#13 薫
「アンタがいるとは思わなかった」
驚きはしなかったが、意外な人物だった。そこにいる事に不自然さがあった。彼女はあくまで『解創を知る一般人』という立場のはずだ。
だが、そんなニュートラルな存在が、この場にいる。もう少しで、傾きいてしまう場所にいる。
瀬戸川布由希の時と違うのは、彼女の目を見れば明白だった。そこには巻き込まれた戸惑いはなく、確固たる意思が込められていた。
「角川さんから聞いたの」
あの馬鹿、なに考えてやがる。薫は心中で、この場にいない追求者の男を罵った。
「で? なにしに来たの?」
今更止めるつもりなのか、と薫は疑っていた。所詮、鳩間朱莉という人間は、一般人で、さらに友人の事を思う……悪くいうと、おせっかいな性格の人間だ。だったら、物騒な事はよそうとか、そういう平和ボケした考えしか、持っていないと思ったからだった。
「怖くないの?」
だから――最初の、この発言は、少し意外だった。
「ないよ。降棚ってヤツは強いかもしれないけど、勝ち目が無いわけじゃない」
そのための地の利でもある。薫は、一刻も早く朱莉の横を通り抜けて、丘陵地帯の奥深くまで行きたかった。
走った抜ければ、朱莉に止める術は無いだろう。それは頭の中でも分かっている。
――なのに、なんで私はしないんだ?
「でも、負けるかもしれないんでしょう?」
薫は、こんなところでまで自分を邪魔する朱莉に、苛々した。
「大丈夫だよ。『蓮灘の記録』ってのは、『降棚の記録』と同じ解創の技術なんだ。その点だけ見れば五分なんだ。あとは使いこなせるか次第さ」
「けど、今まで貴女は、その力のせいで疎外感を味わってきたんでしょう?」
お前になにが分かるんだ。薫は咆えようとした時、気付いた。
自分は、何で彼女の言葉に、これほどまでに動揺しているんだろう?
降棚練磨を相手にしてさえ、自分は平静で、冷静でいられるのに、なんで彼女には、これほどまでに感情的になるんだろう?
理由なんて――一つしか無い。それだけ、蓮灘薫という人物と、鳩間朱莉という人物の間の空間が、狭まっていたということだ。
馴れ馴れしいとか、図々しいとか。そう感じるのも、ひとえに朱莉が、自分に興味を持ち、見て、そして何かを感じて考え、彼女なりに動いていて――それを、薫自身が理解しているからに他ならない。
「止めようとは思わないし、どういう理由で蓮灘さんが、その力を使うのかも、私はよく分からない」
「だろうね」
返答は紛れも無く本心からだった。だが、そんな事しか言えないのかと、さらに薫は自分に苛立った。
「けど去年から、ずっと一緒にいて、分かった事がある。蓮灘さんは、自分が『蓮灘の記録』だってことよりも、それを使えるかどうかが不安なんじゃないの? 蓮灘さんは、降棚さんが来るから戦うって言うけど、本当は、自分を試そうとしてるんじゃないの?」
「なにが言いたいの?」
焦りから――もはや何に焦っているのかすら分からないが――薫は、回答を急かした。
「そんなことしなくても、蓮灘さんは、蓮灘さんだよ」
え、と薫の思考が、空白に染まる。
「蓮灘さんって、苗字で言うから気になるのかな……薫の方がいい?」
――!
それは、薫にとって、驚愕の一言だった。
苗字か、下の名前か。それだけの違いでしかない。けれど下の名前を使うのは、より親密だという証明だ。苗字という、大きな集合での呼称ではない。名前は、より詳細な、特定の個体を指し示す。
それを朱莉が使うという事は、朱莉が、それだけ薫との距離を狭めたということだ。
そして――それは朱莉が、薫を、薫という個人として認めてくれるということだった。
――そうか。
『蓮灘の記録』を自分の物にする。そればかりを考えていた。それができなかったらどうしようかと、それが無意識に足かせとなっていた。
けれど、ここに、逃げ道がある。それは、薫にとって救いだった。もしも私が蓮灘というものに名前負けしようと、ここで敗北しようとも、この人は――私を、蓮灘でなく、薫という個人として、認めてくれる。
――ありがとう。
感謝の呟きは心中で。それは自然、彼女の眼差しに込められる。
「いや……いいよ、鳩間さん。私は蓮灘だ。蓮灘の薫なんだ。今のままでいい。貴女が、そう呼んでくれる事が、私が蓮灘である事の証なんだ。……もし、嫌になったら、その時は言うよ。薫って呼んでって」
今は、逃げないでおこう。
そうだ。私は蓮灘だ。『蓮灘の記録』だ。過去の蓮灘の意図の元、作り上げられた性能を持つ一人の人間だ。
ただ――薫という私は存在する。
蓮灘でありながらも――力を与えられながらも、薫という、それを持つ個人が、確かにこいる。
――そして、そんな自分を、認めてくれる朱莉がいる。
それで十分、十二分。これが私の自己同一性。やっと見つけた私の価値だ。自分探しの旅は、もう終わりだ。次は肯定した自分を証明しよう。
その重さを認めている。背負っている。そして何より、自分の物にしている。
もし蓮灘を背負え切れなくても、朱莉は、薫という私を、認めてくれると言ってくれた。
――ああ、そうか。
自分が、自分の名前を嫌いな理由が、わかった気がする。そうだ、名前負けしている自分が嫌いなのだ。だから、自分に非はないと、名前に責任転嫁しているだけなのだ。
けれど、今は違う。
『蓮灘の記録』という力を使って、それで自分の物にしたと勘違いしなくったっていい。ここに認めてくれる人がいるならば、私は、ただ思うままに振るえばいい。
それが、認めてくれる人を前にしても、恥ずべき使い方をしなければ――個人の矜持を持って使えば、それは『蓮灘の記録』なんてものからは乖離された、薫という個人の為した結果だ。
薫の胸のうちに、熱い何かが生まれた。
「ありがとう……行ってくるよ」
朱莉は引き止めなかった。道をあけてくれた。薫は朱莉の横を通り過ぎる。暗い道だが、心なしか、重々しさは薄らいでいた。
「いってらっしゃい」
見送りの言葉を聞いて、薫は振り返って、笑みを浮かべて手を振った。




