第十八話 真夏大作戦
もう秋でした。
赤い太陽! 青い波! 黄色い砂浜! ゴミのような人々! そうここは、真夏のビーチ!!
「……帰りたい」
開口一番、パラソルの下で体育座りをしながらそんなことを呟いた緋村季太朗の顔には、早くも疲れの色が浮かんでいた。
何故なら季太朗に対して人混みはRPGでいうところのダメージ床にも等しい苦痛を与えてくるのだから!
季太朗は視線を遠くの水平線に向けたまま右手をわさわさと動かし、持ってきたクーラーボックスを探し当てて中に入っていたコ〇コーラを取り出して、蓋を開け口を付けた。喉を通る炭酸の心地よさが、僅かだが季太朗の陰鬱な気分を晴らしてくれた。
「……ッハア~~~~ッ!! やっぱクソ暑い時はこれに限……」
景気よく一気に半分近くを飲み干した季太朗を爛々と見つめる目が二つ。
ステラが、人差し指を口に咥えながら穴の開く勢いで季太朗、正確には季太朗の掌の中のコーラ缶を見つめていた。
ステラと共に暮らした時間の中で、季太朗には見覚えがあった。これはステラが無言のおねだりをする時の癖だ。
「……一口飲むか?」
「!」
そう言われたステラはコクコクと何度も首を縦に振って、両手で包みこむようにして季太朗からコ〇コーラの缶を受け取った。
もし今、まわりの人々が運悪く季太朗の方を見ていたならば、空中浮遊するコ○コーラの缶などという夏によくやっているホラー特集に投稿できそうな風景を見ることになっただろう。
ステラの小さな唇が缶の淵につけられ、彼女は期待に満ちた眼差しをしながらも恐る恐る缶を傾けた。
「んっ?! むっ! けほっ、けほっ!!」
「おっと」
少し飲んだだけでむせてしまった。季太朗は優しくステラの背中をさすってやった。
するとステラはぐいっと季太朗に缶を押し付けて、涙目で抗議の視線を季太朗に送ってきた。
「なに? これ! 口の中がバチバチする…!」
どうやら、幼いステラにとって炭酸水飲料のコ○コーラはいささか刺激が強すぎたらしい。そんな彼女を見て、自分にも炭酸が辛く感じて飲めない時期があったなあ、などと季太朗は過去に想いを馳せた。
「まあ、いつか飲めるようになるさ。お前はまだ小さいし……」
そこまで言ったところで、季太朗の中で一つ、引っ掛かることがあった。
もうかれこれステラと一緒に暮らし始めて半年近くになるのに、その間レミーたちからは一度も、ステラの肉体に関しての情報が自分に伝えられていないという事に。
ステラは生霊だ。必ずこの世界のどこかに、まだ生きている肉体が存在する。極東支部、引いてはタカハラの諜報能力を以てすれば、既に早期に何かしらの情報が伝えられてもよかった筈であるのに。
季太朗の中で更に懐疑心が渦を巻き始めた、その時だった。
「ヘーイ彼氏彼女! 楽しんでるゥ?」
パリピが愛用してそうなレンズがハート型のサングラスをかけ、アロハシャツをボタン全開にして羽織ったチャラさ全開の男が、季太朗たちに声をかけてきた。
男は季太朗の隣にあぐらで座り込むと、両手に持っていた海の家で買ってきたのであろう焼きそばのパックをずずいっと季太朗に差し出した。
「……ありがとうこざいます。タカハラさん」
「いいってことよ。たまには太陽の下で羽を伸ばさないとね~」
チャラ男の正体はタカハラだった。
その彼の浮かれまくった格好を最初に目にした時、季太朗たちがドン引きしたのはまた別のお話だ。
そしてカカカと軽快に笑ったタカハラがクーラーボックスに手を突っ込み、発泡酒を取り出そうとしたその瞬間
「させるかあ!!!!」
スコーン!! と芸術的なまでの流星の如き直線軌道を描いてタカハラの側頭部に木串が突き刺さった。
ふおおおおおッと成人男性にあるまじき情けない声を上げながらタカハラは砂上でのたうちまわる。
「酒はご法度って言ったでしょうが! 全く、油断も隙もない。
ってか誰よボックスの中に酒なんていれたの!」
ワイルドにイカ焼きを齧りながら登場したのは、一輪のひまわりの造花が付けられた麦わら帽子を被り、水色をベースにしたパレオビキニをまとった熟れた女性。
褐色の肌が真夏の太陽の下美しく映えているその人物は、アンジュだ。
ひまわり麦わら帽子、パレオビキニ、イカ焼き、褐色、メガネと属性がとんでもない渋滞を起こしかけているが、不和せず不思議と似合っているのがある意味恐ろしい。
「ちょっとォ! あなた一応医者でしょーが何してくれてんの!?」
「あら、後で私のところに来れば傷跡も完全に消してあげるわよ? 有料で」
「悪質すぎるマッチポンプ!!」
ギャイギャイと言い争ういい年した大人たちを尻目に、季太朗は焼きそばをかっこんだ。ソースの味は濃い目、野菜はたっぷりの良心的な出来だ。浜辺で食べる焼きそばというのも、縁日で食べるそれとは違う風情があるなと季太朗は思った。自然と、顔が綻ぶ。
そんな彼を見たらきっと、緋村家の家事当番の付喪神は「私の方がもっと美味しく作れます!」などと言って張り合ったことだろう。
ちなみに風香は、浜近隣にある拠点の旅館の一室で留守番中だ。
本体たる道具が近くに無いと付喪神は活動できないのだが、前回の戦いで風香の扇風機の外装に大分ダメージが残ってしまったのと(季太朗のバリアのおかげで落下物による損壊は免れた)流石にそんな状態で潮風吹く海浜に持ち込むのはいかがかという話になり、泣く泣く、という経緯だ。
無論、またヤマダのように風香を攫おうとする輩が現れないとは限らない為、タカハラを筆頭に極東支部が全力で隠蔽結界を張ったので安全性は保障されている。
なお、当の本人は今、床に四つん這いで突っ伏して目から赤い涙を滝のように流しながら延々と怨嗟の如き言葉を垂れ流しているのだが、旅館に謂れなき怪談が定着するのも時間の問題かもしれない。季太朗はこの後、凄まじい埋め合わせを要求されるだろう。
それを無意識に察知したのか、季太朗の背に僅かな悪寒が走った。
「みなさーん! よかった、見つかりました!」
その時、こちらの方へ浜辺を小走りで駆けてくる一人の女性が、季太朗の目に留まった。
モデルかと見まごうほどのすらりとした美しいプロポーション。黒のシンプルなビキニに収まったそれらは、出るとこは出ていながらも決して過度に主張はせず、数多の鍛錬によって引き締まった彼女の肉体を見事に飾り立ていた。
更に後ろにまとめた美しい黒髪のポニーテールは真夏の太陽の光を受けてきらきらと輝き、左右に揺れる度に周囲の女性たちの羨望の眼差しを買っている。
鬼口だ。普段の彼女とは比較にならない肌の露出具合に、季太朗は思わず面食らった。
途中、馴れないサンダルで少しだけ足をもたつかせながらも彼女は無事、季太朗たちの元へと辿り着いた。
「例年にも増して凄い人混みですね! 何度か迷ってしまわれた方に道を尋ねられました。でもなぜか皆さん途中で顔色が悪くなられて……」
それ、多分ナンパでは、と季太朗は口に出しそうになったが、彼女の背後に密着していたある人物の圧によって口を閉ざさざるを得なくなった。
優に二メートルに迫る傷だらけの巨体と山のように盛り上がった筋肉、真っ黒なサングラスに横一文字に固く結ばれた口。今にもダダッダッダダン!! と某ターミネートするサイボーグのBGMが聴こえてきそうだ。
極東支部隊長たるレミー・ブルックである。
そりゃ、こんな筋肉モリモリマッチョマンが近くで目を光らせていたらナンパを仕掛けても上手くいく訳が無いだろうなあ、と季太朗はほんの少しだけ玉砕していった人々を憐れんだ。彼らに良き出会いがあらんことを。
「……よし、全員揃ったな! では改めて今回の作戦内容を説明するぞ」
娘・絶対守護オーラ~近づく奴等はターミネート~、を迅速に解除したレミーは、極東支部メンバーが全員揃ったのをサングラスごしに確認すると、そう言って大きく口を開いた。
季太朗たちはただ、ビーチに遊びに来たわけではなかったのだ。
「ここ最近、この浜辺付近で行方不明者が相次いでいる。時間は不規則で昼に遊びに来た団体から一人が忽然と消えたり、夜釣りに行ったきり帰ってこなかったりだ。
加えて今はシーズンで人も途絶えることがない。犠牲者をこれ以上増やすわけにはいかん。各員、目を光らせて監視を頼む」
全員が無言で頷いた。
浜辺の失踪事件の解明。それが今回、極東支部に課せられた任務だ。
「……すまん。本当はお前たちに純粋な慰問旅行として羽を伸ばしてもらいたかったんだが……」
少し目を伏せるような仕草の後、レミーが強面を崩して、申し訳なさそうにそう言った。
実は、当初はようやく都合のついたオフィスの修繕作業にかかる時間を利用して、極東支部初の慰問旅行が計画されていたのである。加えてヤマダ事件で傷ついた体の療養も視野に入れられていたのだが、ならば行くついでに片付けてくれと警察に投げられたこの依頼の所為でそんな空気ではなくなってしまったのだった。
だが、謝られた当人たちは何てことない顔をして言いのけた。
「あんたがそういうの無視できない難儀な性格なのは知ってるわよ。
なに、霊がらみじゃなくても熱中症とか離岸流とかも恐ろしいから、そういうのも見とくわ。いざとなれば処置もできるし」
「自分は機材が無ければ役立たずに等しいんですけどねえ。
ま、人通りの多い屋台並びあたりを適当にぶらぶらして目の保よ、観察して何か騒ぎがあれば連絡します。人の会話にも耳を傾けときますよ」
「私も極東支部の一員として協力するのは当然です。
……皆さんとの旅行は非常に楽しみにしてましたから残念ですけど、前回のような失態は、二度とは」
「わかってます。ステラセンサーもあるので何か気付いたらすぐに報告します。レミー隊長もお気を付けて」
「……ああ」
かけられた頼もしい言葉の数々に思わずジーンと来てしまったレミーは、慌ててサングラスを深く掛け直した。
頼れる仲間がいるということの素晴らしさを彼は改めて認識する。
そしてアンジュ、タカハラは足早にその場を去っていった。例えどんなに浮かれている姿格好であっても仕事は必ず、迅速に完遂する人物たちだ。心配する必要はないであろう。
問題が起こったのは、続いて鬼口が動こうとした時だった。
「おっとぉ! アイラ、お前はここで季太朗と一緒に待機だ!」
「なっ、何でですか!? 私なら皆さんの何倍も移動できます! 」
てっきり自分も浜辺を捜索するのを当たり前と思っていた鬼口は、思わぬ所から飛んできた待機命令に目を白黒させた。当然、鬼口から反論が飛ぶ。
「ほ、ほら、季太朗は今回安静命令が出てるだろ? こいつ色々無茶するからお前に近くで監視してほしいんだよハハハ」
季太朗の肩をバシバシと叩きながらレミーは歯切れの悪い顔で鬼口の説得を試みた。
実際、この時の季太朗にはヤマダとの戦いでの傷が癒えていないことを理由として安静命令が出されていた。故に神無月も今回ばかりは季太朗の手が届かないよう厳重に回収されている。
「あの、隊長。流石に俺も今回ばかりは武器もないし、鬼口さんに迷惑をかける訳には」
「自分の前科を思い返してから言ってほしいなァ?」
「うっ」
思い当たる節が急速に脳裏に浮かんできて季太朗は言葉に詰まった。テケテケの時だったり、鬼の時だったり、ヤマダの時だったり。特に後者に至っては無意識であったとはいえ武器も持たずに突撃してしまったのだから弁明の余地もない。
「でもですね……」
「いいから耳貸せ!!」
それでもなお遠慮しようとした季太朗を、レミーが乱暴に引き寄せた。完全に筋肉で固められた季太朗に逃げ道はない。
「あのな、さっきも気付いてただろ? アイラの奴、ナンパとかに対して耐性がないんだよ。異性の怖さってやつを碌に知らないの! なら、お前と一緒にいてもらった方がこちらとしても安心できる訳。
……まあ、少しでもアイラに興味を抱く奴がいたら闇討ちしてた俺の責任でもあるんだが……」
娘の異性交遊を認められない頭の固い不器用な親父そのものじゃねえか!! と季太朗は盛大に心中で突っ込んだ。
しかし、世の中には女性を食い物とする悪質な男達が溢れているのも事実。加えて開放的になった鬼口はとんでもなく美人である。そう、美人であるのだ。そういった危険性がないとは、とてもではないが季太朗は言い切ることが出来なかった。
「……いーたたたー! 鬼口さんに切られたところが急にイタミダシター! 誰かそばにいてくれないとコマルナー!」
「どええええ!?
えっ、嘘!? 大丈夫ですか季太朗さあん!?」
結果、季太朗はレミーの提案に乗る事にした。
彼は大袈裟に体の痛みを訴える演技をして鬼気迫る勢いで地面に膝を抱えて座り込んでみせた。案の定鬼口は反応し、慌てた様子で季太朗に駆け寄って背中をさすり始める。
そうするしか引き止める手段がなかったとは言え、鬼口の強い責任感を利用した形になってしまった季太朗の良心は本当にギシギシと音を立てて痛み出したが。
(すまねえ季太朗、この借りは必ず返すッ!)
(今月の給料楽しみにしてますよこのヤロー!)
実行犯両名がアイコンタクトのみで迅速にそのような内容の会話をした後
「という訳だアイラ、責任持って季太朗を見てやってくれ! サラバダー!」
「ちょっ、おとっ、レミー隊長ー!?」
脱兎の如く筋肉の塊は人混みへと消えていった。
後にはどこか遠い顔つきの季太朗とステラ、そして未だ狼狽中の鬼口が取り残された。
「うう……。
ご、ごめんなさい季太朗さん! まさか私の所為でそんな事になっていたなんて!
傷口は開いてませんか! 鎮痛剤がいるなら買ってきます!」
「ダイジョウブデス……アリガトウゴザイマス……」
特製外套による防御や病院の医者たち、何よりアンジュの尽力もあって、身体に刻まれた傷はとうに完治しているという事実が更に季太朗を罪悪感の渦に叩き込んだ。
先程からふにんふにんと背中に当たっていた鬼口の柔らかい何かの存在にも気付けなかったほどに。
そしてその二つのお餅を愕然とした表情で凝視しながら、自らの胸部を何回も両手で往復させていたすぐ後ろの幽霊少女にも気づけなかったほどに。
●
何分か経って、季太朗が悶絶の演技を止め普段通りに振る舞い始めると、鬼口もまた落ち着いたようで、背をさする手を止めて季太朗の隣に静かに腰を下ろした。
「よかったあ……季太朗さんがまた倒れてしまったら、私……」
「背をさすってくれてありがとうございます……お陰でだいぶ楽になりましたよ」
何とか罪の意識に押し潰されずに作り笑いを作ってみせた季太朗は、鬼口の方に向き直って礼を述べた。
季太朗がその時に見た鬼口の目尻には、僅かに涙が溜まっていた。騙した自分が全て悪いとはいえ、そこまで心配することでも無かろうにと季太朗は思って、鬼口の涙を人差し指を使って軽く拭った。
途端、鬼口の頰に赤みがさした。
「あれ? 鬼口さんの方こそまさか熱でも」
「違います私は至って健康体です学校の身体検査でも常に健康優良児でしたし!!
とはいえこのビーチ凄い暑いですね私もコーラいただきます!!」
鬼口は乱暴に季太朗の傍らのクーラーボックスに手を突っ込んだかと思うとコーラの缶を掴み出して素早く蓋を開け、口元に運んで一気に傾けた。となると当然、
「んむっ!? けほっけほっ!」
お約束どおり鬼口は強烈な炭酸でむせ返してしまった。
そしてそれをすぐ隣で見ていた季太朗はというと
「……くくくっ」
つい先程同じようなことをやらかした誰かさんの姿が重なって、思わず笑ってしまった。すると流石の鬼口も恥ずかしい所を笑われてむっときたのか、季太朗にじとっとした視線を向け、口をへの字に結んだ。
「うう、女性の失態を見て笑うのはどうかと思いますよ季太朗さん」
「ああごめんなさい。はい、ティッシュです」
自らの手荷物から取り出したポケットティッシュの容器から二、三枚を取り出して、季太朗は鬼口に手渡した。鬼口はそれを口を押さえていない方の手で素早く受け取ると、拭き残しのないよう細心の注意を払いながら口元を拭き始めた。
しばしの沈黙がビーチパラソルの下に流れる。
「……みんな、楽しそうですね。この場所には命の危険がすぐ隣にいるのに」
季太朗がおもむろに口を開いてそんなことを言った。その目は遥か彼方の水平線を見つめていて、言葉では言い表しようのない感情がこもっていた。
「そうですね。我々が迅速に見つけて対処しなければ……!」
「ああ、いや、それもあるんですけどそうじゃなくて」
季太朗の命の危険という言葉を行方不明事件のことと受け取った鬼口の言葉に、季太朗は苦笑いをして
「海は……家族が死んだ場所ですから。あまり、好きになれないんですよ」
悲しみに暮れた顔で、そう言った。
人々の喧騒の中であっても波の満ち引きの音がやけに明瞭に、虚しく二人の耳に響いた。
「……季太朗さん、私」
「だから、鬼口さんが隣にいてくれて本当に助かりました。海を見つめていると自分が吸い込まれそうな気がして……。
俺は、まだ……」
季太朗の手が無意識に、固く、固く握りしめられた。爪は掌の皮を抉らんばかりに食い込み、拳が小刻みに震え出したその時、季太朗の手が弱々しくも力強く、何かに包み込まれた。
はっとして季太朗が視線を落とすと、ステラが両の手で季太朗の拳を包み、季太朗の瞳を真っ直ぐに見つめていた。
「だいじょうぶ……きたろうはひとりじゃないよ?」
「…………」
季太朗は半ばそっけなく、無言でステラの頭頂部に手を置いて、わしわしと撫で擦り始めた。彼は何も言わなかったが、その指の動きに慈しみの情が籠められているのは傍から見ても明らかだった。
その一幕はまるで本当の家族のようで。
結局、レミー達が戻ってくるまでも季太朗は、鬼口とたわいもない会話をしながらも、ステラから手を離すことはなかった。
●
場所は移って旅館の一室。時刻は夜の八時ごろ。
木製の机の上にはこれでもかと言わんばかりの豪勢な食事が広げられ、それをぐるっと囲むようにして極東支部メンバーが座し、せわしなく各々の手と口を動かしていた。
「~~っ! この伊勢海老美味しいわ~! 食品添加物に汚染された肉体が浄化されていく~!」
感動の声を上げながら、アンジュは伊勢海老の剥き身にガブリと噛み付いた。
そのすぐ隣ではタカハラが風貌に似合わず丁寧な所作でもって刺身を口へ運んでいる。
「いやー飯がうまいって評判の宿がうってつけの場所にあってよかったっすわ〜。飯は英気の元っすからこれくらいの贅沢は全然神サマも許してくださるっしょ。
あ、隊長わさびいらないんだったら下さい」
「調子乗りすぎて酒とか飲むんじゃねえぞー。飲んだやつは漏れなく海に叩き込んでやるからな。
しかしどうも俺には味が繊細すぎてなぁ」
盛られたわさびをひょいひょいとタカハラの皿に移しながらレミーがぼやいた。
「おとっ……たいっ……レミー、さんはヘビースモーカーだから味覚が死んでるのでは?
健康にも悪いですし真面目に禁煙を考えて欲しいのですが」
すると今度は不服そうな顔で茶碗蒸しを手に持った鬼口がレミーに苦言を呈した。
しかし、次に鬼口が木匙で優しい黄色をしたそれをすくって一口口に含むと、彼女の顔は自然とほころんでしまい、残念なことに威圧感はゼロだ。レミーもそれに乗じて口笛を吹いてごまかした。
ちなみに今鬼口は、節度が必要な時を除いてレミーのことを『隊長』と呼ばないように練習している最中だったりする。
実は一度鬼口が鏡の前で実施していたレミーを『お父さん』と呼ぶ為の訓練中にうっかりレミー本人がそれを目撃してしまい、鼻血を出しながら空中きりもみ三回転半をキめた結果、赤面涙目の鬼口に医務室に担ぎ込まれたことが語り草になっていたり。
そんなこんなで流石にお父さんとは恥ずかしくてまだ呼べないのだが、さん付けまでなら何とか言えるようにまで鬼口は成長? していた。
「むう、この味付け……料理長はかなりの腕前と見ました。これは厨房にせんにゅごほんっお邪魔してパク、参考にするのもやぶさかでは……!」
「風香それはマジでやめろな? ただでさえお前のせいで何か客室から変な呻き声が聞こえるって女中さんと他のお客さんの間で騒ぎになってたんだからな?
これで怪奇! 調理場に出没する謎の女幽霊! みたいなことになったら二度と遠征には連れてこないぞー」
「それだけは勘弁じてぐたざい季太朗さまーー!!!!」
目を爛々と光らせながら焼き魚を咀嚼して味付けを参考にせんと調理場に乗り込まんとしていた風香を季太朗は一蹴した。
案の定風香の泣き声、というか呻き声は季太朗たちが帰館した時には騒ぎになっており、危うくお祓いでも呼ばれるかというタイミングで『自分たちそういうの大丈夫なんでー慣れてるんでー!』と何とか阻止に成功したのであった。
これ以上怪奇現象を量産して旅館の営業に迷惑をかけることだけは季太朗は絶対に避けたかった。
タカハラの結界を貫通する程の風香の怨嗟、恐るべしと言ったところか。
なんせ彼にしては珍しく沈んだ顔つきで『以後、改善に努めます……』とタカハラが言ったほどだ。
「きたろうきたろう!! つぎあれたべてみたい!!」
「はいはい」
そんなやりとりを季太朗がしていると、ステラが季太朗の肩あたりをくいっくいっと引っ張って、長机の向こう側を指差してキラキラした瞳でそんな主張を始めた。
季太朗はその要求を聴くと自らの箸を遠くの方に伸ばし、だし巻き卵を一つだけ掴んだかと思うと、そのまま流れるような所作でもってステラの口に突っ込んだ。
もぐもぐとステラの口元が際限なく動き出す。
「~~~~!!」
今にも落ちそうと言わんばかりにほっぺたを両の手で押さえながら首をぶんぶんと振り始めたステラを見て、季太朗は苦笑した。
ステラはさっきからずっとそんな感じで季太朗に料理を取らせて食べてみては美味しさに身悶えるという事を繰り返していた。ステラにとって、目の前の料理の数々は宝箱の中の色とりどりの宝石にも等しいに違いないと思えてしまうほどだ。
「また関節キスっ、にお口あーん、までっ……!
もう我慢なりません。き、季太朗さま! 風香にも、ぜひ風香にも!」
「お前は箸うまく使えるだろうがってオイやめろそのワキワキしてる手の動きと口から垂れてる涎を今すぐ止めあぁーーーーーーッ!!」
……昼間の放置が引き鉄となって風香の暴走スイッチがONになり、季太朗を押し倒したところから極東支部の和気藹々とした夕食は闇鍋の如く混沌の様相を呈し始めてしまった。主に被害者は季太朗だけであったのが不幸中の幸い(?)ではあったが。
季太朗にべったりと貼り付いて離れようとしない風香と、それを引き剥がさんとするステラとの間でもみくちゃにされながら季太朗は思った。
昔は、特に極東支部に入隊する前は一人静寂の中にいる方が好きであったのに、今そこから凄まじく遠く離れた喧噪の中にいても、不快に思うどころか安らぎを覚えている自分がいる。
(こんな夕食も、悪くねえか……)
最早自分では収拾の付けられなくなった目の前のキャットファイトを半ば諦念から、半ば興味本位で放置して、季太朗は息を一つ吐いた。それに溜息のような重苦しさは一切なかった。
夜もこれから更に深くなる。極東支部はこの後、夜通しで海岸線の警備と監視にあたる予定だ。
今夜、季太朗は自身の最大の苦難に出会う事になるとは夢にも思わず、任務に備え身を休ませる為に目を閉じた。