すぐそばに
朝倉さんは、自分の腕をそっと撫でながら口を閉じた。
さっきまであんな話をしていたのに、店内には相変わらず穏やかな音楽が流れている。
隣の席では若い女性たちが笑いながら写真を撮っていて、カウンターの奥では店員が静かにグラスを拭いていた。
夢の話なんて、やっぱりこんな場所には似合わない。
俺は、手帳の上に落としていた視線をゆっくりと上げた。
「……それで、その後は?」
朝倉さんは、小さく首を振った。
「その後は、夢を見なくなりました」
「そうですか」
それはよかったですね。
そう返すべきなのだろう。
でも、うまく言葉が出てこなかった。
夢の中だけの話なら、腕に残った痣はなんなんだ。
そう思ってしまったからかもしれない。
「記事に、できますか」
少しだけ不安そうな声だった。
俺はゆっくりと頷く。
「ええ、もちろんです。多少整える必要はありますけど、記事にはできます」
「よかった……」
朝倉さんは、そこでやっと少しだけ笑った。
「正直、誰かに話したかったんです。変だと思われてもいいから」
「……まあ、そういう話を聞くのが仕事ですしね」
そう返すと、彼女は困ったように笑っていた。
グラスの中で氷がからりと鳴る。
その音に混ざるように、何かが聞こえた気がした。
ほんの短い、鼻歌のようなものだった。
「……?」
顔を上げたが、朝倉さんは不思議そうにこちらを見返すだけだった。
気のせいかと思い直して、俺は手帳を閉じた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
会計を済ませて店を出る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
昼間の暑さはまだ地面に残っているのに、空気だけが妙にぬるい。
駅へ向かって歩きながら、さっき聞いた話を頭の中で整理していた。
夢の中のワゴン車。
名前のない駅。
無人の電車。
鼻歌を歌うピエロ。
どこまでが夢で、どこまでが現実なのか。
そんなもの、俺にわかるわけがない。
「……まあ、話としては出来すぎてるけど」
小さく独り言を漏らした、そのときだった。
喉の奥から、妙な音が漏れた。
「────……」
思わず足を止める。
今のは、何だ。
咳でもない。
ため息でもない。
もう一度、無意識に息を吐いたとき。
今度ははっきりと、それが鼻歌だとわかった。
背筋が、ひやりと冷える。
知らないはずなのに、どこかで聞いたことのある旋律だった。
「……は、」
喉がひゅっと鳴る。
やめようとしても、唇が勝手にその続きをなぞろうとする。
その瞬間。
背後で、じゃり、と砂利を踏むような音がした。
足が、止まった。
もう一度。
じゃり。
ゆっくりと、でも確実に近づいてくる足音だった。
振り返ってはいけない。
なぜか、そう思った。
それなのに、首の後ろにひどく近い視線を感じる。
ぴたりと、鼻歌が止んだ。
そして、耳元で。
「……みつけた」
俺は、息を止めた。
お読みいただき、ありがとうございました。
またどこかの夢の中で。




