った。
彼女を幸せに。
それが彼の願いであり。
彼女を二度と、一人で残して行かないと。
そう、遥か昔に誓ったから。
でも彼女もまた、死に別れても彼を不幸にはしない。
彼女の繋げてくれた人々が。
彼に、新たな家族を。
自分になついて、彼女を思いださせてくれる目の前の少女を、与えてくれたから。
少女のリクエストした曲を終えると。
彼は、最後に、彼女が一番好きだった曲を奏でる。
ーーー『幸せは春風と共に』。
春はもう、すぐそこまで。
彼女に会える日も、きっと、遠くはないと。
彼は微笑みながら、思った。