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ハニーポット  作者: 指猿キササゲ
$5$ 名前空間
89/113

#13 薫

「アンタがいるとは思わなかった」

 驚きはしなかったが、意外な人物だった。そこにいる事に不自然さがあった。彼女はあくまで『解創を知る一般人』という立場のはずだ。

 だが、そんなニュートラルな存在が、この場にいる。もう少しで、傾きいてしまう場所にいる。

 瀬戸川布由希の時と違うのは、彼女の目を見れば明白だった。そこには巻き込まれた戸惑いはなく、確固たる意思が込められていた。

「角川さんから聞いたの」

 あの馬鹿、なに考えてやがる。薫は心中で、この場にいない追求者の男を罵った。

「で? なにしに来たの?」

 今更止めるつもりなのか、と薫は疑っていた。所詮、鳩間朱莉という人間は、一般人で、さらに友人の事を思う……悪くいうと、おせっかいな性格の人間だ。だったら、物騒な事はよそうとか、そういう平和ボケした考えしか、持っていないと思ったからだった。

「怖くないの?」

 だから――最初の、この発言は、少し意外だった。

「ないよ。降棚ってヤツは強いかもしれないけど、勝ち目が無いわけじゃない」

 そのための地の利でもある。薫は、一刻も早く朱莉の横を通り抜けて、丘陵地帯の奥深くまで行きたかった。

 走った抜ければ、朱莉に止める術は無いだろう。それは頭の中でも分かっている。

 ――なのに、なんで私はしないんだ?

「でも、負けるかもしれないんでしょう?」

 薫は、こんなところでまで自分を邪魔する朱莉に、苛々した。

「大丈夫だよ。『蓮灘の記録』ってのは、『降棚の記録』と同じ解創の技術なんだ。その点だけ見れば五分なんだ。あとは使いこなせるか次第さ」

「けど、今まで貴女は、その力のせいで疎外感を味わってきたんでしょう?」

 お前になにが分かるんだ。薫は咆えようとした時、気付いた。

 自分は、何で彼女の言葉に、これほどまでに動揺しているんだろう?

 降棚練磨を相手にしてさえ、自分は平静で、冷静でいられるのに、なんで彼女には、これほどまでに感情的になるんだろう?

 理由なんて――一つしか無い。それだけ、蓮灘薫という人物と、鳩間朱莉という人物の間の空間が、狭まっていたということだ。

 馴れ馴れしいとか、図々しいとか。そう感じるのも、ひとえに朱莉が、自分に興味を持ち、見て、そして何かを感じて考え、彼女なりに動いていて――それを、薫自身が理解しているからに他ならない。

「止めようとは思わないし、どういう理由で蓮灘さんが、その力を使うのかも、私はよく分からない」

「だろうね」

 返答は紛れも無く本心からだった。だが、そんな事しか言えないのかと、さらに薫は自分に苛立った。

「けど去年から、ずっと一緒にいて、分かった事がある。蓮灘さんは、自分が『蓮灘の記録』だってことよりも、それを使えるかどうかが不安なんじゃないの? 蓮灘さんは、降棚さんが来るから戦うって言うけど、本当は、自分を試そうとしてるんじゃないの?」

「なにが言いたいの?」

 焦りから――もはや何に焦っているのかすら分からないが――薫は、回答を急かした。

「そんなことしなくても、蓮灘さんは、蓮灘さんだよ」

 え、と薫の思考が、空白に染まる。

「蓮灘さんって、苗字で言うから気になるのかな……薫の方がいい?」

 ――!

 それは、薫にとって、驚愕の一言だった。

 苗字か、下の名前か。それだけの違いでしかない。けれど下の名前を使うのは、より親密だという証明だ。苗字という、大きな集合での呼称ではない。名前は、より詳細な、特定の個体を指し示す。

 それを朱莉が使うという事は、朱莉が、それだけ薫との距離を狭めたということだ。

 そして――それは朱莉が、薫を、薫という個人として認めてくれるということだった。

 ――そうか。

 『蓮灘の記録』を自分の物にする。そればかりを考えていた。それができなかったらどうしようかと、それが無意識に足かせとなっていた。

 けれど、ここに、逃げ道がある。それは、薫にとって救いだった。もしも私が蓮灘というものに名前負けしようと、ここで敗北しようとも、この人は――私を、蓮灘でなく、薫という個人として、認めてくれる。

 ――ありがとう。

 感謝の呟きは心中で。それは自然、彼女の眼差しに込められる。

「いや……いいよ、鳩間さん。私は蓮灘だ。蓮灘の薫なんだ。今のままでいい。貴女が、そう呼んでくれる事が、私が蓮灘である事の証なんだ。……もし、嫌になったら、その時は言うよ。薫って呼んでって」

 今は、逃げないでおこう。

 そうだ。私は蓮灘だ。『蓮灘の記録』だ。過去の蓮灘の意図の元、作り上げられた性能を持つ一人の人間だ。

 ただ――薫という私は存在する。

 蓮灘でありながらも――力を与えられながらも、薫という、それを持つ個人が、確かにこいる。

 ――そして、そんな自分を、認めてくれる朱莉(ひと)がいる。

 それで十分、十二分。これが私の自己同一性(アイデンティティー)。やっと見つけた私の価値だ。自分探しの旅(モラトリアム)は、もう終わりだ。次は肯定した自分を証明しよう。

 その重さを認めている。背負っている。そして何より、自分の物にしている。

 もし蓮灘を背負え切れなくても、朱莉は、薫という私を、認めてくれると言ってくれた。

 ――ああ、そうか。

 自分が、自分の名前を嫌いな理由が、わかった気がする。そうだ、名前負けしている自分が嫌いなのだ。だから、自分に非はないと、名前に責任転嫁しているだけなのだ。

 けれど、今は違う。

 『蓮灘の記録』という力を使って、それで自分の物にしたと勘違いしなくったっていい。ここに認めてくれる人がいるならば、私は、ただ思うままに振るえばいい。

 それが、認めてくれる人を前にしても、恥ずべき使い方をしなければ――個人の矜持を持って使えば、それは『蓮灘の記録』なんてものからは乖離された、薫という個人の為した結果だ。

 薫の胸のうちに、熱い何かが生まれた。

「ありがとう……行ってくるよ」

 朱莉は引き止めなかった。道をあけてくれた。薫は朱莉の横を通り過ぎる。暗い道だが、心なしか、重々しさは薄らいでいた。

「いってらっしゃい」

 見送りの言葉を聞いて、薫は振り返って、笑みを浮かべて手を振った。


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