#6 薫
私は、いったい、何者なんだろう?
それは、蓮灘という家の、薫という名についての疑問ではない。名前なんて、所詮、生まれた直後に付けられた名前で、その人物がこれから歩む人生を見越して付けられたものではない。もし見越して付けられる物がいるとすれば、それは神だけだろう。
そして薫は神というものの存在を創作の中以外では認めていないので、必定、見越して名前を付けられる存在はありえないという結論に辿り着く。
追求者の角川祐輔、普通の人の鳩間朱莉、裁定委員会情報員の木村美羽……彼あるいは彼女らと繋がりを持つ人間、それが現在の蓮灘薫だ。
だが、その関係は、あくまで、『蓮灘の記録』としての力を持っているために、成り立っている関係だ。
――もし私から『蓮灘の記録』が消えたとき、私は素直に喜べるだろうか?
最近、ふと、そんなことを考えるのだ。彼女は『蓮灘の記録』によって、疎外感を味わっていたし、今でもそれは変わらない。だが、その苦悩と『蓮灘の記録』の意味の追求こそ、彼女自身の自己同一性の大部分を占めている。
もし、それが無くなったら?
背負う重荷が無くなれば、旅の足取りは軽くなる? 断じて否だ。全ての重荷を失うという事……何も持っていないということは……今まで歩んできた証拠を、何も持っていないということなのだから。
『蓮灘の記録』ではない蓮灘薫は、ただの長身な女子高生に過ぎない……いや、恵まれた体格すら、『蓮灘の記録』によるものだ。ということは、それを取り除いた結果は、自分自身すら知らない別人ということになる。
『蓮灘の記録』に泳がされない自由は、逆を返せば、彼女自身の苦悩、これまでの人生全てが消失するということと同義だ。そこに誕生する女は、もはや今の薫の抜け殻であり、まったく、何の意味もない、今の薫とは別の存在だ。
そんなのは、もはや蓮灘薫ではない。誰だ?
薫は身震いした。同時に、あの男を忌々しく思った。
「降棚……」
授業中の教室、生徒の雑談が、僅かに空気に入り混じっている。教師は止めるのを諦めて授業を推し進め、互いの関係は乖離するばかりだった。……とはいえ、全ての生徒がそうではなく、真面目に受けている生徒もいるから、それは教師にとって救いだろう。逆を返せば、なまじ真面目な生徒が存在しているから、授業を推し進める要因となっているのだろうが。
ふと、先ほどまで考えていたことに、思考を戻す。
――蓮灘……痛ましい名だと思わぬか?
男の言葉が、蘇る。鼓膜ではなく、心の内に。
痛ましい名。それは蓮灘を意味する。
何が痛ましい? 蓮灘が、探し出すための記号の意味を、国に尽くした追求者としての意味を、失ってしまったことを言っているのだろう。
「角川が言うのは……嘘だ」
物が残れば証拠になる。だから名前という概念を作り出した――角川祐輔はそう言った。だが、実体の伴わない名前だって、現にこうして残っている。
遺産。以前、死者が持っていた財物。追求者として死んだ蓮灘の遺産。それが今の記録、『蓮灘の記録』たる蓮灘薫という存在だ。
『蓮灘の記録』を使いこなせば、それは私の力になるだろう。そして鈴切桐高を打倒した。強者を打倒するほどに、『蓮灘の記録』を使いこなした薫の力。御して制した薫の願いが、果たされた故の結果だ。
だけど――薫は思うのだ。確かにそれは、間違っていないはず。だけどそれすらも、『蓮灘の記録』によるものではないかと。
使いこなされる道具。それを前提とした力。瀬戸川布由希は、『蓮灘の記録』は上等な兵士を作るための技術だと言っていた。ならば、普遍的で使い易いように作られているのは――軍として動かすため、この素質に囚われないように作られているのは、至極当然なのではないだろうか?
だとしたら――私が『蓮灘の記録』を自分の物にした事すら、当時の蓮灘の意図によるものではないのか?
子孫を、兵を自立させようという意図の元で、それは自分の物になったのか?
一人になれても、独りになれても、名前という概念の束縛からは、逃れられていないのではないか?
――名前って、なんだろう?
意味によって、存在を区別する。それが名前。
便利な記号。だけど、それに囚われている今の自分。
簡単に、生き易くするための願いのはずなのに、別のところで、名前という解創は、人を苦しめる。
解創は願いを叶えても、別のところで起こる、副次的な現象への配慮まではされていない。
今の私の自己同一性を支配する『蓮灘の記録』。この苦痛から逃れるためには、蓮灘という名前を消し去るしかない。
けれど名前を消すということは、意味を消すという事だ。それは私の自己同一性を脅かす。
「……あーあ、もう……」
今更に、進退両難に陥っている事に気付いて、溜め息をついた。
手詰まりから脱却するには、別の視点から見る事が大切そうだ。
そう思って薫は、考えるのも、授業を聞くのも諦めた。
「結婚しちゃえば?」
そんな、ぶっ飛んだ事を言ったのは、鳩間朱莉だった。
「いや……それ、何の解決にもなってないでしょ?」
『蓮灘の記録』ではなくなるには、どうなればいいか? ――そんな事を尋ねてみたが、回答は期待していなかった。けれど朱莉は、あっさりと答えてみせた。
「でも、蓮灘さんは別の名前になるんでしょ? たとえば、『古谷さん』とか『池田さん』とか」
そりゃそうだけど、と薫はたじろいだ。あまりに突拍子も無い意見を聞かされ、出鼻を挫かれてしまった。
「国に尽くした追求者の技術を、記録として残すことが、蓮灘家の目的なんでしょ? それで、来るべき時に兵士として使えるようにって。なら結婚して、他の家に嫁入りしちゃえば? そしたら、少なくとも蓮灘のって頭の文字は取れると思うよ? 記号が無くなれば、国も探せなくなるだろうし」
「根本的な解決には、なってないでしょ? あくまで……私が『蓮灘の記録』であることに、変わりはないんだし」
「貴女、なに自分探しなんてしてるの? 青春?」
横合いから、裁定委員会の情報員が割って入った。
「アンタは黙ってろ」
「はいはい」
美羽が黙るが、なんというか、子供の言う事を、仕方なく聞いてやる親みたいな態度で、正直薫は、むっとした。
「けどさ、蓮灘さんは蓮灘さんなんだから、先祖がどうのとか、そういうことは、あんまり気にし過ぎない方がいいんじゃない? ……私なんかが、言えた台詞じゃないけどさ」
「そんなもんかね……」
なんで自分の姓が、こんなに嫌いなのか――まだ薫は、その答えに辿り着けない。




