#15 薫
生い茂る木々の向こうに見える夜景は、星空よりも明るかった。
星の如く煌く光が、無数に密集し、地上に夜空を形成している。浪漫は無い。あるのは人々の生活の、営みの証明。この僻地にまで漏れ出し、観測できるだけだ。
人々は、夢を見ることよりも、地に立つことを優先した。その結果、空の星よりも、地の灯りの方が明るくなったのだ。
それを否定する気はない。夢を見て墜ちるのでなく、現実を行き抜くために足を着けるのは利口な選択だ。
さっきまでの薫なら、あまり良い気はしなかっただろう。
『蓮灘の記録』を自分の物にする――そんな、大きな望みを持っていた薫であれば、同じようにしない人々を、蔑視したかもしれない。
けれど、今の薫は違う。この名にふさわしい働きをする。それだけを考えている。
木々の中から、足音が聞こえた。薫は視線を向ける。『蓮灘の記録』は膂力だけが優れているのではない。優れた五感、視覚の内、夜間視力も常人を遥かに上回る。
その人影に、薫が驚き、恐怖を抱くことはない。予定していたことだし、何より――覚悟は、決まったから。
「何も考えが無いわけではないらしいな、『蓮灘の記録』」
厳かな声が響く。重低な男の声は、夜気を震わせ、鼓膜に届く。
「降棚……」
「練磨だ。私の名前だ。『蓮灘の記録』」
「蓮灘薫」
考えもせず、言葉を紡いだ。
「私の名前。『蓮灘の記録』じゃないわ」
練磨は、頷いた。
「……そうか。では蓮灘薫よ。もう一度訊く。『蓮灘の記録』たるその力、我が国の再建のために役立てる気は無いか? 『蓮灘の記録』として生きていく気は無いか?」
薫は、首を横に振った。
「論外だ、そんなの。……『蓮灘の記録』が私の一部であることは認めるよ。けど、それだけなのは我慢できない」
だって――『蓮灘の記録』じゃない薫を、認めてくれる朱莉がいるから。
「私の居場所は、私が決める。私の居場所は個人なんだ」
薫の明確な意思表示に、降棚練磨は嘆息した。
「記録でもなく、引き継ぐわけでもなし。だというのに、その名を騙るか、蓮灘薫。……いいだろう。ならば私は、その腕なり頭なりを引き千切り、貴様の身体に刻まれた『蓮灘の記録』を手に入れるまで」
怒気は、静かに渋い声に沈殿している。
上等だ――薫は応える代わりに、膝を曲げ、腰を落とす。
状況整理――足場は土。だがこの一週間、雨は降っていない。ぬかるんでおらず、乾いていて、足場は悪くない。
周囲は木々に覆われている。夜とはいえ、月明かりがあるが、木々の陰が闇を作り出している。
薫と練磨は、両者共に木々の中にいる。両者の距離は七メートルほど。練磨が警戒して開けた間隙だ。だが――薫にとって、そんな距離は一歩に等しい。
両者が飛び出す。電光石火の勢いで、舞い落ちる葉を蹴散らし、地の土を蹴り飛ばす。
蓮灘は、身体を走らせる。
降棚は、亡霊を奔らせる。
吹き荒ぶ見えない力が迫ってくる――既に前に飛び出した薫だったが、右腕を横に伸ばして、一本の木を掴まえる。すると薫の軌道は、強引に右に曲がった。まるで運動会の『台風の目』のように、薫は木の周りをぐるりと回る。
勢いを付けた降棚の『力』が通り過ぎたタイミング――木の周りを一周して、薫は練磨に向かって飛び出した。
掌底は間に合わない。脚を前に出す暇も無い。今はとにかく当てることだけ考えろ――薫は腕を交差させ、突貫する。
『降棚の記録』の『力』による対処は間に合わない――とにかく相手身体を疲弊させろ――薫の目的は、まずそれに絞られていた。
だから、相手がそれに応えたのまでは、薫の思い通り。
けれど、それが薫を一気に不利に追い込む。
練磨は腰を落としてる。突進してきた薫の腕を掴むと、半身にして薫を横に流す。
――なっ……。
思考の暇は無い。薫は前回りの要領で地面を転がり、一回転して起き上がる――目の前に巨木――危うく、ぶつかるところだった。すぐに振り返る。
そこに放たれる降棚の拳撃。それは解創の力によるものでなく、本人の身体によるものだった。――完全な意識外の不意打ち。薫は斜め横に飛び退きながらも、回避は間に合わないと悟る。
「――っ!」
息を止める。腹筋が硬直し、筋繊維は瞬時に、内臓を守る防壁と化した。鍛錬された腹筋に素人が殴り込めば、殴った側が脱臼したり、最悪骨折するということも有り得る。その点、薫の腹筋は、常人にとって、大樹の幹に等しい強靭さだろう。
だが――練磨に、そんな常理は通用しない。
音すら発破しそうな勢いの拳が――急停止する。
まるでブレがない。ブレーキなどという言葉では生ぬるい。まるで壁にぶつかった様に、運動が一瞬にして消え去った。
代わりに、腕は急上昇して薫の顔面を掴む――アイアンクローだった。
後退しつつ、振り返っていた薫は、自分自身の身体に掛かる勢いを殺せていない。相手にそれを利用され、身体が仰け反る。
練磨は、右腕の膂力と、左腕の膂力分の降棚の『力』で、強引に、後頭部から地面に叩き付けようしてくる。
完全に死に体だ。反射的に身体を捻り、バックステップで後退しようとするが――その一瞬、アイアンクローから逃れるために捻った腹が、ちょうど練磨の正面に来る。
顔面から手を離すのと、腕を曲げるのは、ほぼ同時という神業の域。石英を超えた強度の骨による鋭い肘鉄を、仰け反り、弛緩した腹筋に突き立てる。
「が……!」
息が漏れる。意識が白く灼ける。
筋肉は、収縮することより凝固し、打撃から内臓を守る。だが、腹筋に力を入れられない体勢では、収縮も何もあったものではない。
その点、今の薫は致命的だった。ほぼ完全に仰け反った体勢では、まるで力が入らない。さらに上は練磨だ。体重の加速が加算される。
無防備な体勢、相手の最大の攻撃力。ダメージは確実に筋肉、そして内臓に響いてくる……。
軽率だったと、薫は自分の判断ミスを悟った。相手を疲弊させるつもりが、こっちが追い詰められている。
土の地面に身体を打ち付ける。アスファルトよりは人情があるが、今の薫には硬い地であることに変わりは無い。
仰向けの薫に、続けて放たれる右脚の踏み込み――薫は、動体視力に任せて、どうにかそれを避ける――が、激痛に目が眩む。――感じるのは、力の気配。
「ぐぅ……」
踏み込まれた先に降棚の『力』の一撃。右脚分ではなく左脚の一撃。しかも放たれたのは、先ほど肘鉄を食らったばかりのわき腹だった。これには流石の薫も蒼白ものだ。
一瞬、その場で止まった薫の視界に、信じられない物が映った。
爪先――一瞬で間合いを詰めた練磨によって放たれる、右脚のサッカーボールキックだった
確実に頭を狙ってきていた。この鍛えられた男の脚を諸に食らえば、下手をすれば頚椎を粉砕されかねない。薫は右に身を捻って、頭だけは防御する――左肩に激痛――構わず、寝転んだ体勢のまま、地を踏んだ。
ボッ、と音を立てて吹き飛ぶ土塊。同質の音を立てて土塊は空中で吹き飛ぶが、その目くらましの間に、薫は寝たままに跳んで、距離を取る。
とりあえずは安全圏に逃げ込んだ。しかし、呼吸すらままならない。喘ぐようにして酸素を貪る。腹や肩など、痛みの残滓は、まるで消える気配が無い。
――本当に人間の打撃かよ……これ……。
そう思い、身体を起こしたとき――左肩に、またも激痛があった。
「まるで曲芸だな、『蓮灘の記録』」
――ヤッバ……。
薫には、練磨の軽口など、聞こえて居なかった。
背筋が凍る。まるで左腕に力が入らない。折れた――そう思った。
だが、薫の体感覚は、自身の身体の損傷を正確に把握していた。骨折は無い。だが、肩の関節が脱臼している。どちらにしても危機的状況だった。
利き腕の右で無かったのはいいが、とはいえ腕が一つ使えないだけで、身体一つを武器とする薫にとっては、大打撃だった。
――くっそ……。
逃げるか? いや、そんな選択は無い。背を見せれば不利なのは薫だ。降棚自身はどうか知らないが、背を見せれば『降棚の記録』の『力』の絶好の的だ。
――なら……――!
腕が使えないなら、脚を活かすまで――!
薫は、その場で屈むと、手短な木の根元の方を右手で掴み――握力だけで、ごっそりと削りとった。
立ち上がりつつ身体を半回転――螺旋に掛かる遠心力を左脚の踵に乗せて、巨木に叩きこむ。
まるで、鈴切桐高との戦闘の再現だった。
がさがさと、猛獣の存在に騒ぐかのように音を立てる木の葉。勢いは増し、そして練磨に向かって倒壊する。
練磨ならば、難なく避けられるだろう。桐高の時とは違い、土砂による目晦ましはしていない。だが――それで十分だ。
練磨は勇猛にも前に出た。薫から見て右斜め前。薫は一度、左斜め後ろに下がって、倒れかけの巨木を、練磨との間に設ける。
薫は続けて右脚を大きく上げると、倒壊しかけている木を、踏むようにして蹴りつける。プロレスにおける16文キック、フロント・ハイキックなどと言われる代物だ。大腿四頭筋をフルに使い、文字通り倒れかけの巨木を蹴り飛ばす。
倒壊による攻撃だと思い込んでいた練磨も、これには驚いたらしい。その場に屈み、身体が停止する。降棚の『力』を使って、巨木を上に逃がすつもりだろう。
狙い目だ――薫は獲物を追い詰める猟師のように瞬時に判断すると、躊躇なく、その場で蹴りを放った。――ただし、足の先の指は曲げて。
吹き飛ぶ一閃――高速で飛翔した薫の運動靴が、屈んだ練磨の首元に直撃する。
巨木が上に飛び、練磨がやり過ごすが、さきほどの不意の投擲の一撃に、混乱している――その時にはもう、薫は、左脚で跳んで、練磨のすぐそばまで踏み込んでいた。
今度は薫が腕を曲げ、右肘を突き出して、屈んだままの練磨に向けて、体重と共に振り下ろす――!
肘に、なにかが当たる感触があった。
防がれた――『降棚の記録』の一撃だ。まるで粘っこい空気に触れたよう……空気が、硬い泥に変わったようだと思った。『力』の防壁に、薫の一撃は、まんまと防がれる。
――これ……!
薫は感触から気付いた。『降棚の記録』の『力』の正体は――圧力と、流体だと。
おそらく『力』は空気を媒介とするのだ。空気の塊を圧縮し、それを使って打撃を加える。時に身体に絡みつく。
そう、これは、流体の操作の一種なのだ――そう悟ったとき、薫の頭に、妙案が浮かんでいた。




