番外編 兄と客人の恋愛事情
落ちる。
足を踏み外したわけではない。確かに今日は重要な講義があるため急いでいて、昨日買った新しいヒールの高いパンプスをはいていたのは事実だ。
しかし、私の足は確実にアパートの階段を下りていたはずだった。最後の段に右足を着けた瞬間、急に私の身体は傾き、真っ暗な世界へと放り出された。
暗闇に落ちた後の自分に何が起きたのか分かったのは、3人は余裕で寝ることができるようなふかふかのベットで目が覚め、飛び起きた時だった。しかも目の前には金髪に青い目のイケメンさんが心配そうな顔をして私を見つめていて、あれはそのままベットにぶっ倒れるぐらい驚いた。
そのイケメンさんはサディエさんと言うらしく、彼曰く私は空から落ちてきたそうだ。ちょっとこの人何言ってるんだろうなんて思ったが、そのまま池に落ちた私を彼は助けてくれたらしい。
大丈夫ですか、と自分の掌を私の額に乗せ熱を測る彼に、ドキドキしてしまったのは不可抗力だ。だってそうでしょう。女子大に通っているせいで普段男性とのかかわりは殆ど無いのだから。
ひんやりとした手が火照った顔には気持ちよかった。
「少し熱いな。詳しいことは明日聞くから、今日はこのまま休むように。後で何か軽く食べられるものを持ってこさせるから」
「いえ、私大丈夫です。それよりここ、どこですか?私帰らなきゃ。今日レポート提出しないと単位もらえない授業があって、急いでいるんです。あの、助けてくださったお礼はまた後日しますから、その――」
「そこまで」
今日大事な授業があったのを思い出した私はまくし立てるようにサディエさんに問いかけるが、彼の長い人差し指が唇に押さえつけられ、言葉を発するのを止められてしまった。
「まだ熱がある。無理をしない方がいい。あれだけ高いところから落ちてきたんだから身体は疲れているはずだよ。さあ横になって」
言われるがままベットに横になるしかなかった。
なんなんだこのイケメンさんは、人をドキドキさせる天才なのだろうか。私がよく知らないだけでイケメンというものは女誑しでもあるのだろうか。そんなことをぐるぐる考えていると少し睡魔が襲ってきた。確かに恥ずかしさだけで身体が熱かったのではないようだ。
「君の名前を聞いてもいいか?」
「……美菜。……太田美菜」
瞼が完全に閉じる前に自分の名前を言い終え、私は眠りの世界へと旅立った。
これは料理人のエプロンだろうか。油汚れがもうシミになっている。せめて皺無く干してあげようと思い、勢いよく上下に振り水気も落としてロープに引っ掛ける。
雲一つない青空に太陽が眩しい。日焼け止め欲しいなー、シミになったらどうしよう、なんて考えながらも、そんな品物ここにはないため、次の洗濯物を籠から取る。白いハンカチも同じように皺を取り干していたところだった。
「ミナ、ここにいたのか。探したぞ」
低温の心地良い声が建物の陰から飛び出してくる。随分長い間探させてしまったのだろうか。少し彼の額には汗がにじんでいる。
「どうしたの、サディエさん。お客様はもうお帰りになったの?」
「予定より早く終わったからな。少し時間が空いたことだし、これから馬に乗って出かけないか?」
以前他愛もない会話をしていた時に、馬に乗ってみたいと言ったのを覚えていてくれたようだ。その気遣いがとても嬉しいし、そういうところがさすがイケメンだなーと思う。
「行く!ちょっと待って!おばちゃーん、これ途中でごめんね!」
まだ少し洗濯物が残る籠を女性に返す。最後まで手伝えなかったことを詫びると、手伝ってくれただけでありがたいと言われてしまった。次は必ず最後までお手伝いしようと心に決めた。
「こんなところにいると、また侍女長が血相変えて飛んでくるぞ。昨日も猫を拾ってきたとかで叱られてなかったか?」
サディエさんがくすくすと笑いながら厩舎の方へ歩いていく。置いて行かれないよう小走りで私もその後を追った。
「あっ!ひどい。見てたんなら助けてくださいよー。あなたは伯爵家の客人としてここにいるんです!伯爵家の品を落とすつもりですかってもう何回聞いたことか」
彼女曰く私は女性として全く礼儀作法がなっていないらしい。だってしょうがないじゃないか生まれて20年こんなドレスを着る機会もなかったし、侍女がいる生活なんて夢に見たこともなかったのだから。あれもだめこれもだめと言われるこちらの身にもなってほしい。
大きな庭を横切っているとき、遠くの正門から馬車が出ていくのが見えた。まるで本物のシンデレラの馬車のように綺麗に装飾が入っており、馬車なんてものを初めてみた私はじっと見つめていたようだ。
「あぁ。男爵家の馬車だよ。ほらあそこに紋章が入っているだろう」
サディエさんが私の目線に気付いたのか説明してくれる。確かに扉の所になにやらマークみたいなものがついており、金色に縁どられた馬車が光に反射して輝いている。
「馬に乗るより馬車のほうがいいかいお姫様?」
「ううん。サディエさんと一緒に馬に乗りたい。こんなにいいお天気なんだから、風が気持ちいいよ」
少し伸びをして空を仰ぐ。青い空はどこも変わらず、しかし見たこともない赤と黄色の派手な鳥がチーチー鳴きながら飛んで行った。
「ミナ様!コルセットを付けてくださいとあれだけ申し上げたではありませんか!」
今日も侍女長の大きな声から一日が始まる。毎日毎日同じことを言われて直さないなんて小学生でもしないだろうけど、これだけは本当に無理だ。
「だって苦しいんだもん。そんなの着けてたら歩けない」
「そんなことありません。貴族の令嬢でしたら当たり前です!」
「私は令嬢なんかじゃありませんー」
「失礼するよ」
そんな言い合いをしていると横から声が割って入ってきた。慌てて二人で扉の方をみるとそこにはサディエさんが立っていた。
「何度かノックはしたんだが、聞こえてないみたいだから」
ごめんねと言いながらも彼は笑いをこらえきれないようだった。コルセット云々のやり取りを聞かれていたのだろうか。しまった……猫の一件以来、彼の前では極力お淑やかにするつもりだったのに。
「まあミナはこちらの常識にはまだ疎い。ゆっくり教えてやってくれ」
「はい。失礼いたしました」
侍女長は一礼して部屋を去って行った。今日はあの煩わしいコルセットから解放されるらしい。なんで貴族と言うものはあんなもので見栄を張りたがるのだろう。もとから平凡な体型の私がしたところで、焼け石に水なのに。
そんな私を察したようにサディエさんは、ミナはどんな格好でもかわいいよとにっこり笑顔つきで言ってくるのだから、彼に惹かれてしまうのもしょうがないことだとは思わないだろうか。
「そ、それより!今日はお客様が来る日じゃなかったの?」
「いいんだ。俺じゃなくても対応できる」
「あーまたウォルハルトさんに任せてきたんだ。いいのかなー。いつかウォルハルトさん嫌になって出ていっちゃうよ」
「それはないな。俺とウォルは仲良しだから。それに俺としては気をきかせてるつもりでもあるんだけどな」
サディエさんはどこか遠くを見つめながらそう答えた。サディエさんとウォルハルトさんはいつも一緒に仕事をしているし、お互いに信頼しあっているのが私でもわかる。しかしウォルハルトさんはどこか一線を引いている感じがあるようにみえるのだが、主人とその側近となると仲が良くてもそんなものなのだろうか。
じっと彼の横顔を見つめていると、こちらを向くや否や表情が一変し楽しそうに笑う。
「そんなことより、ミナの話を聞かせて。この間の続きの……デンシャとは何なんだ?クルマとは違うのか?」
先日サディエさんの国のことを教えてもらった後、私の国のことを知りたいと言われたので、聞かれるがままいろいろお話をしたのだ。しかし私はただの大学生。車が動く仕組みをそこまで詳しく説明できるかといえば、できない。だから本当に簡単に当たり障りのない説明をしたのだが、それだけじゃ満足されなかったらしい。
サディエさんはとても好奇心旺盛で、新しい知識を自らのものにしようとする意欲が高い。
「えっと……電車はレールの上を走る馬車みたいなものです。でも馬で引くのではなく、電気で走ります」
「デンキとはなんだ?」
「えー……テレビとか冷蔵庫とかを動かすもの……何って言われると、電子?」
サディエさんが首を傾げている。私も一緒に首を傾げたい。確かに小学生で習ったのかもしれないが、日常生活をしていて電気が何からできているなんて考えたことなかった。
「ごめんなさい。私ただの一般人なのでこれ以上は分かりません」
帰ったらちゃんと勉強しようと改めて思った。……だが私は帰れるのだろうか。ここへ来たのは突然のことだったが、帰るのも突然なのだろうか。それとも……もう私はここで一生を過ごすのだろうか。だったらずっとここにお世話になっている訳にもいかないのだから、何とかして自分で生きていく術を見つけなければいけない。でも私に何ができるだろうか。
ここ最近答えの出ない問題に悩まされている。
「そうか。でもミナの国は面白いものがいっぱいあるな。もし行けるのであれば俺も一度見てみたい」
もやもやとした考えを打ち消すようにサディエさんが楽しそうに言った。
「……そうですね!実際に見てもらった方が早いと思います。きっとサディエさんびっくりしちゃいますよ!」
彼の青い目が輝いているのを見て、年上なのにまだ見ぬものにわくわくしている姿はなんだか可愛かった。そうかと思えば、先日私室の窓から外を眺めたときサディエさんとウォルハルトさんが剣の稽古をしていたのだが、その姿がとても凛々しくて格好よく、窓に釘付けになってしまったのだ。
今まで剣で打ち合う所なんて見たことがなかったのだが、真剣な目つきで剣を振るう様子はまるで何かの舞を見ているようだった。結局どこがどうなったのかは分からなかったが、最後はウォルハルトさんがサディエさんの剣を跳ね飛ばして止まり、そしてお互いにがっちり手を握り笑うサディエさんはキラキラ輝いていた。
サディエさんは私にとても優しく笑顔で接してくれる。それは最初に私を見つけたものとしての責任があるから面倒を見てくれているのか。それは嬉しいことなのだが、それだけでは嫌だと思う自分がいる。もっとサディエさんの色んな顔を見てみたいと思うのは、やはり私がサディエさんのことを好きになりかけているからなのだろうか。
私は急いでいた。
先ほど侍女たちが廊下で話していたことは本当なのだろうか。本人に面と向かって聞く勇気はないが、もしかしたら彼だったら教えてくれるかもしれない。
甘い期待をしながら廊下の突き当たりの部屋の前で少し息を整え、ノックをしてから入室しろと彼に何度も怒られたため丁寧にノックをする。
返答があったのを確認して急いで扉を開けた。
「ウォルハルトさん、サディに婚約者がいるって本当なの?」
開けたと同時に聞きたいことが口から滑り出た。ウォルハルトさんは訪問者を確かめる為か、私の目の前にいて驚いたような表情をしていたが、しかし、まさか他にも誰かいるなんて思いもしなかった。
そう。本人にには聞きにくかったからここに来たのに、なぜ部屋の真ん中のソファーにサディが座っているのだろう。三者三様にぽかんとしていたが、一番我に返るのが早かったのはサディだった。
「くっ……」
笑ってはいけまいと思っているのだろう。必死で口を右手で抑えてはいるが、絶対に笑っている。目の前の彼は呆れたようにため息をついた。しょうがないじゃないか、どうしても気になってしょうがなかったのだから。
「お客様がいるかもしれないことをあなたは何故考えないのです?子どもでもそんなことしませんよ」
「すみません……」
「それに扉は自分で開けるものではありません。礼儀作法の勉強のときに習いませんでしたか」
「……はい」
返す言葉がない。ウォルハルトさんにはいつも怒られてばっかりだ。
「まぁそれぐらいにしてやって。そこまで急いで会いに来てくれたお姫様にはきちんと答えてあげなくちゃ」
まだ笑いの余韻が残っているのか、おなかを抱えながらサディがウォルハルトさんを止めた。
「本当にいいのですか?きっと悲しみますよ」
「あぁ。もう決めたことだ。心に嘘をつきながら生活するのは性に合わない」
「……分かりました。じゃあ、もう私も遠慮しませんので」
私の横をすり抜けウォルハルトさんは複雑そうな顔つきのまま部屋を出て行った。話が全く見えないのだけど、彼は誰を心配しているのだろうか。逆にサディは少しすっきりした様子である。
「ごめんね。お話の途中だったんでしょ?私が乱入しちゃったから、ちゃんと話せなかったの?」
重要な話だったのだろうか。私のせいで話し合いの結果があやふやな物になってしまったなら申し訳ない。
「いや。話はついたから大丈夫だ」
ウォルハルトさんのカップをどけて、サディ自ら紅茶を入れてくれる。廊下を走ってきたせいで案外喉が渇いていたため頂くことにした。何のフレーバーなのかは分からないが甘い香りがする紅茶で、少し落ち着くことができた。
でも本人に直接聞く勇気がないからここに来たはずなのだが、結局はこうなってしまっている。もし本人の口から婚約は本当だと聞かされたらどうしよう。絶対に立ち直れないし、そんな言葉聞きたくない。好きだと自覚したのも最近なのに、いきなり振られてしまうなんて悲しすぎる。
「あっ!そういえば、この間ウォルハルトさんにね、女性が好きなものは何かって聞かれたの。ちょっと驚いちゃって、だってウォルハルトさんだよ。あの物頂面で聞いてきたから、咄嗟にケーキとか甘いものが好きな人は多いと思いますって答えたの。そしたら、そうかって言ってどこか行っちゃって」
この場は何か適当なことを話して逃げてしまおうと考え、先ほど会ったウォルハルトさんの話を出して、話を反らそうとした。
「おや?お姫様はウォルのほうが好みなのかな?婚約の話を聞いて急いで会いに来てくれるぐらいは、俺のことを気にしてくれていると思っていたのだけれど」
「ち……ちが……そうじゃなくて!もしかしたらウォルハルトさん気になる人でもいるのかなって言いたかっただけ!」
あのときのウォルハルトさんは珍しく考え込んでいるように見えて、すごく印象に残っていたのだ。最初はもしかして私のために?なんて期待してしまったのだが、彼は私を呼び止めた時以外は、全く目線が合わなかったため、おそらく大切な人のことを考えていたのだろう。
「……そうか……遠慮とか言っておいて、もう攻めに入っているんじゃないか」
「……サディ?何の話?」
この話題の選択は間違いだったと思い、慌てて違う話題はないか考えていると、なんだか楽しそうなサディがよく分からないことを言っている。二人で剣の稽古の話でもしていたのだろうか。
そんなぽけっとした私の顔を見かねたサディが少しクスリと笑って、私の頭に手を乗せポンポンと撫でた。
「いいよ。全部ミナに教えてあげる。でもその前に、一つお願いがあるんだ。聞いてくれるか?」
「お願い?」
「そう。いきなりで悪いんだけど、明日一緒に会って欲しい人がいるんだ。ただし、ミナは決して一言も喋っちゃいけない。俺の横で笑って座っててくれればいいんだ」
それは突然で変わったお願いである。私を誰かに紹介するのであれば、私が喋ってはいけない理由とは何だろう。まさか令嬢らしくすることもできないから、お前は人形のようにしてればいいということだろうか。確かに礼儀作法の先生からは毎回呆れた眼差しで注意されているけれど。
「あぁ、それと俺が何を言い出しても驚かず、できるだけ俺に合わせて欲しい」
「はあ?そんな高度な技出来る訳ないよ」
簡単だろうと言わんばかりにさらりと追加で注文をつけ、紅茶を口にはこんでいるサディ。私は女優の真似等できないし、そんなアドリブがきくような器用な人間ではない。ぼろが出るのは目に見えているため、口を開こうとする。
「お願いだミナ。君にしか頼めないことなんだ。これが終われば片が付く。全てが丸く収まるんだ。今は何も聞かずに頼まれてはくれないだろうか」
「……私しかできないこと?」
「あぁ。そうなんだ。ミナに断られたら身動きが取れなくなってしまう。ミナしか頼れないんだ」
「……分かった。いいよ、やるよ。サディの横に座って黙ってにこにこしてればいいんでしょ?」
少し投げやりになって答えた。だってあんな真剣な顔つきで頼まれてしまったら断れるはずがないし、そうでなくとも好きな人の力になってあげたいと思うのは恋する乙女なら普通のことだ。自信はないがサディが横にいるなら何とかなるような気もしてきた。
「ありがとうミナ」
ほっとしたように朗らかにサディが笑いかける。しかしながら婚約の件から話題を逸らすことには結果的に成功したのだが、なんだかはぐらかされた感があるのは気のせいだろうか。サディの奇妙なお願いも気になることだし、明日サディは誰と会うのだろうか。
「あぁそれと、明日はコルセットからは逃げられないからね」
……引き受けなければよかったとすでに後悔しそうである。
「ちょっとサディ説明して!婚約者ってあの人なの?婚約破棄って何?私と結婚するってどういうことよ!?」
今までいた部屋をサディと一緒に出て、扉を閉めた瞬間を見届けた後、私はサディに詰め寄った。
昨日お願いされた通り、私は苦手なコルセットを締め、上品なドレスに着替え、サディの横に座っていた。しかし彼らがそこでしていた会話は思いがけない内容で、何故私がこの場にいるのか全く分からなかった。しかしその後自分の名前が出てきた時は、全く身に覚えのないことばかりで頭の中はパニックだった。
どういうことだと隣にすぐにでも問いただしたかったが、昨日約束した通りほとんど身動きせず、表情も少しは引きつってたかもしれないが口角を上げたままを保てたと思う。俺に合わせろと言ったのはこのためだったのか。
「場所を変えよう。ここでは話せない」
少し厳しい顔つきでサディは歩いていく。それにしてもあの女性がサディの婚約者だなんて。一度彼を探して屋敷内を歩いていた時に、ウォルハルトさんと一緒にいるのを見かけたことがあり、仲が良さげに見えたのだが、まさかあの人がサディの婚約者だったとは。自分とは正反対なお淑やかそうな美人さんだった。あれが貴族の令嬢というものなのだろう。
自分とは比べ物にならないなと少し悲しくなっていると、サディの私室に着き、彼は入室を促した。外にいる侍女に人払いを頼み、自身も中に入り扉を閉める。
「今日のことは申し訳なく思っている。何も言わずあのような場所に同席させてしまったことを許してほしい」
扉の前で立ったまま彼は謝罪した。
「……説明して。全て。全部よ。こうなった以上私も当事者よ。知る権利があるわ!」
「ああ。そうしよう。でも先に一つだけ言わせてくれ。あの場所で話したことは全て俺の本心だ。嘘偽りは一つもない。だからミナのことを愛していることも、ミナと結婚したいと思っていることも全て真実だ。そこは分かってくれるだろうか」
説明しなければ許さないとばかりに息巻いていたが、次のサディの言葉で私の身体から全ての感情が取り除かれたように、考えが停止してしまった。
今彼は何と言った?あの言葉は本当だった?あの場所で彼女に語ったことには嘘がない?それでは本当彼は私のことを……?
「……っ……でもっ、じゃあなんで事前に教えてくれなかったのよ!言ってくれれば私だって――」
「ミナはきっと反対するだろう。優しい君ならローシェリアのことを思って、悩むはずだ。自分が幸せになるのを引き換えに一人の女性が辛い思いをするなんて、とね。……勝手なことをして悪いと思っているよ。でも俺の都合でミナを悩ませたくなかったんだ」
「そんな勝手なこと……でも結果的にあの人を傷つけてしまった」
自分の意志ではないが、結局は彼女に悲しい思いをさせてしまった。もし私がその立場だったら辛すぎて何もかも嫌になってしまうだろう。もしかしたら自分で命を絶ってしまうなんてことにはならないだろうか、貴族の令嬢というものは繊細でガラスのようだと誰かが言っていたから。
「いつかは言わなくてはいけなかったんだ。このままずるずると婚約関係を続け、結婚したとしても誰も幸せになんてならない。そんな顔しないで。きっと大丈夫。彼女にはあいつがついてる。あいつなら彼女を大切にするよ。これ以上傷一つつけないように守ってくれるさ」
「……あいつって?」
「ウォルだよ。俺とローシェリアの婚約が決まった時のウォルの顔は今でも忘れられないな。普段は澄ました顔をしてるあいつが、この世の終わりみたいに青ざめていたから気になって色々調べさせたんだ。完全にあいつの片思いだったみたいだがな」
その時を思いだしているのか、苦笑ぎみに彼は言う。
「だからあいつに任せておけば大丈夫だ。全てうまくやってくれるさ。……それよりもお姫様、俺は君に求婚したわけだけど、その返事はいつもらえるのかな?」
いつの間にか一歩近づいていたサディが、私の手を取り甲に唇を寄せた。
「ま……まだ全部話してもらってない!これからどうするの?本当にこれで婚約は無くなっちゃったの?私、これからどうやって――」
「先にこっち」
握られていた手と反対の手が、私の頬に添えられた。急に近くなる距離に、反射的に下を向こうとしたが、彼の手がそれを阻止する。美しく輝く青い瞳がしっかりと私を捕らえている。
「……好きだ。もうミナのことしか見えない。だから俺と一緒に生きて欲しい」
サディの気持ちが真っ直ぐに心に響いた。彼は今まで培ってきた全てを捨ててでも私を選ぼうとしている。本当にそれでいいのだろうか、私にそんな価値があるのだろうか。今日のこの時の選択を彼が後悔する日は来ないだろうか。
「わたし、私……サディの隣にいてもいいの?貴族でもない、この世界の人じゃないんだよ」
「いてくれないと困るな。こんな一緒にいて心地よくて楽しいミナをもう手放せないから」
握られていた手を離され、彼の両手が頬を包んだ。暖かく大きな手が大丈夫だと言ってくれている気がして、初めてこの世界にきて心から安心できる温もりを与えられたようだった。私もこの人を手放すことなんて出来ない。
「私も好き。最初に会ったときから多分好きだったの。あなたと一緒に生きていきたい」
心に秘めた気持ちとともに、涙が一つこぼれた。気持ちが通って嬉しい涙だと今は思いたかった。
「ありがとう。ミナ」
彼の額と私の額がこつんと触れ合い、私達は微笑んだ。
次の日サディは父親である伯爵にローシェリアとの婚約破棄、私との結婚を認めてもらおうと話をしたが、やはり頑として聞き入れてもらえなかったそうだ。それはそうだと思う。いきなり出てきた何の教養もない女に跡取り息子を取られるなんてことはあってはならない。
サディは頭がいいからそれは十分承知のはずだが、今後どうするつもりなのか。不安に思う気持ちが顔に出ていたのだろう。頭をポンポンと優しく叩き彼は言った。
「反対されるのは最初から分かっていたことだ。俺が欲しかったのは父に請願したという事実さ」
「……でもお父さんに認めてもらわないと婚約は取り消せないんでしょ?このままだと私達どうなるの?」
漠然とした焦りが心を支配する。伯爵家にとっては私は邪魔な存在でしかないのだから、もしかして追い出されてしまうのだろうか。
「言っただろ?俺と一緒に生きるって。ここで幸せになれないなら、どこか違う場所、誰も俺のことを知らないところへ行こう」
「……いいよ。サディと一緒ならどこでも行く。どこへ逃げるの?南?西?私まだここの地理はあまり詳しくなくて……北はまだ寒いのよね。だったら――」
「この世界じゃない、ミナの世界へ一緒に行こう」
私の世界?……何を言っているのだろう。こんな時に冗談は止めてほしいとサディの顔を覗き見るが、その顔は険しく冗談を言っているようには思えなかった。それでは彼は本気で私の世界へ逃げようと言っているのだろうか。いや、無理だ。そんなことできるはずはない。
「だって……私帰り方分からないもん。なんで落ちてきたのかも分からないし、どうやったら帰れるかも、私知らないし!」
暗闇に落ち、ベットで目覚めるまでの私の記憶は全くない。何故私がこの世界に来たのか、何のためにここにいるのか全く分からないのだ。そんな状況でどうやって帰ることができるだろうか。
「それは……また俺はミナに謝らなくてはいけないな」
小さくため息をつき、彼は話を続ける。
「……本当はあの日、ミナが落ちてきた時、空から声が聞こえたんだ。この子を暫く預かってほしい、次の次の満月に帰路への扉を開こう。それまで丁重に預かるようにってね。最初は信じられなかったんだが、ミナは本当に違う世界から来た子だった。だから落ち着いたら話そうと思っていたんだ。しばらくしたら帰れるから安心してって。……でも俺は言えなかった。なんでか分かる?」
私は首を横に振った。
「言ったらミナは帰ってしまうだろう。初めて大切にしたいと思った人なのに、この手の平からすり抜けてしまうなんて耐えられなかったんだ。だから卑怯だと思ったが、言えなかった。寂しくて悲しくて夜泣いているミナを知っていたのにね。……ごめん。でもそれは間違っていた。ミナにはこの世界は窮屈すぎる。ミナは元の世界へ帰るべきだ。そして……俺もミナの世界をミナの隣で見てみたいんだ。一緒に連れて行ってほしい」
「え?……ちょっと待って。話が急すぎて……」
初めて聞く話に、頭の中を整理しなければ混乱してしまうようだった。内緒にしていた云々は、結局は話してくれたんだから、とりあえず今は良しとしよう。
しかし最後の一言はどういうことなのか。私が落ちてから2回目の満月に帰り道が開けるのは分かったのだが、その声は誰なのか、信用していい話なのか、詳細が全く分からないのに、どうやったらサディも一緒に帰ることができるのだろう。
「……そんなことできるの?サディも一緒に私の世界へ行くなんてこと、本当にできるの?」
「さあ?どうかな。一緒に手をつないで飛び込めば案外何とかなるかもよ」
「飛び込むの!?そんな簡単に言わないで!もし……もし失敗したらどうするのよ!私だけ元の世界に戻るなんて嫌よ!それにその話が本当だという証拠でもあるの?」
「でもここの世界に留まるというのなら、俺たちは別れさせられてしまう。駆け落ちして他国へ逃げる手もあるけど、男爵家の包囲網に引っかかるのが落ちだな。あまりお勧めはできない。だったらひとつ賭けに出てみないか?ミナの住む世界なら俺たちが結ばれるには何の問題もないのだろう?」
「そんな……」
まるでそれも計画の一部だったのかのようにスラスラと話すサディについて行けず、呆然としてしまう。
「なんだったら離れないように両手両足縛っておく?」
こんなときに冗談めいたことも言う彼は、もうそれしかないと心に決めているようだった。
「いつなの?2回目の満月って」
「明後日。どう扉が現れるのかは分からないが、おそらくはミナが落ちてきた池が怪しいと見当をつけている」
「……本当に、本当にそれしか方法がないの?ここに残る選択肢はもうないの?」
「そうだね。これも俺の事情で申し訳ないんだが、俺が伯爵家から消えた方が都合良く事が運ぶんだ。兄貴っぽいこと、なんもしてやれなかったからな」
「兄?」
誰のことを言っているのだろう。そして彼が伯爵家にいない方がいい事情って何なんだろう。彼は先日全て話してくれると言ったのに、まだ何か隠し事があったみたいだ。そんな恨めしそうな視線に気づいたのだろう。彼が苦笑しながら私の頭を撫でた。
「ミナの世界に行けたら教えてやるよ。伯爵家の重大な秘密だからな、安易にここでは話せないんだ」
「……絶対よ?一緒に私の世界へ帰るんだから」
「ああ。約束だ。大丈夫、デンキが何からできているのかこの目で見ないことには気が済まないから」
「見たって分かんないわよ。だって色も形もない――」
私を安心させるため、冗談交じりで笑顔を見せるサディに反論しようとしたが、彼の人差し指がそれを遮った。それは後で聞くからと言って、私は彼の腕の中に閉じ込められる。まるで現実から目を背けるかのような強い力だった。
明後日、もし元の世界に帰れたら彼はどうやって生きていくのだろう。向こうの世界の一般常識も何も知らない彼に何から教えればいいのだろうか。……バイトもう一つ増やさないときついだろうか。
彼の腕が少し緩み、額に彼の唇が降ってくる。……まあそれは本当に帰ることができた後に考えよう。
今はこの腕の中で彼の温もりだけを感じていたい。
伯爵家の恋愛事情はこれで完結となります。
読んでいただきありがとうございました。