第2話
「最新の情報によりますと、昨夜十月二十四日、西武ホテルを爆破……破壊した容疑者・萩原篤は、現在も逃走中であり……」 「じゃあ、お姉ちゃん先に行くね、日より」
「いってらっしゃい……ふわぁ……」 朝食を終えて二度寝に戻ろうとする妹を見送り、みなみは苦笑しながらテレビを消し、靴を履いて玄関から外へと出た。
山の中腹に佇むこの古びた神社にも、秋が訪れていた。色褪せた鳥居から石畳の参道、青苔の生した手水舎に至るまで、至る所に鮮やかな橙色の紅葉が散っている。普通の人にとっては風情ある情緒的な景色だろうが、この神社みなみにとっては、ため息の種でしかない。
「朝にも掃いたばっかりなのに……」参道の脇に溜まった落ち葉の山を見つめ、みなみは小さくため息を漏らした。「ちょっとだけ掃き直すか」
少女は道端に立てかけられていた箒を手に取り、散らばった落ち葉を丁寧に両脇へと掃き寄せた。終わると、鳥居近くの手水舎の脇に箒を立てかける。境内をぐるりと見渡し、帰ってきたらちゃんと掃除しようと心の中で呟き、その場を離れようとした。
バタッ。
なぜか、数歩歩いたところで箒が倒れる音がした。自分の不注意で立てかけ方が悪かったのだろうと思い、戻って理想的な傾斜で立て直す。水槽の縁にしっかりと寄りかかっているのを確認し、満足そうに頷いて再び歩き出した。
バタッ。
またしても、幾何学的に完璧な角度だったはずの箒が倒れた。奇妙に思いつつも、みなみは今度は手水舎の東屋の脇に箒を横にして直置きした。これなら絶対に大丈夫だと確信し、踵を返して境内を出ようとした。
ボスッ。
今度は、みなみの疑念に満ちた目の前で、箒が参道の真ん中に向かって放り投げられた。 「は……何これ……?」
ここに至って、ようやく彼女は何かが決定的におかしいと気づいた。そして、その不穏の元凶はどうやら手水舎の裏に隠れているらしい。みなみはごくりと唾を飲み込み、ゆっくりと手水舎へ近づきながら素早く箒を拾い上げた。柄を両手でしっかりと握り、野球のバットのように構える。
東屋の裏に回り込むと、鳥の巣のようにボサボサとした黒い塊がゆらゆらと揺れているのが見えた。いたずら好きの小動物か何かだと思い込んだ彼女は、脅かして追い払おうと手水舎の縁に箒を軽く叩きつけた。
「ぐあぁぁぁっ!」
響き渡った叫び声に驚き、みなみは思わず箒を取り落とした。直後、彼女の“愛の一撃”を食らった一人の男が、地面へと崩れ落ちた。 「あ……えっ……なんで……」
地面に倒れた男を見下ろし、みなみは言葉を失って口籠もった。何か言おうとしたが、男の凄惨な姿に言葉を遮られる。破れ、汚れきったワイシャツからは無数の大小さまざまな擦り傷が覗いており、それどころか、脇腹には黒ずんだ大きな血痕がべっとりと広がっていた。みなみの一撃のせいで、ただでさえ酷かった傷口がさらに悪化したようだった。
なぜこんな男がここに? なぜこんな重傷を? そしてなぜ、さっきから箒を投げつけていたのか?
「ダメダメ!」
みなみは両頬をピシャリと叩き、問いただそうとする思考を振り払った。今はそんなことを聞いている場合ではない。彼女は慌ててスマートフォンを取り出し、長い爪で画面のテンキーをカチャカチャと叩いた。発信ボタンを押そうとした、その時――。
「呼ぶな……救急車は……呼ぶな……病院も……だめだ……」 「え? でも……」
男が弱々しく伸ばした腕が力尽きて落ち、整った顔立ちが冷たい参道の石畳の上でぐったりと沈んだ。みなみは目の前で意識を失った男を無言で見つめた。スマホの画面も、省電力モードに入ってふっと消える。乾きかけていた男の傷口から再び血が滲み、顔から赤みが引いていく。
自分のせいだ。自分が彼をこんな状態にしてしまったのだ。 「うぅ……」みなみは眉をひそめた。
ほんの一瞬の躊躇ののち、みなみは男の腕を自分の肩に回し、渾身の力を込めて近くにある神社の物置小屋へと引きずっていった。着ているピンクのカーディガンに血がべっとりと付着するのも構わず、この男の命のほうが先決だと、みなみは自分に言い聞かせた。
境内の一角にひっそりと佇む、粗末で小さな物置小屋。重い足取りでそこへと辿り着き、みなみは扉を勢いよく押し開けた。風雨を耐え忍んできた埃が、容赦なく宙に舞い散る。
崩れかけの段ボール箱の山や、床に散乱するガラクタに素早く視線を走らせ、先祖代々の古文書が詰まった本棚の前で足を止める。少し申し訳ない気もしたが、意識を失った男を棚の側面に寄りかからせて座らせた。老朽化した薄い床板が、ギシッと軋む音を立てる。それから、みなみは急いでスクールバッグを開け、もう使うこともないだろうと思っていたある物を取り出した。
「ふぅ、持っててよかった……」 カバンから取り出したのは、家庭用の応急手当セットだった。
迷っている暇はない。彼女は荒い息を繰り返す目の前の男の処置へとすぐさま取り掛かった。まずやるべきことは、当然、その汚れたシャツを剥ぎ取ることだ。
「あっ……」
見知らぬ大人の男の裸体を目の当たりにして、みなみは一瞬だけ動揺した。しかし、唯一の小窓から差し込むかすかな光に照らされた腹部の酷い傷跡が目に入ると、少女としての恥じらいを力づくで振り払い、手に持った消毒液のフタを開けた。
「がッ……!」
垂らされた消毒液が、内臓まで焼き焦がすような激痛をもたらし、男の朦朧としていた目をカッと見開かせた。同時に、その激しい身じろぎによって背後の本棚からいくつかの物が床に落ちた。
「動かないで!」
身を起こそうとした男は、即座にみなみによって押し倒された。その一喝だけで、男は完全に身動きを止めた。黒々とした瞳で、腹の傷の手当てに専念する少女を見つめる。何か言おうとしたものの、まともな文章を紡ぐ気力すら残っておらず、ましてやこの少女と言い争う余力などないことを悟った。
いつの間にか、みなみは救急箱に入っていた包帯をすべて使い切っていた。幸いにも、脇腹の大きな傷を除けば、男の傷は小さな擦り傷ばかりだった。救急箱の隅に小さな絆創膏の箱を見つけたみなみの脳裏に、ふと名案がひらめいた。
しばらくして、手当てはようやく完了した。焼けるような痛みが引いていくのを感じ、男はおずおずと体を起こした。自分の両手を見下ろし、腹部、そして足へと視線を移す。
「これ……何だ?」男は困惑した声で尋ねた。 「見ればわかるでしょ、手当てしたの!」
綺麗に処置された脇腹の傷を除いて、他のあらゆる場所には絆創膏が何重にもびっしりと重ね貼りされていた。場所によっては、どこが自分の指でどこが可愛い猫のイラストなのか判別すらつかない有様だ。男は小さく息を吐き出し、現状を受け入れた。床に散らばった道具を片付けている制服姿の少女を見やりながら、心の中で密かに察する。
――これが田舎流の手当てってやつか。
「コホン!」落ち着いた男を見て、みなみは咳払いを一つした。「落ち着いたみたいだし……あんた、ここで何してたの?」
立て続けに起きた出来事のせいで、男はどこから話したものか分からず、ただ顔を伏せて沈黙を守った。それを見たみなみも、無理に問い詰める気にはなれず、軽く首を振ってそれ以上追及しなかった。
「そこで休んでなよ。あたし、これ片付けるから」そう言って、男が驚いた拍子に落とした散乱物に手を伸ばした。
手持ち無沙汰になった男は、小屋の中を見渡した。天井には大小の穴が開き、無数の祭具が埃にまみれている。それらの中で特に目を引いたのは、ほとんど覆い隠され、端っこしか見えない大きな絵画だった。褪せた墨の跡からして、相当古い年代のものだと推測できる。古文書や絵画が虫食いに遭っていないという妙な点を除けば、あとは一つの確認を残すのみだった。
「ここ、どこだ?」男がみなみに尋ねた。
「京都の嵐山エリア」みなみはあっさりと答えた。「あんたが座ってるのは、神社家が管理してる秀鶴大神神社の物置。あたしは神社みなみ……ゴホッ、ゴホッ!
埃っぽすぎでしょ……」 文字通り埃混じりのみなみの返答を聞き、男はしばし押し黙って物思いに耽った。 「やっぱりな……」男がポツリと漏らした。
自分が不審がられていると察した男は、咄嗟に愛想笑いを浮かべて取り繕った。
「あー、名字が神社なら、神社の巫女さんってわけか!
どうりで立派な人だと思ったよ。死にかけの俺なんかを助けてくれるくらいだしな……」感謝を示すように頷いてみせた男だったが、ふと何かに違和感を覚えたように首を傾げた。「……巫女?」
男はまじまじとみなみを観察した。やはり、何かがおかしい。彼の知る巫女といえばもっと質素な格好をしているはずで、こんな派手なわけがない。ましてや、金髪のド派手な頭に赤いメッシュなんて入れているはずがなかった。例えるなら、むしろ――。
「ギャルじゃねえか」思わず本音が口から漏れた。 「ふん……あんたに関係ないし」
みなみは否定も肯定もせず、ぶっきらぼうに答えて最後の巻物を空いた棚の奥へと押し込んだ。その冷たい反応に、失礼な発言を取り繕おうとした男は気まずそうに目を逸らすしかなかった。
それから、しばしの静寂が流れた。みなみはその隙にスマホを取り出して何かを確認し、男はその間に現状を整理していた。みなみの吐息のようなため息を聞き、男はふと何かに気づいたようにハッと目を見開き、急いで立ち上がろうとした。
「ぐっ!」
全身の傷から走る激痛が、立ち上がろうとした男を容赦なく叩き伏せた。勢いよく尻餅をついたその下敷きになり、潰れた段ボールの下にいた一匹のアリが哀れにも命を落とした。
「何無理してんの!? 傷が開いたらどうすんの!」
再び、みなみの不本意な看病によって、滲み出た血が手際よく包帯で締め上げられた。危機が去ると、みなみはホッと胸を撫で下ろし、少しトゲのある声で文句を言った。
「まったく……自分がどれだけの重傷か分かってんの? 怪我人のくせに意地張っちゃってさ」 「いっ、痛たたた! わかった、わかったから!」
痛みに歪む顔と、哀愁すら漂う必死の命乞いを聞いてようやく、みなみは腹の傷を締め上げる手を緩めた。同時に、その剣幕も幾分か和らいだ。
みなみはふと視線を落とし、男の腹部を凝視した。先ほどの気恥ずかしさが再び湧き上がってくる。はだけたままの男の胸板を少々長く見つめすぎていたことに、彼女は数秒遅れて気づいた。男自身は気にも留めていない様子だったが、みなみは恥ずかしさを誤魔化すように視線を逸らし、何気なく尋ねた。
「そ、その傷……なんでそんなことになったの?」
隠しきれない照れくささが声に滲んでいた。何気なく口をついて出た質問だったが、彼がなぜここへ来たのかを解き明かす手がかりにはなるはずだった。
満身創痍の男は自分の腹部に手を当て、脇腹に初めてあの痛みが走った瞬間のことを思い出していた。致命傷ではないとはいえ、普通の包帯で治るようなものではない。
男は目を伏せ、迷うことなく答えた。 「崖から落ちたんだ」 「……マジで?」 「マジだ」
みなみは疑わしげな眼差しを向けた。信じたい気持ちと、疑う気持ちが半々だった。しかし、自分が手当てした傷跡を改めて見下ろすと、疑いの天秤は少しずつ信用の方へと傾いていった。
はっと何かを思い出したように、みなみはスマホを取り出して時間を確認した。彼女の小さいため息に混じる憂鬱さを、男は見逃さなかった。
「真面目な優等生サマが、サボり常習犯になっちまうな」制服と今日の日付から、男はすぐに状況を察した。
「あんたみたいな奴を助けたせいで遅刻したんでしょ! 何その言い草? あぁん?」
「あぁん?」と語尾を尖らせ、みなみは禍々しいオーラを背負って男をギロリと睨みつけた。
「じ、冗談だって! ただの世間話!」男は慌てて弁解した。
口を閉じたものの、彼女の放つ殺気が完全に消えるまでには数分を要した。男は額の汗を拭い、腹の包帯を押さえながら胸を撫で下ろした。
みなみはもう一度スマホに目を落とし、親友からの心配のメッセージと警告通知を見て苦笑いした。彼女は立ち上がり、プリーツスカートについた床の埃を払いながら言った。
「まあ、遅刻したならとことん遅刻してやるわ。山を降りて、あんたを病院に運んでくれる人がいないか見てきてあげる」
そう言い残して小屋の出口へと向かい、本殿の隣にある離れの方を窺おうとした。男が「病院」という単語を聞いて押し黙ったことなど気にも留めずに。みなみが自信満々に扉の外へと踏み出そうとしたその時、ようやく我に返った男が、どこか自嘲気味な笑みを浮かべて気だるげに声をかけた。
「無理だよ。病院には……行かない。正確には、行けないんだ」
みなみは足を止め、壁に力なくもたれかかる男を振り返った。全身傷だらけで、下手をすれば死ぬかもしれないというのに、さっきまで必死に立ち上がろうとしていた男は、もはや指一本動かそうとすらしていなかった。
その笑みには微塵の幸福感もなく、むしろ底知れぬ絶望が漂っているように見えた。それを見たみなみの心は、無意識のうちにほだされそうになった。しかし、彼女は気を取り直すようにスクールバッグの持ち手をギュッと握り締めた。
「あんたさぁ……病院に行かなきゃ立つことすらできないんだよ? それにその傷だって……あたしのせいでもあるし……」
みなみが自分を責め始めるよりも早く、男は重い口を開いてひとつの名を口にした。
「アツシ。萩原篤。……聞き覚え、ないか?」
その名前を、みなみが忘れるはずもなかった。ついさっき、ニュースで目にしたばかりの名だ。報道されていた指名手配犯の姿は、驚くほど目の前の男の特徴と一致していた。
鳥の巣のように乱れた黒髪に、整った端正な顔立ち。すらりとした高身長の体躯。大都市で見かけるようなイケメンの容姿そのものだ。だが、普通のイケメンはホテルを一棟まるごと吹き飛ばしたりはしない。
「ホテルをまるごと爆破したっていう、あの指名手配犯……?」みなみはおずおずと聞き返した。 「そう。どうだ? 俺の実績、なかなか派手だろ?」
みなみはしばらく考え込んだ。今朝のニュースによれば、彼が背負う賠償額は何十億円にも上るらしい。そして彼がなぜここにいるのか、理由はあまりにも明白だった。みなみの小さな手は、さらに強くバッグの持ち手を握りしめた。
――犯罪者……懸賞金……。
いつだってそうだ。重罪犯には賞金や実績がつきまとう。特に大企業や有名グループが絡んでいるとなれば尚更だ。みなみは後者には興味がなかったが、求めているものはすでに頭の中に鮮明に浮かんでいた。
ふと、アツシの手に雑に貼られた可愛らしい絆創膏が視界に入った。思い出した。こいつはさっき、自分のことを「ギャル」呼ばわりした奴だ。他人に言われ慣れているとはいえ、なぜかこの男の口から出た言葉には無性に腹が立った。
「……あたしは応急手当をしただけで、その傷を全部治す魔法をかけたわけじゃないから!
病院には行ってもらうからね。それと、よく覚えときなさい……」みなみは胸に手を当て、威風堂々と告げた。「あんたを助けたのは他の誰でもない!
尊く清らかな巫女、この神社みなみ様なんだからね!」 「…………」
渾身のドヤ顔宣言の後に返ってきたのは、アツシの冷めたような、じっと見つめる視線だけだった。そして次の瞬間、彼女の恥の神経が一気に稼働した。
(あたし、今何言ってんのぉぉぉ!? なんでこんな下らないことをドヤ顔で宣言しちゃってんの私バカバカバカ!)
彼女は両手で顔を覆い、くるりと背を向けて猛烈なセルフ尋問を始めた。
一方のアツシは、みなみの壮大な宣言を受け流し、顎に手を当てて考え込んでいた。「傷を全部治す……」その言葉が、混乱していたアツシの思考を刺激した。そして即座に、ひとつの最善策を導き出した。
「なぁ神社ちゃん、ノートパソコン持ってるか?」 アツシはどこか嬉しそうな顔でみなみに尋ねた。 「も、持ってたとして、何する気?」
赤くなった顔を必死に隠しながら、みなみの脳裏にとある疑惑が閃いた。彼女は足元にあった木の棒をひっつかみ、腰を引かせながら構えた。
「ま、まさか強盗する気じゃないでしょうね!? 助けてあげたのに強盗する気なの!? この恩知らずの恥知らず!」
みなみは手に妙な痒みを感じた。見ると、握りしめた木の棒は埃の塊のようになっており、中には丸々と太ったシロアリがうごめいていた。
「ぎゃあああっ!」叫び声を上げ、彼女は棒を放り投げた。 「想像力豊かすぎるだろ……」
シロアリが這い回る木切れが転がるのを見て、アツシは苦笑いした。そして、ひらひらと手を振って否定した。
「仕事だよ、仕事。仕事に使うんだ」 「破産したくせにまだ働こうっていうの? 資本主義の奴隷乙って感じね」みなみは少し哀れむような声で言った。 「おい!」
アツシは言葉を飲み込んだ。このまま言い合っても得は何もない、下手をすれば自分が不利になるだけだと気づいたからだ。彼は息を吸って吐き、冷静さを取り戻した。腹部はまだズキズキと痛んだが、精神を統一する邪魔にはならなかった。
「要するにだ、絶望的な借金を返すためにあがこうって話じゃない。俺が言ってるのは、こいつを治すための仕事をするってことだ」アツシはまだ痛む脇腹の傷を指差した。「そのためにノートPCが必要なんだよ」
みなみは首を傾げた。「仕事してなんで怪我が治るの?」そんな難問を自問自答し、やがて思考は振り出しに戻った。 「ちょっと待ってよ!
そもそもあんたがPCでどんな仕事するわけ? それに、あったとしてなんであんたに渡さなきゃいけないのよ!」
「ふっ」アツシは鼻で笑った。「理由、一つずつ並べてやろうか?」
みなみがまだ躊躇し、譲歩しようとしないのを見て、アツシは箒で殴られる前に目に焼き付けた光景を並べ立てた。
「参道の両脇は雑草だらけ、神社はデカいのに巫女は手薄、手水舎は苔まみれで、落ち葉すらろくに掃かれてない。おまけにこの物置小屋は……」
二人の視線が、さっきみなみが投げ捨てた木の棒に注がれた。今やその表面は、立派に育った元気いっぱいのシロアリで埋め尽くされている。それが動かぬ証拠だった。
「ゴホン!」アツシは咳払いした。「まだまだあるぞ――」 「や、やめて!」
無情すぎる残酷な現実に打ちのめされ、みなみは両手を前に突き出してその小言を遮ろうとした。悔しさを滲ませた顔で訴える。
「そんなの直すお金があるわけないでしょ!
あんたに何がわかるのよ……」そこまで言って、彼女は当たり前の事実に気づいた。「っていうか、“犯罪者”のあんたが偉そうに何言ってんの!?」
アツシはため息をついた。この巫女の言うことは何一つ間違っていない。だが、彼は好機を逃さないしたたかな男だった。絆創膏だらけの無様な手をみなみへと差し出し、彼は朗々と取引を持ちかけた。
「ここに俺を匿ってくれ。俺の能力を使って、この神社を存続させる手助けをしてやる。長居するつもりはない。神社の状況が好転したら、潮時を見て勝手に出ていくよ。どうだ?
取引として悪くないだろ」
一人は光の中に立ち、穏やかな日差しと涼やかな風を浴びている。もう一人は傷を負って闇の中に座り、光の中にいる者の持ち物である朽ちかけた小屋の、湿った空気に耐えている。
にもかかわらず、アツシは堂々と取引を持ちかけてきた。根拠など何一つない。男自身もボロボロだ。しかし、アツシの表情には確固たる自信が満ちており、まるで全てを託してもいいと思わせるような気迫があった。
この取引に乗るべきか? こいつはどうやって問題を解決する気なのか? 「好転する」って具体的にいつの話だ? 「長居しない」っていつまで居座る気だ?
そもそも犯罪者なんて信用できるのか? ていうか、今日の授業何コマ遅刻したっけ……?
無数の思考がみなみの頭の中を跳ね回り、とても正しい判断など下せそうになかった。
「俺を突き出して懸賞金でも貰う気か?」アツシが不意に口を開いた。声は掠れていたが、その瞳は鋭く、彼女の内心を見透かしていた。「通報するならすればいい。その金でありつけりゃ数ヶ月は凌げるだろうな。だが、その先は?
このボロ神社で金が尽きたら、お前と家族は何を食って生きていくんだ? でも、俺を匿えば……少なくとも食うに困る生活からは抜け出させてやるよ」
見知らぬ男の言葉の一つ一つが、彼女の残酷な現実に容赦なく突き刺さる。彼は危険な犯罪者だ。匿うということは共犯者になることを意味し、一歩間違えれば自分の人生すら破滅しかねない。
みなみは本気でスマホを手に取り、警察に通報すべきか葛藤した。それでも通報ボタンを押せずにいるのは、アツシの言葉が無情ながらも正論だったからだ。彼女だって、冬が来るたびにカチカチに硬くなったパンをかじる生活に頭を抱えたくはなかった。それでもまだ手を差し伸べられないのは、幼い頃から叩き込まれた道徳と家祖の教えがブレーキをかけているからだ。
ヒュゥゥ……。
物置小屋の隙間から吹き込んだ風の音が、みなみの意識を現実に引き戻した。どれほど信心深い人間であろうと、生きて祈り続けられなければ何の意味もない。そして、賽は投げられようとしていた。いや、正確には、博打を打つためのチップが置かれようとしていた。
「……ねえ」念のため、みなみは慎重に問い質した。「神社の財政難を解決するって言うけど、どうやって? お金なんて空から降ってくるわけじゃないんだし」
「ふっ」それを聞き、アツシは不敵に笑った。「『株』って聞いたことあるか? それだよ」
株、という単語なら、みなみもタブロイド紙やニュースで耳にしたことはあった。しかし、それは即座に別の疑問へと繋がった。
「株なら知ってるけど……それってギャンブルと変わらないじゃん! そんなリスクの高いもの、信用できるわけないでしょ……」
口ではそう言いながらも、彼女の心のどこかでは、これから挑もうとしている賭けに対する微かな希望が芽生え始めていた。大層な言葉なんて求めていない。ただ、彼が約束したことを信じるための、確かな拠り所が欲しかった。
「大丈夫だ、なんとかなる」アツシは小さく頷き、包帯が巻かれた自分の腹部を見下ろした。「万が一株でコケたとしても、内臓を売っ払える闇サイトを知ってる。自惚れるわけじゃないが、俺の腎臓の片方くらいなら結構な値が――」
「バカ言わないで!」みなみは大声で男の言葉を遮った。「そんなの絶対にダメ!」
闇サイトがどんなものかも知らないし、男が誇らしげに語る腎臓がいくらで売れようが知ったことではない。ただ「内臓売買」という不穏すぎる言葉を聞いただけで、彼女の怒りと義憤は頂点に達した。
「ダメ?」アツシは声を低くして返した。「じゃあどうすんだよ。俺は犯罪者だぞ、お尋ね者なんだよ。お前と取引できなきゃ、外に出たとこでどうせ捕まってムショ送りだ。それに比べたら、腎臓の一つ売るくらいどうってことないだろ」
「だからって、そんなことしちゃダメなものはダメなの! そんなの……間違ってる!」
みなみは自分の信念をぶつけようとしたが、自身の感情論が、アツシの最悪だが現実的な論理の足元にも及ばないことを痛感させられた。こうして、二人の会話はいとも簡単に暗雲立ち込める袋小路へと迷い込んでしまった。
「……はぁ」どこかでネズミの鳴き声のような音が響いた時、ついにアツシの方が先に折れた。「もし株がダメだったら、病院に行って自分で手錠をはめるよ。共犯の件は心配すんな、お前のことは絶対に吐かない。これは約束する。……それでもダメなら、俺を森に放り出して、野垂れ死にさせてくれればいい」
「う……もう共犯どうこうだけの問題じゃないんだけど……」
みなみが懸念していた共犯のリスクなど、もはや最大の関心事ではなくなっていた。彼女が何よりも気に食わなかったのは、目の前の男の、すべてを投げ出したような虚ろな瞳だった。まるで取引に応じない彼女を責めているかのようで。それどころか、死の淵から自分が引っ張り上げてやった命だというのに、野垂れ死にさせろなどと言い出す始末。それは、みなみの根底にある善性に対する侮辱に他ならなかった。
「……わかったわよ」みなみは強張っていた肩の力を抜き、観念したように息を吐いた。「そうしましょ。仕事用のノートPCはあたしが用意する。ダメだったら絶対に病院に行くこと、内臓売買なんて二度と口にしないこと。自分の命が何よりも一番大事なんだからね、わかった!?」
言い終えると、何トンもの鉛がついていたかのように重かった足がいつの間にか軽くなり、彼女はまっすぐにアツシの前へと歩み寄って手を差し出した。男の方も、これは自分の計画通りだったはずなのに、一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くした。目の前の巫女の真剣な瞳を見つめ、アツシは苦笑いを浮かべながら、懸命に腕を伸ばしてその小さな手を握り返した。
「取引成立だな」
朽ちかけた古い物置小屋の中で、ひとつの大きな取引が結ばれた。その内容は、互いの秘めた思惑を隠すための薄っぺらな隠れ蓑に過ぎない。しかし、これが自分たちの生涯を決定づける取引になるとは、この時の二人は知る由もなかった。




