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源氏“裏側”物語 もしくはいずれの帝の御時にか光源氏の兄になってしまった不運な公僕の顛末記  作者: 松本紗和子
第一章:桐壺 もしくは主人公の水面下でバタバタする白鳥の足の如き裏側の活躍
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閑話壱 食牛之気

◇一宮:四歳  二宮(後の光源氏):一歳  九月下旬 

 清涼殿 昼御座(ひのおまし)   典侍(ないしのすけ)源春子(みなもとのはるこ)


 (さる)一つ(午後3時ごろ)。

 帝の常の御所たる清涼殿には、奇妙な静寂が漂っておりました。

 いつもならばにぎやかな御達、蔵人たち。そして、殿上の間に伺候しておられる殿上人も。そして脇息にもたれかかられた主上も、まったく口を開かれません。

 皆、静かに一人の御方をお待ちしております。

 その御方とは、主上の一の御子(みこ)、一宮様でございます。

 一宮様は、主上と弘徽殿女御藤原温子(よしこ)様との間にお生まれになられた御子でございます。

 主上によく似ておられる大層お可愛らしい御子で、御年お二つになられてすぐに親王宣下をお受けになられ、隆明(たかあきら)様という御名を賜りました。

 御母君弘徽殿女御様は、権勢高き右大臣様の一の姫君でございます。また、かつて讒言され、大宰府へと左遷させられ、無念の死を遂げられた雷神―右大臣野見清道(のみのきよみち)公の御孫姫でもあられました。

 春宮であられる主上の弟君、篤親(あつちか)親王殿下が、ご病弱を理由に、春宮の地位のご辞退を申し上げておられる今。

 後ろ盾厚い一宮様は、いずれ春宮にお立ちにあそばす御方として、大層重んじられておられました。

 とはいえ、一宮様は今だ齢四つの幼子(おさなご)。その上、春宮様ほどではないにしろ、丈夫なお体の持ち主とは決して言えない御方。

 そのためか、母君の御実家二条烏丸殿でお過ごしになられることが多く、お人柄の噂なども、お優しい、妹想いなどの無難なものが聞こえてくる程度でございました。

 しかしでございます。

 ある日を境に、そんな一宮様の御評判が豹変なさったのでございます。

 八月の初めごろ、一宮様は疱瘡に罹られ、生死の境を彷徨われました。

 一時は薨去あそばしたとの御奏上もございましたが、幸いにしてご回復なされ、すっかりお元気になられたと聞いたときは、皆胸をなでおろしたものでございます。

 そしてそれからしばし、九月の初めのことでございました。

 一宮様の手習いの師をしておられた大学助大江頼臣殿が、こうおっしゃったのでございます。


「一宮様は、神童であらせられる」


 と。

 大学助殿がおっしゃるには、一宮様はわずか数度の手習いで仮名を覚えてしまった上、今では漢字を自在に操られ、齢四つとは思えぬ流麗な文字をお書きになられるとか。

 また、右大臣の孫である千寿君も、一宮様ほどではないものの優秀な御方であるそうでございます。

 一宮様と千寿君、お二人にせがまれて古事記、日本書紀、そして史記などを簡単に講義された時も、砂が水を吸うように身につけられたとか。

 あまりにも急なな御豹変に、皆信じられぬ思いでございました。今まで無難な評判しか聞こえてこなかった一宮様が、そこまで急に変わるものなのか、と。

 また、大学助殿が見せられた“一宮様が書かれたお手跡”も、皆の疑いを深くするものでしかございませんでした。

 確かにすばらしいお手跡でございました。やや稚拙な部分もございますが、流麗でありながら力強く、自由闊達。極められればどれほどのものになるでしょうか。

 ですが、稚拙な部分も残るとはいえ、齢四つの、手習いを始めたばかりの幼子が書けるものではございません。

 とはいえ、実直な“学狂い”の大学助殿は、嘘など申せる方ではございません。右大臣様に頼まれたとしても、決して首を縦には振らぬことでしょう。

 ゆえに、皆真相を掴むことができず、首をひねってばかりおりました。


 しかし今日。

 もう一人、“神童”一宮様に(まみ)えた御仁が現れたのです。

 その御仁は、主上付きの御達、靫負命婦でございました。

 今日は、疱瘡より快癒された一宮様が、主上にその御報告と、祈祷や御見舞いに対する御礼言上に参上される日。

 本来ならば未一つ、今より一刻も前に御謁見が始まっているはずでございました。

 しかしながら昨日の夕刻、高熱を出されて寝込んでおられた二宮様と、その後看病をしておられた桐壺更衣様が参内なされたのでございます。

 秘蔵っ子として大切にあそばすことこの上ない御存在の二宮様と、狂おしいまでに御寵愛なさっておられる桐壺更衣様。

 そのお二人が参内なされたことにたいそうお喜びになられた主上は、夜遅くまで二宮様をお傍に置いて可愛がられ、そして夜が明けるまで更衣様を御寵愛なされました。

 そのため、お二人はも謁見の時が近づいても夜御殿から出ることなく、お休みになっていたのでございます。

 とんでもないことでございました。

 一宮様との約定をお破りになさる、蔑になさる。それは、後ろ盾であられる権勢高き右大臣様のお顔に、泥を塗るようなこと。

 しかしながら、夜御殿の中に立ち入って、更衣と御同衾中の主上を強引にお起こし申し上げるわけにもまいりませぬ。

 ゆえに、弘徽殿女御様のお怒りをかうのを覚悟したうえで、靫負命婦が謁見を遅らせて下さるよう、お願いに向かったのでございます。


 靫負命婦の話では、弘徽殿女御様は烈火のごとくお怒りになられたそうでございます。

 言い方は悪うございますが、なにゆえ更衣ごときのために、一の皇子である我が子がないがしろにされればならぬのか。

 女御様のお怒りは、当然のことでございました。

 命婦がひたすら平伏し、お怒りが収まるのを待っている、その時でございました。

 それまで何もおっしゃらず、ただお話を聞いておられた一宮様が、命婦の前にお立ちになられたのです。

 そして、なぜお前たちも、()()()()()()()()()()()()()も、主上をお諫め申し上げないのか。主上が間違えたことをなさっておられたのなら、御不興をかったとしてもお諫め申し上げるのが、臣下の役目ではないか。

 君主の間違いを正さねば、世の中は間違った方向に進んでしまい、悪人が増えてしまうであろうと、そうおっしゃったそうでございます。

 信じられませぬ。齢四つの幼子が、そのようなことを!

 しかし、命婦は確かに聞いたのです。

 その上、命婦が主上と更衣様のこと、主上が諫言に耳を貸さぬことを申し上げると、一宮様は命婦にたいそうご同情なさったそうです。

 さらに、父上が我が侭のために、しなくていい苦労をさせた。すまぬ、と。そうおっしゃられたそうでございます。

 命婦は感激し、涙を流しておりました。

 主上にお仕えするのは至上の名誉なれど、気苦労も多い。今の状況(・・)ならばなおのこと。

 それを労苦を理解してくださった上に、すまぬとねぎらってくださるとは。このような幼子が!

 さすがは清廉潔白、兼済を志としておられた野見公のお血を引いておられる御方よ、と。

 命婦が嘘をついているということはございますまい。

 この者も嘘をつけるような性格ではございませんし、つい先ほどの出来事です。

 と、なると……。


 そのようなことを考えている合間に、御母君弘徽殿女御様とともに、一宮様が昼御座へと入られました。

 そして、見事な所作で主上の前に平伏なさります。

 しかしながら、四つの童子にしては、おかしなほどにきびきびとしおられました。

 

「主上におかれましてはご機嫌麗しく、御拝謁を賜り恐悦至極に存じ上げまする」


 一宮様は見事な口上を述べられました。周りの者達が、ほう、という感嘆の吐息を漏らしたのが聞こえます。

 しかしながら、鈴を鳴らしたような愛らしい声には一切の温かみも冷たさもなく、親子のというよりは、他人同士の対面のようでございました。

 主上が戸惑ったようにお声をかけられます。


「……うむ、一宮。面をあげよ」

「はい」


 一宮様が、お顔を上げられました。

 お年よりも小柄で、病み上がりゆえか少しやせ気味でいらっしゃいます。

 主上とうり二つの、幼いながらも優美な御容貌は、童子というよりは女の子(めのこ)のようであらせられました。

 しかしながら―しかしながら。

 その眼だけは違いました。

 主上とうり二つの、優美な顔立ちの中に鎮座まします一対の眼は、幼子らしくくりくりとして、丸く愛らしくていらっしゃいます。

 しかしながら、頭を上げる時に一瞬だけ放たれたその眼光は、鋭く、冷徹で、まるで主上の人柄を見定めようと、観察しているようでございました。

 一瞬だけでございましたので、御達や伺候している蔵人達、主上、そして隣に控える母君さえも気づいておられません。しかし、私にはわかりました。

 典侍として、浮かれ女、好きものと呼ばれながらも、宮中を泳ぎつづけてきた私には。


「一宮……遅くなってすまなんだな。体のほうは良いのか?」


 主上がそうお尋ねになると、一宮様は小さく頷かれました。


「はい。医師たちの尽力や、主上……父上がご依頼くださった加持祈祷のおかげをもちまして、すっかり良くなりました」

「そうか。それはよかった」


 今日のことについての後ろめたさがあるのでございましょう。主上は横に控えていた女御様に、いつになく優しくお声をかけられます。


「そなたも。さぞ苦労したであろう、女御」

「……いいえ。我が子のことでございますれば、苦労などとは思いませぬ」


 女御様は不機嫌そうに答えられました。

 当然でございました。

 主上の寵愛を奪った桐壺更衣様を毛嫌いし、女房達に命じて嫌がらせをなさっていると言われている御方です。

 その上、病より快癒した我が子が御父君にお会いすることまで邪魔されたのですから、冷静を装っていても、お腹の中は煮えくり返っていることでございましょう。

 猫のような目で、主上をじっと見据えていらっしゃいます。

 これ以上、ああだこうだと言われてはたまらぬとでもお考えになられたのでしょうか?

 主上は女御様のご機嫌を取るように、優しいお声で一宮様に話しかけられました。


「では、病が治った祝いに、何か祝いをやらねばならぬな。何がよい?」

「祝いでございますか」


 一宮様は不思議そうに首を傾げられました。

 御髪が揺れ、額にかかる御様子が何ともお可愛らしゅうございます。

 一宮様はちらりと母君をご覧になると、再び主上に目を戻されます。


「何でもよいぞ」


 主上は微笑みを浮かべ、重ねて言われました。

 主上は二宮様をそれはそれは可愛がってらっしゃいますが、一宮様が可愛くない訳ではございません。ただ、我が子に対する愛情の殆どを、二宮様に使っておられるだけでございます。

 するとそこで、弘徽殿女御様がお口を開かれました。


「で―」

「では、奏上申し上げたき儀がございます」


 弘徽殿女御様が何をお願いするつもりであられたのか。

 それがわかる前に、一宮様がお口を挟まれました。

 出ばなをくじかれた女御様が、ぱちくりと目を瞬かれました。

 その後様子を見るに、今の出来事に、女御様が関わっていないことがわかりました。おそらく、一宮様の独断であられるのでしょう。


「お聞き届け願えましょうか?」

「むう」


 主上は不思議そうなお顔をなさいました。

 そうでございましょう。

 横におられる女御様ならば此度の件について申し上げることもございましょう。しかし、齢四つの幼子が、何を申し上げるのでございましょう?

 しかしながら、大学助の件、靫負命婦の件もございます。

 主上は、ごくりと喉を鳴らし、


「許そう、申せ」


 そう申し上げました。

 すると一宮様は、お母君に向かって申し訳なさそうに一礼なさりました。母君のお話にかぶせてしまいましたから、それをお気になさっていたのでしょう。

 女御様は心配そうな顔で一宮様のお顔をご覧になられ、そして小さく息を吐いて頷かれました。

 これは推測でございますが―一宮様の“神童”っぷりを最も近くでご覧になられているのは、この女御様でございます。

 この御子のなさることには何か意味があるのだと、一番よくわかっているのも、女御様でしょう。

 ゆえに、此度もそうだと思い、好きなようになさればよいと思ったのではないでしょうか。

 そして。

 あの眼でございました。鋭く、冷徹で、主上を観察しておられるような。

 あの冷たい目を、またなさったのでございます。


「主上は約定を破り、女楽にふけり、祭祀を怠り、政を顧みず、さらには臣下からの諫言を疎んじておられまする」


 戦慄が走りました。

 約定を破り、女楽にふけり、祭祀を怠り……。

 主上をお諫め申し上げた御方は、目の前におられる弘徽殿女御様をはじめ、数多くございます。

 しかしながら、ここまで強烈なお言葉でお諫めになられた方は、未だおられません。

 一宮様は驚きのあまり何も言えぬ一同をよそに、さらに驚くべき内容の言葉を紡ぎます。


「原清ければ即ち流れ清く、原濁れば即ち流れ濁ると古来より申します。国家の源流、天子たる主上がそのようなことをなされば法は軽んじられ、風紀は頽廃し、人々は神仏を敬わず、弱き民百姓は苦しみ、魏徴(ぎちょう)袁盎(えんおう)を遠ざけ、李林甫、楊国忠のごとき奸臣外戚をのさばらせる元となりましょう」


 魏徴!袁盎!なんということでしょう。

 魏徴は唐の帝である太宗に、袁盎は漢の帝である文帝、景帝に仕えた名臣中の名臣です。二人とも君主の不興をかうことを恐れず直諫し、それ故に重用されました。

 特に魏徴は、亡くなった際に、太宗から「私は損失を知る鏡を喪った」と非常に惜しまれたほどの名臣でございます。

 そして李林甫、楊国忠。李林甫は唐の帝玄宗に仕え、陰謀で数多の人々を蹴落とし、国政を壟断した奸臣。楊国忠は皆も知るとおり、楊貴妃の従兄弟です。楊貴妃を通して絶大な権力を握り、専横を極めた外戚でもあります。

 まだ漢籍も学んでいない幼子が、なんということをおっしゃるのでしょう?

 大学助殿から聞いたのでしょうか?それとも、他の方から?いいえ、誰かから聞かずとも、最初から知っていたような気さえいたします。

 そのようなことなどどうでもよいのです。ただ一つわかっていることは、いま一宮様がおっしゃっていることは、幼子が申し上げるようなことではない、ということです。

 ……主上と桐壺更衣様の御関係は、玄宗と楊貴妃に例えられておられます。そして、更衣様には、現在蔵人をなさっている兄君がおられました。

 一宮様は、そのことをご存じでいらっしゃるのでしょうか?ええ、もちろんご存じでいらっしゃるでしょう、きっと。

 これは、主上をお諫めしない桐壺更衣様に対する当てこすりなのでしょうか?

 一宮様は、一度きっと主上を睨まれました。あの、鷲の如く鋭い眼で。

 そして、再び平伏すると、


「さすればそれは、国家の混乱を招き、神武の帝より続いた皇統断絶の危機をもたらすこととなるでしょう。どうか御身をお正し下さいますよう、伏してお願い申し上げます」


 奏上を終えられました。


 誰もが唖然としておりました。

 女御様が入れ知恵―言い方は悪うございますが―なさったのかと思いましたが、そのあっけにとられた様子から、違うとわかります。

 つまり、一宮様が奏上申し上げられたことは、全て一宮様御自身が学ばれ、お考えになったこと。

 とんでもないことでございます。

 どこの世界に、このように主上に直諫なさる幼子がおられるでしょうか。

 いいえ、それ以前に、この方は幼子なのでしょうか?

 まるで、大の大人と対峙しているような錯覚さえ覚えてしまいます。


 なんということでございましょう。

 この方は、一体一体何者であられるのでしょう。

 お顔立ちは相変わらず、主上に似ておられます。しかし、あの(まなこ)

 鋭さを持ったあの眼。その小さな体から溢れ出る、四つの幼子とは思えぬ胆力。

 主上を前にして一歩も引かぬどころか、いつかその首筋に、爪を突き立ててやろうと狙っているのではないかと、錯覚するほどの。

 ……一宮様は鷲の子でございます。

 まだ産毛が生えている弱弱しい雛でございますが、いつか翼を得、巣から羽ばたき、天空の王として君臨する日がくるやもしれませぬ。



屍子曰、虎豹駒、雖文成文、已有食牛之気

(屍子曰く、虎や豹の子は、まだ斑紋もはっきりしないうちから牛を食らおうとするほど意気盛んである)

 

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