#16 練磨
薫の一撃を予期した練磨は、背中に『力』を放って、薫の渾身の肘鉄を、見事相殺してみせた。
全身の力を使った肘鉄だ。薫は体勢を崩して、前回りに転がっているはずだ。その間に練磨は前進して距離を取りつつ、その間に『力』を放って牽制の一撃を加えられる。
が、と木を抉る音。
振り返る。ぱらぱらと、ささくれが宙を舞って、落ちる。薫がいると思っていた場所に、既に薫はおらず、代わりに木を削ぎ落とした。
どこかの、木の陰に隠れているのだ。何処だ――音一つしない。それほど太い木は無いから、身を完全に隠しきれはしない。だが暗闇で視界が悪いこともあり、見つけるのは至難だ。視点を変えるしか無い。
がざ、と音がした。土を物が滑る音――
「そこか!」
練磨が、音のした方向――右後ろ――に、降棚の『力』を走らせる――そこにあったのは、人ではない、もっともっと小さな物体。
さっき脱げた運動靴。拾って投げたのだ――気取られた一瞬、真反対――左前――からの重圧を感じ取る。そこに、迫り来る蓮灘薫がいた。
反射的に練磨は、薫の顔面に左拳を突き出した。薫は右に首を曲げてそれを避ける――口元を擦過する親指が、暗闇で赤い血を引く――。
薫が、渾身の力で体を半回転させる。腹筋と広背筋をフル稼働させて――遠心力が生まれる。宙ぶらりんの左腕が、独楽に付けた糸くずのように身体の外へと投げ出される。
がん、という硬質な音。薫が投げ放った左拳が、練磨の掌に収まっていた。
獰猛に――勇猛に、薫の口が、下弦に歪む。端から滴る赤い血は、月から滴る血涙の如く。
反転――そして放たれる右の裏拳。練磨は『力』の腕でそれに対処する。受け止めた裏拳はピタリと止まるが……。
「――入った」
それが、左肩の関節を示すものだと、練磨はすぐには気付けなかった。
「ぐおっ……」
右脇の下から、迫撃砲の如く放たれる左の掌底。瞬時に防ぎに入った『力』の防壁。腹から向こう側に流れる『力』によって、薫の打撃を相殺する――筈だった。
薫の腕の軌道が、急速に変動する。それは、ほぼ直角。地面に平行だった軌道は、突然垂直に――ストレートは、歪なアッパーへと変化した。
練磨の『力』に衝突し、薫の掌底は流される――だが。
まるで金槌で顎を打たれたように、練磨の身体が仰け反った。
衝撃を光情報と勘違いした神経が、不適刺激を誘発して、練磨の視界を眩い白で染め上げる。
――これは……!
はたと、練磨は、その正体を理解した。
衝撃の波動性。練磨の『力』は、空気を媒体として対象に力を加える。圧力を与えられた流体は粘性を帯びる。これを壁に見立て、薫は打撃を加えた。結果、衝撃は空気層の向こう側に波動となって伝播し、向こう側にある練磨の身体にダメージを与えたのだ。
だが、今までだって、同じように『力』と薫の打撃は、幾度となく衝突していた。だがこれまで、練磨に薫の打撃の波動は届いていない。それは『力』の空気層に、薫の打撃とは逆方向の力が掛かっていたため、その衝撃を相殺していたからだ。つまり……。
――この女……!
薫は、『力』の空気層に対して、垂直になるように打撃を加えたのだ。最初、ストレートな打撃に対して練磨は防ぎに入ったが、薫はそれから打撃の軌道を変えている。
「ぐお……!」
練磨の力を逆手に取った、薫のセンスが為せる技。
ただ単に、薫が拳を寸止めしただけでは、こうはならない。だが『降棚の記録』の『力』が空気に粘性を帯びさせるために、このような異常事態が発生した。
軌跡のように腕を残して、仰け反る練磨。起き上がろうとしたところで、顔の目の前まで迫る左手の掌底――練磨は渾身の力で相殺する――が、薫の拳が空気層に触れたとたん、反射した。
弾かれたように薫の拳が――いや、上体ごと逆方向に転じる。左脚を軸にした動き。まるで『降棚の記録』の『力』で、反動を付けるように……。
薫の身体が、急激に捻られる。放たれる右膝に気付いたときには、それはもう『力』の空気層を斜めに蹴り上げていた。
振り子のように、右膝蹴りが止まり、粘性を帯びた空気の塊が飛ぶ。――進行の先には、練磨の右腕。巨大な木槌に打たれたように、練磨の腕が嫌な音を立てる。
――なぜだ!?
練磨は、歯噛みする。
距離においてアドバンテージがあるという観点から、『降棚の記録』が『蓮灘の記録』に敵うなど、到底、考えられなかった。
だが、なんだこれは?
『蓮灘の記録』は、その身体の力を活かしきっているのか? 否だ。もっと速く、もっと強く打つこともできる、だが、それをしたら人体が木っ端の如く破裂する。
加減された、甘い攻撃。そんなものを相手にして、負けるはずは無いと思っていた。それなのに……。
――蓮灘さんなら、あなたには負けないって、信じてるから。
なぜか、その言葉が脳裏に蘇る。
ぱん、という空気を破裂させるような音。指を絡めた、薫の両手が振り上がり、練磨の顔面目掛けて振り下ろされる――!
ここで反撃を食らわせても、この女は打撃を止めない。確信があった。
素手で受け止めるという選択肢は無い。避けられる速度でもない。後手に回されると分かっていても、練磨は『力』で防がざるをえない。
力を伴う空気の塊が触れる――その瞬間、指が解ける。
「な……!」
言葉を失う練磨。腕の流れる力が乗った薫の上体が前に飛び――その先端、頭突きが、練磨の懐にめり込む。
分厚い頭蓋骨の一撃は、さながらジャコウウシの如き一撃だった。内臓が潰れ、練磨の体が、後ろに大きく吹き飛び――そして、勢いよく巨木に背中を打ち付ける。
衝撃に肺が硬直する。呼吸が止まる。思考が停まる。
明滅し、白く灼ける視界の中で、練磨は何とか身体を起こそうと試みるが、全く力が入らない。
ふと、目を開ける。
そこには、蓮灘薫が、目の前に立ちはだかっていた。
「俺は……負けたのか?」
自分でも不思議なくらい、弱気な発言だった。
「やる気があるなら、立ち上がればいい……立ち上がれるもんならね」
振り上げられる右の脚――止めの一撃だ。練磨は観念して、目を閉じた。殺される事はないにせよ、これを食らえば、おそらく自分は再起不能になると。
だが――それは、停止した。
何事かと目を開ける。
「アンタ……なんで……」
薫が、驚いたような声を上げている。練磨も、薫の見ている方向に、視線を向ける。
そこには、茶髪の少女がいた。
背丈は小さい。長髪で、緩くウェーブが掛かっている。
そして、眼鏡を掛けていた。




