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源氏“裏側”物語 もしくはいずれの帝の御時にか光源氏の兄になってしまった不運な公僕の顛末記  作者: 松本紗和子
第一章:桐壺 もしくは主人公の水面下でバタバタする白鳥の足の如き裏側の活躍
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第26話 しわぶき病み

◇一宮/隆明親王:六歳  二宮/貞明王さだあきらおう(後の光源氏):三歳  十月中旬

内裏 弘徽殿


 しわぶき病み。

 漢字では咳逆と書く。文字通り、咳を発する病気の意味だ。

 源氏物語にも登場し、夕顔の巻で源氏が宮中からの使いとしてやってきた頭中将に、「しわぶき病みなのか頭も痛くて苦しい」という場面がある。

 で、そのしわぶき病みが流行りつつある。


「忠克、詳しく教えて」

「は、何でも、七条のあたりにある民の間で流行り始めたとか。その後、馬寮の地下の者の下人がかかり、邸を追い出されたそうにございます」

「もう役人の家の者までかかっているのか……」


 忠克の答えに、自分の声が堅くなったのがわかった。肌がピリピリし、頭の中の警報が激しく鳴っているのがわかる。

 それもそうだ。このしわぶき病みだが、どんな病なのかっていうと、どうも現代で言うインフルエンザだったんじゃないかと言われている。

 そう、インフルエンザ。現代日本じゃ冬の風物詩になっているあのインフルエンザだ。日本史の中は、貞観4年(862年)に近畿地方でインフルエンザらしき病気が流行したと記録にあり、江戸時代には何度も流行の記録がある。

 現代日本じゃワクチンが普及し、特効薬も存在するため、致死率は極低となっている。しかし、それ以前―たとえば、1918年~1919年(大正7年~8年)にパンデミックを引き起こした「スペイン風邪」などは、当時の世界人口(19億人前後)の27%が感染し、死者は1億人を超えていたといわれている。

 医学がある程度発達した大正時代であっても、これだけの死者が発生した恐ろしい病であったのだ。

 そのインフルエンザが、民の間で流行りつつある。

 下手したら、源氏打倒どころか自分の命すら赤信号がともりかねない。

 僕はよくわかっていなさそうな千寿に耳打ちした。すると、概ねどんな事態になっているか、またどんなことが起こりうるか認識したらしい。目を開いたかと思うと、すぐにきゅっと唇を結んで忠克を見た。


「やばいんじゃないか、宮様」

「やばいな。官吏の家の者がかかってるってことは……その下人と官吏の関係性次第だけど、もう移っている可能性がある」

「ああ。忠克、そのあたり詳しくわからない?」


 地下の者―六位以下の身分の高くない官吏のことだ。だがそんなことは関係ない。もし、その官吏が感染していたら、面倒なことになる。

 そう思って訪ねたのだが、そこまでは忠克にもわからないらしい。すまなそうに首を振る。


「申し訳ございませぬ。それ以上は某にも……」

「いや、忠克は悪くないよ」

 

 公衆衛生もへったくれもない平安時代。賭けてもいい。すぐに大流行になるだろう。

 僕が春宮になれるかどうか微妙な今、お爺に倒れられるのはまずい。母上も周子ちゃんも心配だ。

 ていうか、この流行はどう解釈すればいいんだ?源氏物語の物語の隙間に起こった出来事なのか。それとも、完全なイレギュラーなのか。

 物語の隙間なら、僕は死なないしお爺も母上も周子ちゃんも死なない。だったら物語の登場人物連中の心配はいらないか?いや、疱瘡にかかった一宮君のパターンもあるからな。

 歯に固い感触が当たる。どうやら、無意識のうちに親指の爪を噛んでいたらしい。

 とにかく、僕らが無事でも、普通の民は加持も祈祷も薬もないんだ。きっと、大勢の被害者が出る。僕らの時代とは全く違う。

 そして、亡くなった人のご遺体は弔いもせずにそのまま打ち捨てられるだろう。倫理的もそうだけど、衛生的にもよくない。遺体が原因となって別の疫病が流行りかねない。死体が死体を生むループなんて最悪だ。

 とにかく、対応をどうにかするためにも、詳しく調べないとだめだ。


「夜叉丸!」


 僕は夜叉丸を呼んだ。

 すると、すぐそばで控えていたらしい。衣擦れの音がして、夜叉丸が欄干から顔を出す。

 

「お呼びで?」

「ごめん、今から京の町を見に行ってほしい」


 僕がそう命じると、話を聞いていたらしい夜叉丸が察してこくりと頷いた。


「しわぶき病みの流行り具合を見てくればよろしいのですね?」

「うん。どのくらい流行っているか、ざっとでいいから調べてほしい。聞き込みなんかはしなくていいから」


 流行の中に行かせるのは気が進まないけど、様子を見るだけなら大丈夫だろう。後で手洗いうがいをしっかりすれば、感染の危険性もぐんと減るはずだ。


「咳をしている人には近づかないで。左京だけでいいから全体を回って、どのあたりまで流行が進んでいるか見てきてくれ。何なら貴族たちの屋敷に忍び込んでもいいから」


 元々盗賊まがいのことをしていただけあって、夜叉丸―カルヤシャは身が軽い。成長した今も、宿衛に見つからず屋敷に忍び込むなんてお手の物だ。

 

「かしこまりました。今日はこのまま弘徽殿に?」

「うん、しばらくいる予定だから……忠克」

「は」


 少し声を潜めて忠克を呼ぶと、彼も僕たちについとにじり寄った。


「弘徽殿のあたりを、忠克の部下で固めておける?そのほうが夜遅くなっても夜叉丸が来やすいでしょ」


 近衛府の役目には、宮門や宮中の警備も含まれる。当然、夜間などは弘徽殿のあたりにも近衛がいる。

 夜遅くなった場合、いちいちその近衛たちに止められてたんじゃ面倒だ。忠克の部下なら忠克が指示を出せるから、融通が利きやすい。

 忠克は頷いた。


「かしこまりました。夜叉丸、近衛に誰何されたら儂の名を出すのだぞ」

「はい。では行ってまいります」


 夜叉丸は軽く頭を下げると、そのまま出ていこうとする。


「あ、待て夜叉丸」

「はい?」


 すると、千寿が夜叉丸を呼び止めた。かと思うと、御簾に顔を突っ込み兵衛を呼ぶ。


「兵衛、この間の木綿の布を持ってきてくれる?」

「千寿君、はしたのうございますよ!」

「ごめん、中務!」


 行儀悪いことをしたので中にいた中務に怒られていたが、どうやら目的のものは兵衛が持ってきてくれたらしい。

 何の変哲もない、タオルぐらいの木綿の布だ。木綿の布?何に使うんだ?と思ったが、平安時代に慣れきってすっかり存在を忘れていたアレ、マスク代わりにするらしい。

 千寿は木綿布を夜叉丸に渡すと、


「夜叉丸、それを縦に半分に折って、鼻と口を覆うんだ。こうすると、病のもとが入ってきにくくなる」


 と指示をし、鼻と口を覆う動作をした。


「病の元、でございますか」


 夜叉丸が木綿布をひっくり返したりしながら首を傾げた。

 病は物の怪の仕業~なんて言われていた時代だ。物の怪除けの何かが書かれているかと思ったんだろうか?

 でもこの時代に飛沫感染とかウイルスとか言っても難しいよな。

 千寿は少し困った顔をしたが、


「とにかく、病が流行っている場所ではそれをつけるんだ。それから、人が触ったような場所はなるべく触らないようにしてくれ」

「はあ」


 我々にとってはごく一般的な感染症予防法だが、夜叉丸にとってはそりゃ?だろう。だが、上からの命令ということで納得してくれたらしい。木綿布で口と鼻を覆い、弘徽殿を出ていった。


「しかし、大変なことになったな、宮様」

「うん。忠克、一族や……あと近衛府なんかで、しわぶき病みについて何か言ってる人いた?」


 僕の問いに、忠克は軽く首を振って答えた。


「流行らねばよいが……と、ただそれだけでございますな」

「まあ、そんなもんか……」


 この時代にインフルエンザ予防なんて大してできるわけでもなし。ま、家の構造の関係で換気はいいからそれだけが救いか?

 とにかく、これからやるべきことは何か。私は弘徽殿の身舎の中に入り、中務に命じた。


「中務、兵衛、書き物の準備を!」

「はい!」


 この流行にあたって、僕たちは何をするべきなのか。

 流行を止めることは無理だ。だが、少しでも犠牲を減らすことはできる。平安時代という時代の限界の中で、何ができるのか。

 今はまだぽつぽつと感染者が出ている程度、21世紀で言ったら地域流行(エンデミック)の段階だろう。でも、すぐさま流行(エピデミック)に発展する。

 そうなったときに、僕たちはどう動くべきなのか。そして、僕たちが動く際には母上とお爺の協力が必要だ。

 二人に話す前に、やるべきことをまとめておかなければならない。

 僕は忠克を近くに呼び寄せ、千寿と一緒にやることリストを作り始めた。


「まずやることって何だろう、しわぶき病みの予防は、ワクチン……は無理だからまず鼻と口を覆う(マスク)、手洗いうがい、換気」

「あとは湿度だな。几帳湿らせておくのが一番楽だろうけど、あれ絹だしな。あ、和紙を使った加湿器ってやってみるか?あれなら寝てるときにでも枕元においておけるだろ」

「電源のいらない加湿器ってやつ?意匠(デザイン)を考えれば流行りそうだね」


 色とりどりの紙を花のように切ればうまくいくだろうし、女の人なんか喜ぶんじゃないかな。


「あとは、民のためになんかしたいな。ろくな治療何か受けられないだろうし」


 僕は「京の民のための治療所」と紙に書いた。

 何度も言うが、この時代治療と言ったら加持祈祷。その上国民皆保険もないのだ。一般庶民はろくな治療を受けられない。貴族に仕えている人だって、病気になったら治療されずにその辺に打ち捨てられていたのだ。

 その身寄りのないご遺体もどうにかしてあげたい。疫病には火葬がいいんだろうけど、燃料問題もあるしな……。


「どこか空き家ない?そこを臨時の診療所にするとかすれば?」


 千寿が提案する。源氏物語でも夕顔連れ込んだ使ってない院とかあったし、右大臣家(うち)にもないかな、そういう家。

 

「あー……右京あたりに使ってない屋敷あればいいね」

「某の家を使われますか?弟たちは二条烏丸殿(あちら)に詰めておりますし、住んでいるのは某と妻だけでございます故」

「……いや」


 それはいいかもしれない―と一瞬思ったが、忠克と奥さんを感染の危険にさらすわけにはいかない。それに五条の忠克の家だと、貴族たちも多く住んでるし、何かといわれそうだ。


「忠克と北の方(おくさん)がしわぶき病みにかかったら大変だし、やめておくよ。まずお爺に相談してみる」


 そういうと、忠克は少し驚いたようだったが、すぐにすっと頭を下げた。


「では、場所にかけては大臣(おとど)にご相談申し上げるとして、医師などはいかがなさいますか?」

「ん~……」


 忠克の質問に、千寿が腕を組んで悩む。


「医者って言ったら……」

「典薬寮」


 ちら、とこちらを見る千寿に応えてやると、微妙そうな顔をする。

 そうなのである。この時代、体系だった医療を習得している医者って言ったら、典薬寮の医師たちだ。

 彼らは官人―つまり帝に仕える公務員なのである。その公務員が、「庶民を助けてくれ」と言われ―


「協力してくれると思う?」

「お爺の権力ならどうにかなると思うけど、民を治すために連れて行くってなると横やりが入るし、お爺も嫌がるかも……大流行になったら貴族もかかるから、医師たちはそっちのほうで大忙しになるだろうし」

「そうだよな……」


 右大臣家の中でだけどうこうするなら、必殺兵器弘徽殿女御(ははうえ)のゴリ押しが使えるけど、他の省庁まで行くとなるとちょっと難しいかも。

 僕がそういうと、千寿も忠克も同意した。


「お爺をよく見てるあの人……ほら、引退したっていう。あの先生に協力してもらえれば御の字かな」

「ああ、あのおじいちゃん先生な」


 お爺によく薬湯とかを処方している、典薬寮を引退したっていうおじいちゃん先生がいるんだが、あの人に薬の処方とかしてもらえるように依頼できれば十分だろう。

 患者たちの世話人は、患者の家族を使えばいい。幸い、新しい農法を実施した僕や右大臣家の所領、忠克の故郷の常陸では、米がかなりの豊作だった。雑穀などもたっぷり保存しているので、それを給金代わりにすればいいだろう。

 僕が提案すると、


「実現困難な最良より、実現しやすい良案のほうがいいよ」

「左様でございますな」


 と、千寿も忠克も賛成してくれた。

 問題は薬だ。

 僕は考古学部、千寿は農学部、薬に関してはなーんにも知識がない。平安時代の医者のほうが、そういう意味ではよっぽど上だ。無論、忠克もそうだ。

 唯一出たヒントが、千寿の


「俺漢方出た覚えあるんだけど」


 という何気ないつぶやきである。

 えー、インフルで漢方なんて出るんだ。ワクチンのおかげでここ5、6年インフルなんてかかったことなかったからなー。

 が、心配はいらない。僕にはこのタブレット先生がある。インターネッツの海の中には、何かしら答えがあるはずだ。

 僕はタブレットを出すと、そっと検索した。それに気づいた千寿が、タブレットの画面をのぞき込む。


「えー、麻黄湯(まおうとう)、ち、ちくじょ、竹筎温胆湯(ちくじょうんたんとう)柴胡桂枝湯(さいこけいしとう)銀翹散(ぎんぎょうさん)だって」


 さすがはインターネッツ先生である。グラム数までは載っていなかったが、何が入っているかまではわかった。


「……それ、こっちの医師にも処方できるのか?」

「麻黄湯と柴胡桂枝湯は傷寒論(しょうかんろん)つって三国時代の唐の国(ちゅうごく)の資料に乗ってるやつだから、大丈夫だと思うけど……」


 千寿が心配そうに問いかけるが、これにかけては僕も部外者。はっきり言えるわけではないけど、最悪、僕が傷寒論読んで伝えればいいだろう。

 ただ、問題がいくつかある。


「ただ、材料がほぼ外国産なのと、京の民にいきわたるほどの量は多分ないっていうのが問題」


 あと多分馬鹿みたいに高い。


「使われるとしたら貴族からだろうしな」

「そう」


 つまり、まったっく使えない可能性があるってことだ。

 取り寄せてみるか?この時代の交易の拠点は大宰府だ。交易の船がちょうどよく着ていれば手に入るかもしれないし、大宰府に在庫があるかもしれない。

 僕が提案してみると、千寿はぱっと目を輝かせたが、忠克が渋い顔をした。


「必ずしもあるとは限りませぬし、京から大宰府の往復に一月はかかりますぞ」

「そっか……」


 往復一月か、微妙だな……しかも最短の場合だろ?でも、一月たっても流行している可能性のほうが高いし、すぐに腐るもんでもないから間に合わなくても大丈夫だと思う。備蓄にしとくって手もあるし。

 僕はそう判断し、忠克に命じる。


「間に合わないかもしれないし、使えないかもしれないけど、念のために取り寄せておこう。今後の参考として」

「は、そのように。対価は椎茸でよろしゅうございますか?」

「うん」


 僕は頷いた。これで、忠克が弟の善克あたりに手配を命じてくれるだろう。持つべきものは有能な部下だ。 

 しかし、漢方薬が使えないってことは、診療所を作っても寝かせて加湿して飯食わせて水分補給して、その人の体力任せ~ってことになりかねない。それじゃ意味がない。

 まあいいや、後で忠克がいなくなってから検索しよう。忠克がいないほうが話しやすいこともあるし。

 僕はタブレットをしまうと、千寿と忠克に声をかけた。


「とりあえず、あとはお爺と母上がいる場で話をしよう。忠克、お爺に声かけて、いつごろ弘徽殿に来れるか聞いてみてくれる?千寿はこっちで内容煮詰めよう」

「かしこまりました」

「了解」


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