新学期早々慌ただしい
背の低い女子とぶつかってしまった。
背が低くて同い年かと思ったら、ネクタイの色が緑色をしていて二年生だとわかる。
彼女は渚が持っていた本を丁寧に集め、渚に渡した。
その仕草が美しかった。
誰かさんとは正反対だなと思った。
「すみません。ありがとうございます」
彼女の顔を初めてみた時、眼が少し腫れていた。
泣いていたようだった。
彼女はそれから「すみませんでした」と言うかのように頭を下げ走り去ってしまった。
本を集め終わり、床に何か落ちていないか確認すると生徒手帳があった。
本を左膝に乗せ、生徒手帳を手に取る。
先程ぶつかってしまった彼女の写真と名前が掲載されていた。
「相原優香さん」
それが彼女に名前だった。
彼女のバッチにはBと刻まれている。
と言うことは本当はこの階にはいないことになる。
けれど、彼女のここの廊下を走っていた。
何か“A組"の友人に用があったのかもしれない。
そう思い渚は生徒手帳についた誇りを手で払ってから上着にあるポケットにしまった。
それから本を両手で持ち、立ち上がる。
そして自分のバックが置いてから1年A組の教室へ戻った。
夕陽が車を染めている。
黒く光る車も夕陽には負けるようだ。
「彧奈」
いつもの威勢が少し弱くなった冬葵の声がする。
何かあったのだろうか。
彼の顔を少し伺っていると「早くドアを開けろ」と言いたげな眼をした。
……何か会ったようだ。
いつもなら機嫌を悪くして口を開く。
なのに今は口を開こうともしない。
彧奈は後部座席のドアを開け、冬葵の車の中へと導く。
ドアをしめ終わった後、彧奈も車の中に座り込む。
「夕陽が眩しいですね」
「……そうだな」
本当に何かあったようだ。
冬葵はドアガラスを開け、肌に流れている空気を当てている。
「冬葵様」
「いつも通りにしろ」
「……冬葵、よりたいとこがある。いいか?」
「あぁ」
冬葵の名を呼び捨てで呼ぶことは二人だけの時、限定だ。
冬葵と始めてあった日
『二人だけの時は様呼びをするな。それと敬語も。気色悪い』
と吐き捨てられた。
正直、こちらもそっちの方が助かる。
彧奈は切り替えが早い方だ。得意だとも言える。
特に冬葵の呼び方をいちいち変えることに違和感も覚えない。
もう、慣れてしまった。
しかし、いくら冬葵が敬語を使うな。と言っていてもたまにあるのだ。
二人きりの時、敬語を話さないと怒られると言うことが。
そこは面倒くさいが、それ以外は気楽でいられる。
敬語で話すことが当たり前なのだから彼を責めることは出来ない。此方が感謝すべきことなのだ。
「冬葵、着いたぞ」
「着いたって、俺も降りるのか?」
「お前のために来たようなものだからな」
「出たくない」
「だが、無理やりでも連れていく」
彧奈は車を止め、冬葵をある場所へと腕を引いて連れていく。
冬葵はほぼ目を閉じた状態で周りをみていない。
「怪我するなよ」
「お前が俺を安全に目的場所へ連れて行け」
「じゃあ文句言うなよ?」
彧奈が冬葵をひょいと軽く持ち上げ、背負う。
いつもなら抵抗するはずの冬葵がびくりともせず背中に寄りかかる。
「お気をつけください。王子様」
意図的に言った言葉に反応されないとこんなに虚しくなるものか。
彧奈は冬葵を持ちやすい角度にして、歩き出した。
彧奈の珍しい嬉しそうな顔を見れるものは周りにはいなかった。
冬葵は気持ち良さそうに彧奈に体を預け、いつの間にかスヤスヤと寝ていた。
「そんなに俺の背中寝やすいか?」
微笑を浮かべる彧奈に冬葵は首に腕を回した。
「懐かしいな……」
普段人に甘える事をしない、正しく直せば“出来ない”彼が自分に頼ってくれていることが嬉しく感じた。
それが、もし誰かの代わりに使われていたとしても……。
誰かの代わりだとしても、それが精一杯の冬葵の甘えだと、彧奈は知っていたから。
目が、覚めた。
いつのまにかベットで寝てしまったのかと思って状態を起こす。
辺りを見渡した。
冬葵の部屋より狭い空間に赤いソファが三、四つドアを囲む状態で置いてある。
ドア側の壁側には部屋に置いてあるくらいのテレビが垂れ下がって固定されている。
天井を見てみると少し暗めにセッティングされたライトがいくつか固定されている。
「どこだ?ここ」
見たこともない場所で自分が寝ていたことに違和感を覚える。
ここはどこだろうか。
ソファの前にあるテーブルをみると、四角い形をした機会が二つと、なんからのメニュー表、それと何に使うのかマイクが二本、綺麗に揃った状態で置いてあった。
「あっ、やっと起きたか」
さっきまで閉じていたドアが開いて男が部屋に入ってきた。
合図も許可もなしに入ってくる。
「彧奈。なんのつもりだ」
「高校生なんだがら、カラオケくらいは知ってて欲しいな」
問いの答ではない言葉が返ってきた。
そして彧奈のやれやれ感が気に食わない。
彧奈が冬葵の前に紫色をした飲み物を差し出す。
「八ツ矢のぶどう味。これなら飲めるだろ?」
彧奈はそれを言うと冬葵の向かい側にあるソファに座り、左手に持っていたティーカップセットをテーブルにおく。
冬葵はコップの中で踊るように泡を立てている紫色の液体をストローで回してから一気に飲んだ。
「炭酸は一気に飲むものではないと思うけどな」
彧奈が冬葵の様子を見てから上品に黒い液体が入ったティーカップを口につけた。
どうやらカップの中身は珈琲のようだ。
彧奈は一口飲むと白い皿にティーカップを戻す。
「さて、冬葵。何を歌いたい?」
前ぶりも無く、問われる。
何を歌いたいと言われても状況が把握できない以上答えられない。
「お坊ちゃんも大変だな」
飽きられたような言葉からは同情の言葉にも聞こえる。
「じゃあ俺から歌うか」
彧奈が機械をいじってから数秒後、部屋の両端にあったスピーカーから音楽が流れ出す。
テレビにもその音楽の歌詞が現れた。
テレビ画面に映る文字のバックにはよくわからない映像が流れている。
彧奈が歌い出した。
なんの歌を歌っているのか冬葵には分からなかったが、彼の歌声がとても心地良く、心にしみることは分かった。
彧奈の歌声がどんな歌手よりも上手くて、冬葵は圧倒されてしまった。
間奏の時間が長く感じた。
彧奈の歌声をまだもっと聞きたいと冬葵の頭が訴えている。
彧奈の歌声は優しくて、全てを包み込めてくれる、そんな気がしてならなかった。
「何かあったら俺に言えよ」
彧奈の声がマイクに通らないで聞こえる。
でもその声はスピーカーから流れてくる音楽に掻き消されそうだった。
それでも冬葵は彧奈の声をしっかりと聞くことができた。
彧奈の声を信じても損失感を覚えたくは今まで一度もなかったから。
「俺はお前の兄なんだろ?」
彧奈のいたずらっぽい笑顔を久しぶりに見た。
マイクを通った声は冬葵にしっかりと届く。
もし一言目の言葉を意図的に、隠す目的でこの言葉を言ったのなら……。
「彧奈。お前は俺をどう思っている? 」
「わがままな、可愛い男子」
「さっきと言っていることが違うじゃないか」
「さぁ。どうだろうな」