第5話「使命」
それは角松と冬路による竜王戦第1局が終わってから最初の月曜日のこと。
「ようクロ、どっか遊びに行こうぜ~」
「もうプロ入りは決めたんだから、少しくらい遊んでも良いだろ?」
放課後となって皆が帰り支度や部活の準備を始める中、黒羽の周りに仲の良い男子が3人ほど集まってきた。その内2人は同じクラスだが、1人は他のクラスからやって来ており既にリュックを背負っている。
3人は同学年の中では珍しく部活などに所属しておらず、こうして放課後に黒羽を遊びに誘う光景は1年生の頃から何度も見られていた。しかし2年生に入ってからは三段リーグに集中したい彼の意向を汲んで自重しており、今日が実に半年ぶりとなるお誘いなのである――と言ったところで、他の生徒にとっては実にどうでもいいことなので、周りの生徒は一切目もくれず自分の支度を続けているのだが。
そして誘われた黒羽はというと、自分のリュックに荷物を詰める手を止めて考える素振りを見せ、そして軽く首を横に振った。
「悪いけど、俺はパスするわ。今日はちょっと将棋の研究に集中したい気分だし」
「えぇっ!? 何だよ、もう三段リーグは終わったんだろぉ?」
「デビュー戦もまだまだ先だって言ってたじゃんかぁ!」
同じクラスの2人が唇を尖らせて黒羽に文句を言っている中、違うクラスの1人が訳知り顔でニタリと笑ってみせた。
「もしかしてクロ、この前の竜王戦の仕事で将棋魂に火が付いちゃった感じ?」
「…………別に、そんなんじゃねぇよ」
顔を俯かせて吐き捨てるようにそう言った黒羽の姿は、どう考えてもそんなんでありそうな感じだった。
他の2人もそう思ったようで、同じようにニタァと笑みを浮かべて黒羽の机に身を乗り出してきた。
「何だよクロ~。おまえ、結構熱い性格だったんだなぁ」
「別にそんなんじゃねぇって!」
「良いじゃねぇかよ、熱くなったって。クロは将棋を仕事にするんだろ? だったら本気になった方が絶対に良いし、そんな恥ずかしがるようなことじゃないって」
「うるせぇ!」
黒羽が強引に話題を打ち切り、乱暴な手つきで帰り支度を再開したことで、3人は仕方ないなとばかりにフッと小さく笑ってそれに乗ってあげることにした。
代わりに、支度が完了するまでの短い時間を潰すために別の話題を振ることにした。
「そういやその将棋の研究って、具体的に何をするの?」
「まぁ、師匠の家に行ってVS……タイマンで指したり、何人かで集まって指したりとか。後は1人でやるときは、パソコンで将棋のAIを相手に指したりしてるけど」
「へぇ、そうなんだ。誰かと指すのは何となく想像つくけど、プロになる前からパソコンとか使うんだな」
「小遣いとかお年玉で買ったヤツだから、あんまり性能は良くないけどな。対局料とか入るようになったら、もっと性能の良いヤツに買い換えるつもりだけど」
「おぉっ……! なんかそういう台詞を聞くと、本当にプロなんだなって感じがするわ」
友人の言葉に「何だそれ」と笑い混じりで答える黒羽に、別の友人が問い掛ける。
「てかさ、白鳥とは一緒に研究しねぇの?」
「――――!」
ピクッ、と黒羽の肩が跳ねた。
そしてその反応は、彼からそれほど離れてない場所に集まる女子グループの中心でも起こっていた。
「アイツと研究なんて、するわけねぇだろ」
「えぇっ、なんでだよ? 実力が近い方が、そういう研究も捗るもんなんじゃねぇの?」
「だとしても、俺はアイツとは絶対に研究しねぇ」
「ちょっと黒羽くん! その言い方は無いんじゃないの?」
と、その女子グループの中でもリーダー格の生徒が、黒羽の発言を受けて怒りながらこちらへと近づいてきた。他の女子生徒も同じように非難の表情を向けているが、1人抜けたことで見えるようになった雪姫の表情は戸惑うやら申し訳ないやらといったものだった。
「雪姫が傷つくでしょ! 雪姫に謝って!」
「はぁっ? おまえには関係無いだろ」
「良いから謝って! ――雪姫だって、黒羽くんにあんなこと言われて傷ついたでしょ!?」
「いや、私も歩と一緒に研究するのは少し嫌かも……」
「ほらね、雪姫だってこう言って――えっ、そうなの!?」
ノリツッコミのようなテンポで黒羽から雪姫へと勢い良く振り返る女子生徒に、雪姫は先程の感情に苦笑いも含めた複雑な表情で頷いた。
「一緒に研究したら、その内容は相手に筒抜けになっちゃうでしょ? 研究して見つけた戦法を本番で試すわけだからさ、実際に対局する可能性がある棋士とはあまり研究したくないって人は多いんだよね」
「あぁ成程、そういうことがあるのか……」
「確かに2人だったら、これからも何回か当たりそうだもんな」
「あーっと……、ごめん、黒羽くん」
最初に突っ掛かってきた女子生徒が謝罪を口にし、黒羽が軽く手を振ってそれを受けたことでこの話題も打ち切りとなった。
そしてそのタイミングで、黒羽の帰り支度も完了する。
「じゃ、俺は帰るわ」
「おう、また明日なぁ」
黒羽がリュックを肩に掛け、教室の出口に向かって歩き出す。チラリと女子グループに目を向けるが、とっくに支度を終えているように見える雪姫はまだ立ち上がる気配が無い。しばらく友人達と談笑する気なのか、はたまた彼と一緒のタイミングで帰るのを避けているのか。
まぁどちらでも良いか、と黒羽がふと目を逸らして出口へと視線を向け直すと、
「おやおや黒羽くん、帰ろうとしてたのかい? いやはや、危ないところだったみたいだねぇ」
緩いウェーブの掛かった真っ赤な長髪を背中に垂らし、赤いフレームの眼鏡を掛けた少女・青天目律子が、ニコニコと満面の笑みを浮かべながら出口を塞ぐように立っていた。
「黒羽くん、それと白鳥くんも、この後少し時間を取れるかい?」
「…………」
質問の体を取ってはいるものの有無を言わせぬ圧を感じさせる青天目に、黒羽はせめてもの仕返しとばかりに彼女を睨みつけた。
「いやいや、プロ棋士でもある君達の時間を取らせてしまって申し訳ない」
「用があるなら早めに済ませてもらえますか、青天目先輩」
この時間帯はあまり生徒も寄り付かない、3階から屋上へと向かう階段途中の踊り場にて、社交辞令感を隠そうともしない青天目に黒羽が棘のある声色で返し、そして彼の背後に控えるようにして立つ雪姫がおろおろと心配そうに2人の様子を見つめていた。
しかし彼女の心配とは余所に、青天目は不機嫌になるどころかむしろ愉快そうに笑みを深くし、
「そうだね、単刀直入に訊くとしよう。――君達、私が部長を務める将棋部に入ってくれないか?」
「……俺達はプロ棋士ですから、大会の参加資格は無いですよ」
将棋部にも運動部や他の文化部と同じように、学生を対象とした全国大会というものが存在する。1学期中に県や地方の予選が行われ、夏休みの時期に全国大会が行われる。中には将棋連盟が主催するものもあり、全国大会となると会長を始めとしたプロ棋士との交流会も行われることもある。
しかしそれはあくまでアマチュアに向けた大会であり、雪姫も黒羽もプロ棋士であるため参加資格は無い。そもそも奨励会に所属している時点で参加資格を失うため、たとえ入学直後に入部したとしても2人が大会に参加することはできなかったのだが。
「勿論、私だってそれは理解している。私が君達に求めるのは、謂わば“指導者”としての立場さ」
青天目の言葉を、2人は特に驚きも無く受け入れた。というよりも、大会に出場できない人物を勧誘する目的などそれくらいだろう。
とはいえ、話を受けるかどうかはまた別問題だ。
「申し訳ないですけど、俺はプロ棋士として研究する時間を持ちたいのでお断りさせていただきます」
本当に申し訳ないと思っているのか疑問に感じる無表情で、黒羽は腰を折って頭を下げた。背後で雪姫が動揺する気配を感じるが、それでも彼は揺るがない。
そうして頭を上げた彼の目に映るのは、真正面から自分の頼みを断ったにも拘わらず不敵な笑みを崩すことの無い青天目の姿だった。
それこそ、まだ何か秘策を隠してると言わんばかりの態度で。
「ふむ……。確かに今はまだ時間があるが、公式対局が入るようになれば色々と忙しくなるか……」
「えぇ。正直自分のことで手一杯で、他の人に構っていられる余裕が無いのが本音ですので」
「そうかそうか。――で、それは白鳥くんも同じなのかね?」
青天目がずっと黙っている雪姫に話題を振ると、彼女は顔を伏せて視線をさ迷わせながら「えっと……」と言い淀んでいた。
そんな彼女に、黒羽が苛立ちを顔に出す。
「おい雪姫、断るならハッキリ断った方が良いぞ」
「おやおや、つれないねぇ。確かに将棋の研究に少しでも時間を費やしたい君達からしたら、学生の将棋部の指導なんて面倒なことでしかないのだろうけど――」
「い、いえ、そんなことは! ……それに多分、こういったことも私達には必要だと思いますし」
雪姫の言葉に、黒羽が『はあ?』とでも言いたげな表情で彼女へと振り返った。
そのため、青天目が笑みを更に深くしたことに気づかなかった。
「どういう意味だよ、雪姫?」
「将棋の指導って、要するに分かりやすく将棋を解説するってことでしょ? それって、将来解説の仕事をするための良い訓練になるんじゃないかなって思って……。私、この前の竜王戦で大盤解説に参加させてもらったとき、あんまり上手くできなかったから……」
「それは……まぁ、確かにそうだろうけど……」
「いやはや、白鳥くんは実に素晴らしい! プロになったばかりだというのに、既にそこまで考えているなんて! あの愚兄にも少しは見習ってもらいたいものだ!」
嬉しそうに声をあげる青天目に、黒羽は驚いて咄嗟にそちらへと振り向いた。
「白鳥くんが言ってくれたように、君達が将棋部に入ってくれれば君達にもメリットはあると思うんだ。勿論、君達自身の研究を優先してくれて構わない。空いた時間に指導してくれるだけでも、部員にとっては大きな資産になるはずだ」
「…………」
「それにアマチュアの私が言うのも何だが、君達プロ棋士は“将棋の普及”が使命なんだろう? だとしたら、こういう学生指導の場も疎かにすべきではないと思うのだけどね」
「…………っ!」
青天目の言葉に、黒羽はあからさまに顔をしかめた。悔しそうではあるが、反論をしないところを見るに一理あると感じたのだろう。
黒羽はもう一度、雪姫へと振り返った。
まっすぐこちらを見つめる彼女の姿に、大きく溜息を吐く。
「……本当に、自分の研究を優先しても良いんですね?」
「勿論! 交渉成立、ということで良いね?」
ニコニコと笑って手を差し出す青天目に、黒羽はしかめっ面のままその手を握った。
そんな彼の背後に、苦笑いを浮かべてこちらに手を合わせる雪姫の姿があった。
――まぁ、可愛い後輩の頼みを叶えるのも、先輩の役目だしな。
そして青天目はそんな雪姫に対し、ほんの少しだけ笑みを深くして答えた。