#9 練磨
自分が存在する空間が無い人間が、この世には存在する。
それは物理的なものなのではなく、社会的な意味合いだ。戸籍がある、住所がある。役職がある。そういう人間が大半を占める世の中で、公共を侵食し、名前ある者達の残り物に、肖る者がいる。
だが、彼らのような存在は、自分が今生きている場所すら、自分の物だと証明できない。なぜならそれは、本来、他人のものだから。
練磨は、冷たいコンクリートに、その巨躯を放り出していた。住宅地の中にある、三角形の小さな公園。その中にある、申し訳程度の遊具だった。トンネルの形をしているコンクリートは、小雨くらいなら凌ぐ事が出来る。
練磨は、かれこれ三日間くらい、ここを根城としていた。
朝が来れば、ここから出て街に赴き、あの女を捜す。あの追求者に、蓮灘薫の通う学校の名前や、住所くらい訊いておけばよかったと思うが、いまさら遅いし、あの追求者が正直に答えるかどうかは、微妙なところだった。
物思いに耽っていると、急に、トンネルの一方の入り口が、陰ったのに気付く。
ふと視線を向けると、そこには、顔をひょっこりと覗かせる男がいた。
「おたく、ずいぶん長いねぇ。場所、変えた方がええで」
そこには老男がいた。長い髭をたくわえている。たぶん、ずいぶんと長い間、剃っていないのだろう。髪も長い。薄汚れた、カーキ色のジャンパーを着ていた。ジャンパーは、醤油か何かを零したのか、染みが目立った。身体つきは練磨とは対照的で、骨と皮ばかりだった。拳一つで粉微塵にできそうだと思えるほどに、脆弱な人間だった。顔は皺くちゃだった。歳を重ねただけでなく、苦労と、苦痛が副次的にもたらしたものだった。
「そのつもりは無い。理由が無いからな」
長いからどうだというのだ。これっきり、練磨は無視を決め込むつもりだった。
「そういうても、おまわりが来るけぇ。アンタが目立つと、わしらも困るんじゃ」
「……結局は、自分のためか」
無視を決め込むつもりだったのに、つい、口に出してしまった。
いつからか、この国は利己主義者ばかりになってしまった。追求者だった降棚の家系が言えることではないが、自分のためだけでなく、他人のために動けることこそ、この国の良さだったというのに。なまじ平和になり、助け合いが必要ない社会になってしまったために、そういう温かみは消え去った。
平和は腐らせた。人の強さを、心を、矜持を。
「そりゃ、そういや。おたくだって、自分が生きるために、こうしてるんやろ?」
それは違う。練磨は内心で否定した。私が生きるのは、『蓮灘の記録』を手に入れ、それを用いて国に我々の存在を思い出させ、この国を独立させ、元に戻すためなのだ。
だが――この男に、そんなことを言って仕方が無い。
とはいえ嘘をついて誤魔化すことは、練磨の性格上、出来なかったので、練磨は、抽象的表現で誤魔化すことにした。
「私は、この国のために生きている」
「はぁー」
何も分かった様子でなく、老男は、ぽかんと、口を開けていた。
「でも、あんたも国のために生きるっちゅー目的があるけぇ、生きられるんやろ?」
それは、盲点だった。
「……どういう意味だ?」
分かっているのに、練磨は訊き返さずにはいられなかった。子供が、親に悪戯がバレていないか、確認する時のような気持ちだった。
「ワシらみたいに、生きるのに必死な人間と違ってな、生きていけるのが当たり前になると、他に何かせんと、生きていけんようになるんよ。ワシらは、もう諦めとるけどね」
複数形のあたり、どうやらこの老男には仲間がいるらしい。だが練磨は追及せず、別のことを問うた。
「なぜ諦める? なぜ名を取り戻そうとしない?」
「な? 名前?」
「そうだ。なぜ諦める?」
男は、ため息をついて、肩を落とした。
「そりゃねぇ、金があって、働けりゃ、こんなことせんでも生きていけるわいね。けどね、やろうにもできんのいね」
「なぜ出来ない?」
「こんな老いぼれに仕事なんかさせてもらえんいね」
結局、そういう話なのかと、練磨は落胆した。
名前を手に入れるには、力が要るのだ。
名前を手に入れる。自分の存在を証明し、自らの意味を肯定する。そのためには、それにふさわしいだけの力が必要なのだ。
力。それは人が持つものだ。それは、自ら練り上げ、磨く事が出来るものだ。
降棚練磨は、まさにそれをするためだけの人間だった。
練磨。それは自身を練り上げ、磨く者の名だ。




