#8 朱莉
木村美羽との奇妙な友人関係は、その後一週間ほど持続した。
昼休みになると薫が教室から出て行く。美羽はそれについていき、朱莉も加わり三人で食事をとる。話題は昨日のテレビドラマの話だったり、授業や先生への文句だったりと俗物的で、追求者の話題が上る事はあまりなかった。
放課後も、教室で雑談をしたり、同じように帰路に着いたりした。薫はいつも途中で分かれてしまうのだが、美羽が薫の方について行くことはなかった。仕事の方は大丈夫なのかと、少し心配になることもあったが、所詮他人事なので、特には触れなかった。
「ちょっと思ったんどさ、あの先生、喋るの早くないかしら? それに滑舌悪いし」
この日もその範疇で、帰りのホームルームの後、教室に残って雑談をしていた。美羽は数学の担当教師に文句を付けていた。丁寧な口調だから、物腰が柔らかく、穏やかで平和主義なのかと思っていたら、実際には、思った事はすぐに言葉に出してしまうタイプのようだった。
「滑舌悪いのは見逃してあげなよ……」
歳が歳だし。心の中で付け加える。
「あの人、そんなに聞き取りにくいっけ?」
薫が欠伸をしながら言った。
「真面目に聞いてない人はそう思うだけよ、蓮灘さん。考えもせずに右から左なんだから、馬の耳に念仏よね」
「本当に失礼な女ね。考えはしてるわよ。途中で諦めるだけで」
心外だ、と薫は呆れた声で言う。そんなに堂々と言えるのが、朱莉にしてみたら羨ましい。
「逆に英語の三藤先生は聞きとりやすくない?」
二人がいがみ合う前に、朱莉は話題を転換する。
「そうね。こっちの反応も見て進めてくれるから、ついていけなくなることもないし」
「え、発音が無駄にネイティブで聞きとりにくいと思うけど」
満場一致かと思いきや、最後で薫が否定した。朱莉の中で、苛立ちが募った。
「も~、なんで蓮灘さんは、他の人と感想が逆なの!?」
「いや、仕方ないじゃん、そんなの……」
無茶苦茶を言っている自覚があったが、言わずにはいられなかった。当然、薫は困り果てた顔をしている。
「感覚がズレてるのは、本人のせいじゃないわよ、朱莉。価値観の違いは主観の違いだから。否定しても仕方のないことだわ」
「否定するつもりはないけど、理解できないものは理解できないの!」
薫の感覚というのは、話せば話すほど分からなくなる。単純に感性がズレているのとは違う。違い方にも種類があり、大抵、薫との感覚のギャップは、朱莉の想定していないレベルなので、ついていけないことがしばしばあるのだ。
「さて、あんまり遅くまで残ってると先生来そうだし、そろそろ帰りましょうか」
部活動に所属していない生徒は、すみやかに帰宅するように――それが学校の方針だった。教師は教室に生徒が残っていないか見回りに来る。生徒は生徒で、教師が見回りに来る時間を把握しているので、それまでには帰るようにしている。
朱莉は、教室の黒板の上に掛けられた時計を見る。既に午後五時近かった。冬とは違い日照時間が長いから、ついつい遅くまで残ってしまいがちだ。
「そうだね」
朱莉と薫も、鞄を持って席を立つ。教室を抜けて下駄箱へ向かう。廊下にスリッパの足音が反響して物悲しい。会話とは唐突に途切れてしまうもので、こういう時、気まずい気持ちになりはするけど、どう対応して良いのかは、咄嗟に思いつかない。
「あ、蓮灘さん」
三人が同時に振り返る。声を掛けてきたのは、同じクラスの男子生徒だった。
「なに?」
「三藤先生が探してたよ。昨日の課題のプリントが出てないとか何とか……」
ちっ――薫が舌打ちをした。男子生徒は思わず身をビクつかせる。
「ごめん。先に帰ってて」
「うん。分かった」
教室に戻っていく薫に、朱莉は応じた。美羽は訝っていた。
「? どうしたの?」
「いや、待ったりとかしないのね」
それは、朱莉にとって不意打ちだった。薫は居残りをさせられるかもしれない。けれど待つくらいはどうってことない。朱莉は今日、急ぎの用事があるわけでもないし、まして家に門限があるわけでもない。
教師に『早く帰れ』と促されるかもしれないが、雑談に誘導して、うやむやにすることだって、できなくはない。実際、そういうクラスメイトや友人を、朱莉は見たことがある。もしも、これが薫ではなく彼女――野崎洋子であれば、その選択肢をとっていても、なんら不自然ではなかった。
無意識に帰宅を優先していた。当たり前の事だが、『待とうか?』という一言の確認すら、自分はとらなかった――朱莉にとって、僅かながらも衝撃だった。
「え……あ、うん。そうだね……」
「どうかしたの?」
朱莉の表情を見てとったのか、美羽が心配そうに尋ねる。
「いや……そうじゃないの……」
待つかどうかの確認すらもしなかった。断られるのは十中八九だと……薫が、そういうことを望むタイプではないと、無意識に理解していたからなのかもしれない。




