閑弐話 雷神の御子
◇一宮:四歳 二宮(後の光源氏):一歳 十月初頭
二条烏丸殿 従三位弘徽殿女御・藤原温子
東の庇で遊ぶ我が子一宮と、甥の千寿の姿を見ながら。
わらわはあの日のことを思い出していた。
あの日、一宮。我が子隆明が疱瘡より快癒し、主上の加持祈祷・御見舞いのお礼言上に参内した日のことを。
あの日、一宮は主上に直諫した。
誰もがあっけにとられた。
我が子ながら、あの時の一宮は、齢四つの幼子とは思えぬ振る舞いであった。
まるで、まるで大の大人。
歳経た学者のようでもあった。
あの後、主上は適当なお返事をなされ、退出するようを促された。そして、結局直諫に対する答えはうやむやのまま謁見が終わってしまった。
当然だろう。まさか、あのようなことになるとは、誰も予想していなかったのだから。
誰もが遠慮がちにお諫めする中、まさか我が子が、あれほど強烈な言葉で主上を攻めたてるとは!
約定を破り、女楽にふけり……などと。お前は女にうつつをぬかし、君主としての役目を果たしていない。
お前がそんなことをつづけていると、皇統が絶え、国が亡ぶぞ、と。
唐の国の忠臣奸臣の名を出しながら、幼子とは思えぬ調子で、そう言い立てたのだ。
主上も、御達も蔵人も。そして隣で聞いていた殿上人たちも。皆、何も言えぬままであった。
堂々とした立ち居振る舞い、そして一天万乗の天子たる主上に直諫するという、その胆力!
我が子ながら末恐ろしい……いや、そもそも、一体、どこであのような知識を得たのだ?
大学助から漢籍の知識を教わることはあっても、まだそこまで詳しいことは教わってなかったはず。
幼子とは思えぬ振る舞い、知らぬはずのことを知っていること……いったい、誰から教わったのであろう?
あの時のあの子は、まことに我が子なのであろうか?まるで別人であった。
まさかあの時、もののけか何かが一宮の口を借り、言わせていたのであろうか?いや、あの時ではない。
一宮が変わったのは、疱瘡より快癒した時だ。
あの時蘇ったのは、一宮ではないのやもしれぬ。
一宮ではなく、この子の死体に入ったもののけ、妖魔―。
であれば、急にあれほどの非凡さを見せつけるようになったのもよくわかる。
この子は一体何なのじゃ。
我が子はいったいどこに行ったのじゃ。
あの子は、どこに―。
そう思いながら清涼殿より退出し、歩いていると、いつの間にか弘徽殿についていた。
ひどく、疲れた……。
わはらわ茵の上に座り、脇息にもたれかかった。
一宮のことも、考えねばならぬ。
いったい、何者なのじゃ……。
わらわが痛む頭を押さえ、そのようなことを考えていると。
目の前に、一宮が立っていた。
「い、一宮……」
きゅっと唇を噛み、わらわをじっと見つめている。
一体、どうしたのじゃ。
もしや、わらわが疑っていることを気づいたのか。
心の臓が激しく脈打つ。これから何が起こるのか……。
わらわの喉が、ごくりとなった。
すると、一宮はわらわにぎゅっと抱き、胸元に顔をうずめた。
顔は見えぬが、微かに嗚咽のようなものも聞こえてくる。
この子はそのようなことをする子ではない。なぜ、こんなことを・・…。
「一宮や……」
わらわはその時思い出した。
いかに聡明といえども、この子はまだ数え四つ。まだまだ父母を恋しがる年頃。
今日もきっと、御父君―主上に会いたかったはず。中々会えぬ父君に甘えたかったに違いない。
けれど、一宮は優しい子じゃ。あの通り、靫負命婦が難儀しているのを見て、放っておけなくなったのであろう。
故に、この子は甘えたい心を押し込み、皇子としてのお役目を果たしたのじゃ。
きっと、父上に嫌われてしまったのだと思っているに違いない。可哀想に、あれは主上が悪いのじゃ。この子は、主上の間違いを正したにすぎぬ。
先ほどの知らぬはずの知識も、きっと何か事情があったのじゃ。
何ということを考えてしまったのじゃろう、この子が妖魔もののけではないかなどと。わらわはこの子の母じゃというのに!
わらわは一宮を抱きしめた。
なんと小さく、細く頼りない事か……。
「どうしたのじゃ、一宮。ん?」
一宮はふるふると首を振った。嗚咽はまだ聞こえてくる。
わらわは一宮の髪を撫でた。
「甘えたくなったのじゃな。よいよい……」
「女御様……」
乳母の中務や兵衛が、心配そうに心配そうにわらわたちを見ておる。
きっと、謁見で何があったか気になっておるのじゃろう。主上の不興でもかったのかと想像しているのやも知れぬ。
わらわは首を振った。
すると、手を出すなといいたいことががわかったのであろう。
二人は戸惑いつつも、手を出さずにいてくれた。
よいのじゃ、一宮。わらわはそなたの母、好きなだけわらわのもとで泣くがよい……。
それからしばらくして、一宮が顔をあげた。
可哀想に。目が涙でぬれておる……。わらわは一宮の涙を拭ってやった。
すると、一宮はわらわの腕から離れ、目の前に座り俯いた。暖かさが無くなったことが寂しゅうて……わらわは一宮の手を握った。
「一宮、どうしたのじゃ?寂しゅうなったのか?母に教えてたもれ」
すると、一宮は顔をあげ、少し戸惑った後に口を開いた。
「ぼく、母上に黙っていたことがあります」
「なんじゃ?」
どきりとした。
「実は、あの……疱瘡から快癒した時のことです」
やはり、その時のことか……。一体、あの時に何があったのか?
一宮は不安そうな顔で話し始めた。
「実は、目覚める前、一人の貴人の神霊と出会ったのです」
「貴人?」
貴人じゃと?
どういうことじゃ。周りの者も不思議そうな顔をしておる。
「はい。その貴人が言うには、ぼくはまだ死ぬはずではなかったので、蘇らせてやろうとおっしゃったのです」
「なんと……」
死ぬはずではなかったとな。
となると、まだ寿命が残っていたのに死んでしまったということか。
なぜそのようなことになったのか……。はっ、もしや誰ぞが呪詛で、病に見せかけて一宮を死に追いやったのでは……。
おのれ、そうにちがいない!一宮はいずれ帝となる子じゃ。その地位を奪い取ろうとする輩がいてもおかしゅうない!
一宮が疱瘡に罹ったのは、ちょうどあのにっくき桐壺が二宮を産んだすぐ後よ。きっと更衣めが、一宮を亡き者にして、二宮を春宮としようとしていたのじゃ!
おのれ、桐壺更衣め!証拠がないのが悔しくてたまらぬ!
「しかし、まだ蘇る準備ができておらぬゆえ、しばし待てと。待つ間、せっかくなのでいろいろと学んでいくがよいと」
わらわがどうやって桐壺を排除してやろうかと考えていると、一宮がそのように話した。
いろいろと学んでいくがよい、ということは……。
「では、そなたはその時に魏徴、袁盎らのことを教わったのじゃな?」
「はい。仮名や漢字の読み書き、漢籍の知識、我が国や唐の国の歴史も教わりました」
「そうか……そうか!」
なんじゃ、そのような事だったのか!
やはり一宮は一宮。わらわの可愛い隆明じゃ。
気の迷いとはいえ、なぜそのようなことを考えてしまったのじゃろう。
しかし、神霊に師事することを許されるとは、さすが我が子よ。
「それだけではございません。その御方は、唐の国、天竺。そして、天竺よりさらに西の大食、大秦国といった国々の神霊のもとに連れて行って下さり、その方々に師事させてくれたのです」
おお……なんと、外つ国の神霊にまで師事したとな!
「大食?大秦国」
「きいたことがございませんわ」
女房達が口々にいう。
やれやれ、知らぬのかや。
「後漢書に、大秦国王安敦の使者が日南郡へとやってきたという記述がある。安息、條支国よりさらに西の国であるという……大食は、回教徒の国のことであったか」
「そうです、母上」
女はあまり漢籍を読まぬし、読むことははしたないと言われておるゆえな……。
わらわは女であるという理由で、知識を蓄えることを制限すべきではないと思うのじゃが……。
「そうしているうちに時がたち、ぼくは蘇ることができました。しかし、その神霊の方々は、ぼくを弟子と認めてくださったので、今でも時折夢の中に現れ、様々な知識を教えて下さるのです」
「そうであったか……」
「はい、あと、千寿のことも話したら、千寿も弟子にしてくださると」
夢の中に神霊が現れるとな……。なんと素晴らしい事じゃ。
我が国は島国ゆえに外つ国の影響を受けにくく、侵略などの心配もさほどいらぬ。
じゃが、新羅の入寇の件もある。ゆえに、情報を集めておくのは悪い事ではない。しかし、遣唐使が廃止され、唐が滅びた今。外つ国の情報は手に入りにくくなっておるのが現状。
ならば、神霊の方々よりお力を借り、外つ国のことを知ることは、必ずや役に立つであろう。
それに、千寿も弟子にというのもよい。
千寿は我が甥。いずれ大臣となり、一宮の治世を支えてもらわねばならぬ。
ならば、同じことを学ばせ、大いに議論させねばならぬ。
「黙っていてごめんなさい、母上」
「いやいや、よいのじゃ。確かに、神霊の方々が絡むとなれば話辛かろう。よう話してくれたな」
ああ、安心した。
やはり我が子はかわいい我が子。もののけ妖魔などではない。なぜ疑ってしまったのか。やれやれ、わらわもまだ母としては未熟ということかや。
しかし、一宮を蘇らせて下さった貴人の神霊というのは、一体どのような御方なのか?丁重に御礼申し上げ、お祀りせねばならぬ。
「して、そなたの前に現れた貴人の神霊とは、我が国の神霊であられるのか?」
「はい」
わらわが尋ねると、一宮は頷いた。
我が国の神霊か。なれば、歴代の帝の誰かか……それとも、我らが藤原の祖である藤原鎌足公か?
わらわは尋ねた。
「どのような御方なのじゃ?」
「黒い衣をまとった、背の高い、髭を生やした立派な御仁です」
黒い衣をまとった、背の高い、髭を生やした立派な御仁?
「御名は?お名乗りにならなかったのかや?」
「……ご自分のことは何もおっしゃらぬのです。その、我が名は母君がご存じであろう、と」
一宮は困ったような顔で答えた。
わらわが知っておる?なんじゃそれは。
「うむぅ……」
黒い衣をまとった、背の高い、髭を生やした立派な御仁で、わらわが知っている御方……。
ええい、大雑把すぎてわからぬ。
何か、他に特徴はないのか。
「他に、なにかなかったかや?その御仁がわかりそうなものは……」
「わかりそうなもの……」
一宮はうーん、と首をかしげた。困っておるな。
「誰かに似ておったとか……何か好んでおるものとか。何でもよいのじゃ」
一宮は再び考え込んだ。
「漢詩と馬を好まれ、素晴らしいお手跡をしてらっしゃいます」
「うーむ……漢詩と馬を好まれる御方」
あまり役に立たぬのう。
女房どもも名前を出してくれてはおるが、いかんせんあてはまる御方の数が多すぎる。
すると、一宮が声をあげた。
「あっ」
「なんじゃ?」
「無実の罪で陥れられた、とおっしゃっていました」
「なんと」
漢詩と馬を好まれ、無実の罪で陥れられた、わらわが知っている御方……。
「わかったぞ、一宮」
そうなると、一人しかおられない!
「その方は、そなたの曾祖父でこの母の祖父、野見清道公に相違ない!」
「野見清道公?」
一宮は首をかしげた。
そうか、知らぬか。致し方あるまい。昔のことじゃからな。
「清道公が……」
「なるほど、清道公なれば……」
そうじゃろう、そうじゃろう。
あの方ならば、ありうる。
一宮が尋ねた。
「どのような御方なのですか?」
「うむ、清道公はの、三代前の帝に重用された御方であった……」
文武に優れ、清廉潔白。特に馬術に優れておったという。
家柄はさほど高くなかったものの、幼いころより神童として名高かった清道公は、実力を認められて三代前の帝に重用された。
国司となっては不正を許さず、善政を敷き、民百姓に感謝され。学識深く、帝に対する忠勤厚く、最終的には右大臣にまで上り詰めた。
しかし、代が変わって先帝の御世となった時、無実の罪で陥れられ、大宰府に左遷され非業の死を遂げられた。
その後、悲しいことに清道公は怨霊となられ、祟りを成したが、今では雷神として北山に祀られておられる。
父の正妻である我が母、野見泉子は、清道公の娘。きっと、己が血を引く皇子の危機を知り、助けに来て下すったに違いない。
「清道公がなさることならば間違いはない。一宮や、千寿とともに学ぶがよい」
「はい、母上。それから……」
一宮の涙もすっかり乾いたようじゃ。よかったよかった。
して、“それから”とは何じゃ?
「それから?」
「もし、清道公や他の神霊の方々に教えてもらった物の中で、人々の役に立ちそうなものがあったら、作るなどしてもよろしいでしょうか?」
「なんじゃ、そんなことか」
それはよい。
我が家のために、我が国のために役立つものならば、いくらでも作ればよい。
「よいとも、よいとも。父上―右大臣にも伝えておこう。何でも申すのじゃ」
「はい!」
わらわが髪を撫でてやると、一宮は嬉しそうに笑った。
やはりこの御子は帝にふさわしき子よ。この幼さで、民百姓のことまで考えてやっているとは。
この子が優しいのは、疱瘡に罹る前からであったゆえ、生来のものじゃろう。
祖父清道公が、この子に目をかけるのもわかるというものよ。
きっとこの子は、何らかの使命を負って生まれてきたのだ。
そうに違いない。
そうであるからこそ、祖父野見清道公も一宮にお力をお貸しになったのじゃ。
できるだけのことをせねばならぬ。この子が使命を果たすために、力を貸さねば。
わらわが守らねばならぬ。
この子を害する者から、この子を利用す用とする者から、この子を廃そうとする者から!
邪魔だてする者は、たとえ父上であろうと、主上であろうと許さぬ!
わらわの可愛い一宮―隆明が、その翼で飛び立つその日まで。
そのためならば、わらわは喜んで鬼になってやる。
母上チョロイッス




