#7 朱莉
県営ヒルズマンション805号室。そこは、朱莉にとって馴染み深い空間になりつつあった。
この部屋は、追求者、角川祐輔の根城であり、そして蓮灘薫が度々訪れる場所でもある。朱莉は『追求者の事を知る』という大義名分の下、休みの日などには、特に何をするわけでもなく、この部屋に来ては、角川祐輔と他愛の無い話をした。
朱莉は、その話を無駄とは思っていなかった。追求者を知るには、まず価値観とか、そういうものを知る必要があり、そのためには、彼らと話をするのが一番手っ取り早い。
この日、朱莉が祐輔と話した主な話題は、裁定委員会より派遣された情報員、木村美羽についてだった。
「裁定委員会……今更動いたか。ま、転校に不自然なタイミングではないから妥当か」
朱莉の向かいに座る祐輔は、自分で入れたコーヒーを啜る。その隣で薫は、ソファに座ってつまらなさそうにテレビを見ている。再放送の刑事ドラマだった。眼鏡を掛けたの五十代の理知的な男性警部と、対照的な体育会系の三十代の男性刑事が、走行中の覆面パトカーの中で話をしている。ハンドルを握っているのは若い方の刑事である。
「情報員だって言ってましたけど、つまり戦ったりとかは出来ないんですか?」
「なんでもそうだが、人による。というか朱莉くん、本来追求者や裁定委員会は、ドンパチを好む人種じゃないんだ。勘違いしないでくれ」
追求者はそうだろうが、裁定委員会も、というのは、少し意外だった。追求者の世界の中の警察のような存在なら、戦うのは日常茶飯事だろう……と思っていたからだ。
「じゃあ、裁定委員会の人たちは、普段は何をしていらっしゃるんですか?」
「話をつける……つまり交渉や恐喝さ。自分たちに都合の悪い人間が出たら、牽制するんだ。あくまで実働部は抑止力のつもりさ。だから実際に戦闘になったら対応が遅れる。鈴切桐高の時が、その典型だ」
「そうそう、アイツら、平和ボケしすぎなのよ」
祐輔の隣に座っていた薫が、視線はテレビに向けたまま同調した。
「どうしたんだい? いつになく不機嫌だね、薫くん」
「口ばっかだからよ。アイツら、私の露払いしてくれるっつったのに、その日のうちに追求者と出会ったからね」
信じられない、と薫は呟く。テレビで男性警部が、タイミングよく『信じられませんねぇ』と言った。
信じられない、という顔を、祐輔はしていた。無論、朱莉も同じである。
「……薫くん、そういう話は、電話でもいいから、すぐにするべきだ」
「え、そう?」
祐輔の真面目な反応を、薫は意外に思ったようだ。朱莉も初耳なので驚いた。
「四十代くらいの女だったよ。感覚の共有がどうとか言ってた」
「感覚の共有……なるほど。『蓮灘の記録』目当てだろうが、少し毛色が違うな。薫くんはあくまで手段、というワケか」
少しの会話で、話が進みすぎだ――朱莉は、思わず早口で遮る。
「ちょ、ちょっと待ってください。その追求者の人の目的……ええっと、感覚の共有って? 何の話ですか?」
慌てた様子の朱莉を見ながら、祐輔は、ゆっくりとコーヒーカップに口を付ける。
「落ち着きなよ、朱莉くん。順を追って話をするから。
追求者の目的が、自由の追求というのは知ってるよね。その自由の追求とは、つまり願いの成就なワケだが、その手段とは、どういうものがあるだろう?」
朱莉は、今までに覚えてた知識を脳から搾り出す。
「ええっと、解脱とは逆に、あえて業を深めることで解決する力、解創にする……道具の形に昇華する、ですよね?」
「そうだ。その解創の作成を目的とするのが追求者だが、やはり元ネタ、とでも言うべきもの、つまりテーマが必要なんだ。しかし自由のテーマというのは出尽くしているものでね、新たな挑戦は失われつつある。こればかりは、未来に生まれた事を恨むしかない」
「それと感覚の共有が、どう関係あるんですか?」
まったく関係無いじゃないですか、と朱莉は付け足す。
「いや、そうでもない。……例えば、ピラミッドをシルエットで見るとしよう。真上から見た時は、どういう形をしているかな?」
想像する……真っ黒な四角錐。それを上から……。
「……正方形ですね」
「じゃあ横……正面からなら、どうかな?」
そんなのは考えるまでもない。朱莉は即答する。
「三角形ですね」
「そうだ。このように視点が違うと、同じ対象を見ていても、見える形は違ってくる。全ての事象に同じ事が言えるだろう。しかし一人の人間は、それほど多くの視点しか持っていない。だがそれでは、物事の真偽、本質は見通せない。真上からだけ見ていると、シルエットのピラミッドが、四角錐か、それとも立方体かは判断できない。それは不自由だ。では視点を増やすにはどうするか? 違う視点から物事を見るにはどうするか? その答えが、他人の視点から物事を見る、感覚を共有する、ということさ。
逆転クオリアという思考実験がある。『熟した林檎の色』と言われたら、朱莉くんはどんな色を想像する?」
林檎。あれがバラの仲間だと知ったときには驚いた……という関係のない思考を振り払い、朱莉は思いついたままを答える。
「そりゃ、赤色じゃないですか?」
「そう。その赤色というのが厄介なんだよ」
祐輔の口調が早くなる。自分が気に乗る話が出来て高揚しているのだろうか。
「君が主観的に感じ取っている『赤色』は、他の人が感じ取っている赤色と、果たして同じなんだろうか? 朱莉くんが感じている赤色は、僕にとっては青かもしれない。薫くんからしてみれば緑かもしれない。ようは、感じ方の違いだよ」
祐輔の話を聞いて、朱莉は、小学校の頃の記憶を思い出した。
体育の授業中のことだった。友達は空を見て水色だと言ったが、朱莉は青色だと言い張った。皆に否定されても、必死で朱莉は青いと伝えたが、友達には相手にしてもらえず、悔しかった記憶がある。今になってみれば、他愛も無い話だった。
あれが感じ方の違いなのか――そう思っている矢先、別の人物の声が割って入ってきた。
「眼球とか神経の仕組みって、個体でそんなに違わないでしょ」
珍しく理性的な発言をする薫に、祐輔もまた、理路整然とした説明をする。
「たしかにね。けど個人によって見えやすい色、見にくい色というのもある。四原色視覚者、というのがあってね、一般的な人間にとっては、赤、青、緑の三色しかない加法混色の世界を、四原色視覚者は四つの色で見ているんだ。端的に言えば、僕らより見えている色の数が多く、より鮮明に区別できるらしい。けど、四原色視覚者の感じ取っている『四原色』を、三原色でしか物を見れない僕らが感じ取る事は不可能だ。四原色を三原色に置き換えれば劣化してしまう。『感じ』とはそういうものだ。変換することのできない、絶対的な質感だ」
……確かに、言われても想像できるワケがない。明るい感じ、暗い感じ、そういう風に説明できるかもしれないが、その『明るい感じ』というのも、互いに違う感覚かもしれない。そうなれば、話せば話すほど混乱するばかりだ。
「色の識別の違いは他にもある。僕らは可視光という……僕らにとって目に見える色だけを視覚する。しかしモンシロチョウには紫外線が見える。モンシロチョウのオスとメス、どちらも白くて人間には区別がつかないが、彼らの視覚だと、それが区別できる。メスは紫外線を反射して、オスは紫外線を吸収する色をしているそうだ。僕らの感覚に置き換えれば、メスは白、オスは黒っぽく見える、という事になるだろうね。同じ対象を観察していても、人によって抱く感じが、まったく同じか、それとも違っているのかは分からない。知識としては理解していても、そのクオリアまでは共有できないからだ。僕の個人的な意見は、人同士の視覚の違いは、液晶テレビの画面の色合いが、会社や製品ごとに違ってる、くらいの差異はあると思うよ」
「それって、そんなに違います?」
「うん。やはり4Kのテレビは色が鮮明だね。買いたいなぁ」
唐突に俗物的な発言をするが、朱莉は無視する。
「つまり、同じ対象を観察したときに生じる『感じ』を、多く収集することによって、新たな発見をしよう……それが、薫くんに接触してきた追求者の目的だろう。『蓮灘の記録』は、追求者によって製作された身体だ。普通の人間と抱く感覚が違うと考えるのは、まぁ不自然じゃない」
朱莉は、少し納得がいかなかった。シルエットのピラミッドを見る時という比喩と、人が物を見た時に抱くクオリアという現実では、決定的に違う部分がある。そう思い、祐輔に疑問を投げ掛ける。
「クオリアっていうのは、『それをどう見てるか』っていう、あくまで主観的な『感じ』なんですよね? なら客観的な事実との繋がりは無くないですか? 個人の主観で物事を見ると、一部が誇張されたりもするでしょう? それを新たな発見っていうのは、少し違う話じゃないですか?」
確かに視点の違いによって、見ている物事の側面は違う。しかし個人のフィルターを通してしまうと、余剰物がついてしまう。扇情的なマスコミの報道のように、一部が誇張された情報は、事実とは遠く異なっているように――朱莉の伝えたい意図は理解したらしく、祐輔は一度、ゆっくりと頷いて、しばし熟考してから回答した。
「確かに、クオリアと現実はイコールじゃないね。だけど現実をそのまま見る事は難しすぎる。さっきのピラミッドの喩えに『一つの視点から』という条件がつくなら、ピラミッドを全方向から包み込むような眼球でもなければ、ピラミッドの正確な形状は判断できない。それに形状以外の色や温度、硬度だってピラミッドの『事実』であることに変わりはない。それら全てを網羅する視点なんて、存在しないよ。だから多くの視点、主観からの視点が必要なんだ」
シルエットという条件を前提としておきながら、温度だの色だのという要素を増やして逃げる祐輔を卑怯だと感じるも、喩え話に愚痴を言っても不毛だし、それに硬さや温度などを知るのに、目という受容器官――一つの視点――だけでは無理な話だな、と納得した。
薫が、わざとらしく咳払いをした。
「話逸れてない?」
「ああ。そうだったね。とにかく物事を観察する事で抱く『感じ』を多く体験する事で、その追求者は新しい発見をしたいんだよ。そして視点の候補の一つとして薫くんに目を付けた。そういう話だ」
さっきまでの話を、祐輔は半ばドブに捨てるかのように、簡潔に纏めて締め括る。
「それで、蓮灘さんはどうするの? 協力するの?」
「別にどうもしないよ、面倒だし気味悪いし。ま、あっちも諦めてくれたし、それでいいよ」
薫がテレビに目を向けたまま答えた。
「妙だな」
祐輔は釈然としないらしい。首を傾げている。
「なにが?」
「いや『蓮灘の記録』を目当てに、やってきたっていうのに、そんな簡単に諦めるものかと、少し疑問に思ってね……」
「アンタが『蓮灘の記録』』を過大評価しすぎなのよ」
「それは重複表現だよ、薫くん。『過大評価してる』が正しい」
「うるさいわね……」
祐輔の過大評価はともかくとして……もしそうだとしたら、その追求者の人はどんな風にして薫を懐柔してくるのだろう……と、朱莉は少しだけ疑問に思った。




