#10 朱莉
女は、瀬戸川布由希と名乗った。
「目的は『蓮灘の記録』ですか?」
「ええ。まぁね。身体そのものに手を加えてるから、私が叶えたい願いとの繋がりも深いしね」
三人は、閑静な住宅地に入りこむ。視界には、山のような丘が見える。その頂上付近に、布由希の目的地である県営ヒルズマンションがある。
「ならば、なぜ彼女の住居ではなく、あの場所を?」
「ああ、角川? 彼とは一応面識があるからね、挨拶くらいしとこうと思っただけよ」
美羽と布由希の会話を聞きながらも、朱莉は蚊帳の外だった。内容についていけない。生徒が教員同士の世間話を聞いているような気分だった。
「意外ですね。あの男に横の繋がりがあるなんて。委員会との接点がないから、てっきり天涯孤独と思っていたんですけど」
「委員会と追求者は、上下の関係ではないでしょう? そういうのって自分たちを過大評価してない?」
二人のあとを追っていると、ふと、視界の角――電柱の上に、ずんぐりとした影が見えた。カラスよりも大きい。だが逆光で、姿の詳細はよく見えない。
「……なんでもいいですが、どうして私たちに喧嘩を売るような真似をするんですか? わざわざ争いごとをするようなタイプじゃないでしょう、貴女」
「馬鹿ね。直接戦って、貴重な『蓮灘の記録』を傷つけるような事があったら駄目じゃない。研究対象に攻撃するなんて愚行は犯せない。けれど邪魔立てする人間がいるなら、容赦しないし……」
ふと、布由希は後ろ目で朱莉を見る。
「……彼女なら、交渉の材料になりそうだし」
美羽の顔色が変わった。布由希の意図を理解したのだろう。
「一般人まで巻き込んだら、委員会も黙ってないと思いますよ?」
「大丈夫よ。事情はよく分からないけれど、既に解創については知ってるんでしょ? なら問題ないわ。あなたを討っても、そこの娘を人質にとって、蓮灘薫からの了承を獲得すれば、私はそれ以上、余計な実力を行使をするつもりはないわ。裁定委員会も、私がそれ以上何もしないと分かれば、手を出すのは無意味と判断するでしょう。私の研究の素材になれば、蓮灘薫への監視の必要も無くなるしね。下っ端一人失ったって、裁定委員会は痛くも痒くもないんだから」
布由希が立ち止まっった。
そこは、住宅地の中にあるには、およそ不釣合いな空間だった。既に潰れたと思われる自動車の整備場。奥と左右はトタンの壁で囲まれているが、天井のトタンは穴だらけで、青空を十分に見渡せる。中に工具や機械、車の部品の類は一切無く、これ以上とない殺風景だった。金属の重厚な音は久しく廃れ、機械の駆動音は消え去っていた。
トタンの建物の周りには、黄色と黒のビニール製の紐が張られている。運動会のとき、グラウンドに張るように、鉄製で、後ろがリング状になった杭が等間隔で建物の周りの土に刺さっていて、紐はそこに通してある。
紐には『売り地』と赤いゴシック体が印刷された紙が貼られており、右下に不動産屋や電話番号などの情報が記載されていた。おそらく、不動産屋がこんなことをしたのだろう。
布由希が紐を無視して敷地の中に踏み入る。罠かもしれないと朱莉は疑ったが、美羽は少しだけ敷地内を見ただけで、中に入ってしまった。裁定委員会の人間としては、これらからのことを人目に付かせたくはないのだろう。
朱莉も紐を越えようとすると、美羽は振り返って制止した。
「朱莉。あなたは逃げて。巻き添えになる」
美羽の言うことは、もっともだ。自衛の手段すら無い朱莉が、ここに留まっていても足手まといになるだけだ。
――だけど……。
朱莉は追求者を注視する。女の挙動は、普通の人のそれと、なんら違わない。
けれど思想も目的も、それらは全て違っている。言うなれば人に擬態し、社会に溶け込む異分子だ。
朱莉は追い求めている。追求者の生き方を、思想を、理解したいと思っている。それが友人を理解する事に繋がると信じている。
今の状況――追求者と裁定委員会の衝突は、朱莉にとって初めてで、そして貴重な経験となるだろう。ならば、おずおずと退散するなんて、とてもじゃないけど出来やしない。
「木村さん。我侭を聞いてほしいの……私に、二人の戦いを、見届けさせて欲しい」
「なに言ってるの! 冗談言ってる場合じゃないの!」
美羽が怒鳴った。怒りの形相は、普段からは想像も出来ない猛々しいものだった。
朱莉はたじろいだ。これから起こる未知の出来事に恐怖だって抱いていた。けれど、諦めるつもりなんて、毛頭無かった。
――洋子は……この世界で、生きていたんだ。
美羽の後ろに佇む、瀬戸川布由希という追求者を一瞥する。あの女性が、これからやろうとする世界を、洋子は見つめていた。そんな洋子が追求者の思想に染まらず、一体なんで、人のために解創を使おうと望んだのか……?
洋子が見てきた世界を知りたい。彼女が願いを抱いた過程を知りたい。同じ立場に立って、洋子の行いが正しいのか、それとも間違っているのか、言えるようになりたい。
間違っているのなら、朱莉は彼女を正したい。
正しいのなら、私は洋子を認めたい。
少なくとも――追求者を、解創を、願いを追求する人たちの世界を知らない今の朱莉では、その判断は出来やしない――!
「木村さん。お願いします」
できることは、頭を下げる事だけだった。断られるかもしれない。そう思った。引っ叩かれるかもしれない、と想像した。それでも朱莉は見たかった。知りたかった。
「ちょっと……やめてよ、もう」
はぁ、と、まるで子供のわがままを仕方なく聞く母親のように、美羽は頭を抱えていた。
「分かった。けどその代わり、自分の身を守るのは自分でやって。私、なんの保障も出来ないわよ」
「ありがとう、木村さん」
なぜか恥ずかしそうな表情を浮かべている美羽を尻目に、朱莉は追求者の表情が変わっている事に気づいた。無機的な笑みではなく、興味深そうな顔をして、右手で口元を隠し、左腕を組んでいる。
「あなた……追求者に、興味があるの?」
距離を隔てて、布由希が尋ねてきた。朱莉は答える。
「はい、そうですけど……」
「そうなの……へぇ」
微笑んで、布由希が袖口から何かを取り出す。それが彼女の得物なのだと理解した。
美羽が鞄に手を入れて――得物を抜き出し、鞄を放り投げる。
それが、開戦の合図となった。




