#10 朱莉
集合とは何だろう?
朱莉は、ぽっと頭の中に浮かんだ命題に、しばし考え込む。
名前は、個体や所属する集合を特定するものだ。鳩間朱莉は個人を特定する名前である。が、私達はこの高校の生徒という肩書きも有る。これも名前、名称だ。
外では、もう秋になろうというのに、ミンミンゼミが喧しく鳴いていた。たぶん今年最後くらいになるだろうなと思いながらも、やはり残暑は厳しく、体育館の中は蒸し暑かった。
木曜日の五時間目。この時間は、ロングホームルームの時間に割り当てられたいた。今回は、夏休みを明けてから、生徒の制服の着こなしがよくないということで、教育指導が行われていた。
全クラスの生徒を対象に行うため、場所は、全クラスの生徒を収容できる体育館しかない。扉という扉、窓という窓は全開だが、それでも風通しは悪く、劣悪な環境だと、生徒はだれる一方だった。これじゃ逆効果じゃないかと、朱莉は思った。
制服の着こなしについて教師が熱く語っている。
みっともないから、男子はシャツを出すなとか、シャツから透けて見えるから、女子は下着の色を白にしろとか。
補足するように、男子もシャツの下に着る服は、白いものにしろと言っていた。けど、指摘するだけで素直に直す人なら、そもそもルールを守っていて、指摘されるようなことは、やっていないと思う。やっていたとしたら、それは事故的なものだ。
教師は、とりあえずルールを守ればいいと、そう言っている。けれど、朱莉はそれは違うと思う。
なぜ、やってはいけないのか。それを理解させる事が、もっとも重要な筈だ。そこを教えず、当人達に考えさせるというスタンスで、ヒントをばら撒くだけでは、気付けない人も多い。非合理的だと思う。
「……えー、今回、こうして注意しましたが、学校の中だけでなく、外でも意識するようにしてください。外を歩いてたら、近隣の人には、制服だけで、どこの生徒か分かります。みっともない格好をしていたら、それだけで学校の風評は落ちるんです」
高校の看板を背負っている自覚を持て。要するに、教師は、そういう旨の事を言っていた。
そんなの、考えている人がいるだろうか?
個体にとって大きな集合は、自分が生きるために、流れるために乗る波でしかない。集合が、他からどういう扱いを受けようと、いざとなれば降りればいいだけだから、気にしない。
これが不都合なのは、大きな集合の偉い人、トップの人たちだ。集合は、自分の所有物のようなものだから。
日本についての話題で騒ぐのも、やはりそれに興味のある人たちだ。
私達のような愚民は、集合の名に、それが指し示す意味に興味が無い。所属はしていても、自分を特定するものではないから。
おかしなものだ。集合の実体は、包含している大多数の者達なのに、それに拘るのは、ピラミッドの土台ではなく、その上に立つ少数だけなのだ。
集合の名も、自分達の名前なのに、その自覚が無い。なぜなら実感を伴わないから。
けれど、やはり教師の言うとおり、個体が、集合の名を背負っていることに変わりは無い。
例えば国家。どこ製のものだから質が悪いとか、良いとか。どこの国は低俗だとか、高尚だとか。仲がいいとか、悪いとか。
そんなの、個人とは、なんら関係無い。その集合に、そういう人がいる、また、そういう人が多いというだけの話だというのに、まるで所属していれば、その全てが、そうであるかのように認定されてしまう。
――蓮灘さんも、そうなのかな……?
視線が正面に向く。そこには同級生の、蓮灘薫がいた。
『蓮灘の記録』。それが追求者の作り出した解創の技術の記録であることは、朱莉は祐輔からの話で熟知している。それが、蓮灘薫という少女のことであることも。
だが、彼女自身と蓮灘に、どれほどの繋がりがあるのだろう?
降棚という、架空の姓の追求者は、おそらく薫を見ていない。『蓮灘の記録』という大きな集合、蓮灘という追求者の家系でしか、薫の事を見ていない。個人を通して、それを含んだ、より大きな集合しか、見ていない。
薫からしてみたら、たまったものではないんだろうな、と思う。自分に近づいてきた男が、自分でなく、自分の家に興味があるというだけなんだから。
――そして、その人は、蓮灘さんの事を……。
最悪、殺してしまうだろう。記録としての情報さえ手に入れば、薫という個人は不要な存在だから。
この長身巨躯の少女が、そんな簡単に死んでしまうとは思えない。けれど、あるいは同様の立場にある『降棚の記録』であれば……。
――けど……。
考えたって、朱莉にできることは無い。相手は最初から『蓮灘の記録』にしか興味が無いのだから、朱莉という、解創のことを少し知っているだけの人間が何か話をしようたって、何の意味も無いのは明白だ。
「どうかしたの? 朱莉?」
教師の話が終わって解散となり、雑然と体育館の出口に流れる人の流れの中で、そう声をかけて来る者がいた。
「……なんでもない」
出来るだけ明るく振舞うつもりだったが、朱莉の口調は暗かった。それは声をかけてきたのが、木村美羽だったからだ。
美羽自身が嫌いなのではない。ただ、彼女の持つ力に嫉妬しただけだ。
裁定委員会の情報員。彼女のような立場の人間は、本来は解創の技術は持ち合わせていないか、大した力は持っていないとされている。しかし美羽は、何故かその力を持ち、朱莉の前で、追求者に対抗してみせた。
けれど、朱莉の心の内側で湧き上がるのは――
――他に、なにか手段があればいいのに……。
そんな、消極的な願望だった。気付いて、朱莉は思う。ああ――結局、私は変わるつもりが無いんだ、と。
「嫌だな」
「なにが?」
朱莉が唐突に言ったので、流石の美羽も、それがどういう意味なのか、予想することは出来なかったらしい。
「私、変わるつもりが無いんだ」
「……前のこと、気にしてるの?」
前というのは、今年の夏、薫が困っていたのに、自分が手助けできなかった時のことを言っているのだろう。それもある、と朱莉は思った。
――私は結局、蓮灘さんと同じ場所には、いないんだ。
「うん。それもある」
「それも?」
朱莉は、一通り、美羽に『降棚の記録』が薫を狙っていることを話した。
「『降棚の記録』ね……全く、あの人はあの人で、夜な夜な出歩くクセ、どうにかしてくれないかしら?」
薫の悪癖が原因だと、美羽は暗に責めていた。
「けど、朱莉が気にすることでも無いでしょう? 『蓮灘の記録』は朱莉の問題じゃないわ」
「けど、一人で抱え込むことも無いでしょう?」
「なら、朱莉は『蓮灘の記録』がどういうことなのか、分かるの?」
それは、厳しい言葉だった。
『蓮灘の記録』どころか、解創一つ使えない朱莉に、それが理解できるはずが無い。美羽の指摘は、確かに的を射ていた。
解創一つ為せない人間が、その人間の気持ちを推し量ろうなどと、傲慢も甚だしい。
「でも……相談くらい、してくれたっていいじゃない」
「あの人は言わないわ。朱莉に言っても仕方ないと分かってるか、諦めてるんでしょう」
諦めて欲しくない、とも思ったし、言われても、私では力になれない、とも思った。
踏み出さないかぎり。解創の世界に浸からない限り。――洋子のように、その力に手を出さない限りは。
消沈する朱莉を、美羽は違う方向から慰める。
「朱莉があの人を『蓮灘の記録』と認める必要は無いわよ。貴女はただ、あの人を蓮灘薫という個人として認めれば、それでいいじゃない」
「そう……かな」
今までどおり。蓮灘薫という、一人の少女を。クラスメイトとして、――そして、友人として。
けれど彼女は、自分のことを、友として認めてくれるだろうか?
微妙な距離感に悩みながらも、朱莉は、やはりその道を辿るしかないと悟った。




