#10 薫
次の週の土曜日も、再び薫は瞬のいる病院を訪れていた。
時間は前と同じくらい。昼過ぎくらいである。
「――あれ?」
エントランスに、瞬の姿が見当たらない。だが病室は覚えているので問題ない。薫は、非常階段を上って、瞬がいるはずの病室に向かう。
階段を上り終わり、まっすぐな廊下を歩く。廊下の両脇が病室につながる扉となっており、外に繋がる窓が無いので、昼であろうと、廊下の空気は陰鬱としている。
病室の前に、人影を認めた。体格からして、成人の女性だと分かる。互いの顔がはっきりと見える距離まで近づくと、女性はぺこりと会釈をした。薫も同じように返した。瞬の親戚であることは、明白だった。
人の良さそうな女性だった。糸目で、ほっそりとしていた。目元には小皺が目立ち、頭髪には白髪が混じっている。親戚の叔母さんか、若いお祖母さんだろう。
「あの……先週からいらっしゃってる方ですよね?」
「ええ。そうですが……」
「私、瞬の母親です。瞬がお世話になっています」
薫は、ぎょっとした。女性の見た目では、五十代くらいかと思っていたからだ。瞬が小学生くらいだ。ということは、三十代後半から、四十代前半くらいだろうが……。
「あ、はい。こちらこそ……」
動揺から、ついそんな反応をしてしまう。
「先々週の土曜に、瞬が病院を抜け出した時にも、わざわざ連れて来て下さったんですよね。その時は本当にありがとうございました。その、お礼というか……」
女性は、下げていた袋から、包装紙に包まれた四角い箱を取り出した。上品なデザインのそれを見るなり、菓子折りだと分かり、薫は慌てる。
「あ、いいですよ、そんな……」
けど正直、お菓子が美味しそうなので、ちょっと欲しくなってしまい、結局、受け取った。
「でも、なんで瞬くんは、病院抜け出したりしたんですか? 花火好きなんです?」
女性が、気まずそうに目線を逸らした。
あ、と薫は自分の迂闊さを責めた。入院している病弱そうな少年なのだから、何かの持病くらい連想してもいいものだろうに。
「すみません」
薫が謝ると、女性が、首を横に振った。
「いえ、いいんです。あの子、昔から身体が弱かったんです。それで、あの日、先生と私の話を聞いてたみたいで……」
聞いてただけで抜け出したとなると、その内容が少年にとっては、よほど衝撃的な言葉だったのかもしれない。
――死んだあとも、こんな感じだったら、いいのに。
ふと、あの日の少年の言葉が脳裏を過ぎる。なにか嫌な予感がした。
「なんか、すみません。暗い話になっちゃったわ。でも良ければ、また今日みたいに、遊びに来てくださらない?」
女性が笑顔を浮かべた。翳りはあったが、暗い表情のままよりはマシだった。
「はい、勿論」
「じゃあ私はこれで……」
女性が立ち去るのを見送ってから、薫は病室の扉を開けた。
「あ、薫さん」
机に向かっていた瞬が、扉の音に反応して、顔を上げた。他のベッドを見るが、全て空いていた。ティッシュペーパーの箱や、畳まれていない掛け布団――生活感は残っているから、今だけ、どこか別のところに行っているのだろう・
「何してるの? また折り鶴?」
「うん」
迷いの無い返答と、ベッドの簡易テーブルに並んだ折り鶴を見て、薫は流石に苦笑した。
「飽きないもんだね」
「うん。折り紙が、こんなに面白いって、知らなかった」
たぶん、出来はどうであれ、折るだけで楽しいのだろう。確かに、折り紙を折る時に指先に伝わる独特の感触は、言いようの無い心地良さがある。
薫はパイプ椅子に座ると、サイドテーブルを移動させる。瞬から折り紙を貰って、折り鶴を折り始める。――こうして時間を共有している。互いに、それだけで幸せだった。
薫は、一羽目の折り鶴を完成させると、小さく息を吐いた。――その時、少年の首筋に目が留まる。白い肌に浮かんだ血管は、か細く青く、弱弱しい。――思わず、眉を顰めてしまった。
さっき、母親から話を聞いたからか、瞬が、あまりにも病弱に見えてしまう。ノセボ効果? 思い込み? 現実とは直結していないという、否定材料を見つけるために、考えを巡らせる。けれど、答えは出なかった。
「楽しくない?」
唐突な瞬の発言に、思わずびっくりして、顔を上げた。浮かべた笑みが、微かに固まっているのを自覚する。
「え? どうして?」
「だって、暗いじゃん」
そんな抽象的な言葉なのに、目には確かな自信が宿っている。彼の観察眼は、大人のそれを上回っていると気付かされた。子供は感受性が高いから、微かな挙動の不審も見逃さないのかもしれない。
「そうかな」
「そうだよ、さっきから間違えてるし」
う、と思わず薫は唸る。指先だけは動かしていても、違うことを考えていたから、折るところを間違えることがあり、彼にはそれが目立って見えたのだろう。
「……もしかして、お母さんから、何か言われた?」
「鋭いな……」
薫は、ばつの悪い表情を浮かべた。それと同時に、やはりあの人は母親だったのかと、知っているけれど、意外に思った。
「じゃあさ、気分晴らすために、ちょっとだけ話してもいい?」
なんか凄く偉そうな事を言っている気がしたが、少年は嫌な顔一つせず、「うん」と快く承諾してくれた。
「なんで入院してるの?」
あまりにもストレートな訊き方だなと、自分でも思った。けれど薫は、それ以外の方法が分からなかった。
「病気なんだ。……学校にも、あんまり行ってない。なんか、病気になりやすいんだって」
具体的なことは、知らないようだった。どうせ聞いても薫は分からないし、知ったところで、医師ですらどうにもならないものを、薫がどうにかする手立ては無い。
「ずっと病院にいるから、いっつもつまんなかったけど、薫さんと会ってから、ちょっと楽しくなった。折り鶴も、教えてもらってから、毎日頑張ってるんだよ……実はね、昨日も消灯時間過ぎてから、ちょっと折ってたんだ」
それは少年にとっては、ちょっとした悪戯自慢でしかなかった。だが薫は、少しだけ感情的になった。――怒りではなく、厚意から。
「消灯時間になったら、ちゃんと休め。折り鶴も良いけど、ちゃんと食べて、ちゃんと寝ないと、病気は良くならないよ」
それは、自然と口から零れた言葉だったが――そうだ、と薫は気づいた。
――そうだ、人の身体は、私と違って、こんなにも、弱い。
色の白い、不健康そうな――病弱そうな少年の肌を、薫は、悲哀の目で見つめた。
「分かってるよ。ちゃんと食べてるし、いつもは、ちゃんと十時には寝てるよ」
頬を膨らませて釈明した。その仕草は、どこまでも可愛らしい、純粋なものだった。
「分かった。それならいいよ。……それで、千羽鶴って言うんだから、千羽折るんでしょ? あと何羽なの?」
そういうことならいい。薫は気を取り直して、目標までの数を尋ねる。
「えっとね……まだ五十くらい」
まだ五パーセントじゃないか。薫は「こんな調子で大丈夫かな」と、少々疑問に思った。
「全然じゃないか。先は長いぞ」
それから二人は、十八時までの四時間もの間、話しながら、たまに休みを入れながら、ずっと折り鶴を折り続けた。




