Ⅴ
心地良い花の香りが広がり、人々が触れ合う和やかな空気が漂う穏やかな世界。道行く人達は皆親しげに挨拶に始まった会話を交わし、小さな子供達は元気に飛び回る。
よくよく目を凝らしても彼等が立つ地に微かな傷1つ見受けられない事を其処に踏まえれば、現状此処が何千年にも及ぶ大戦の最中であるとは容易に思えない。ラベリタが王位を継承して直ぐ天界に終戦協定を持ち掛けた結果訪れた、仮初とは言え平穏な時間を使って大戦の傷跡を修復してきた結果であろう。
結局の所終戦協定、其の後に提示した停戦協定共に天界からは何ら返事が来ていない為、たとえば今此の場で砲撃によって全てが無に帰す最悪の可能性さえありながらも、彼等は修復に励み、こうして平和で穏やかな美しい世界を取り戻した。
魔界と聞いて思い浮かぶ物は何か。
常闇の地。血で血を洗う、残虐無慈悲な生き物の住まう国。無駄に破壊の跡が目立つ建物連なり、其の不気味さに腕と気力を見込まれた勇者でさえ一瞬背筋が凍る。
そうした偏見に満ち満ちた、其れでいて一般的であろうイメージ。或いは印象操作による当然の結果とは異なり、寧ろ正反対に穏やかな国である魔界の中。
其の雰囲気には見合わぬ、其れでいて先述の様な偏見に満ち満ちたイメージにはぴたりと合致する建物が1軒だけ、少なくとも建物に見られる大戦の傷は全て修復されただろ魔界の中に聳え立っていた。僅かな修復さえ施されていないだろう事はフェリガーデの目にさえ明らかであった。
屋根は大半が吹き飛び、外壁も無残に崩れている。美しい装飾が施されていただろう窓は殆どが粉砕されており、辛うじて窓枠に残ったガラスは鋭利な断面を晒していて却って不気味さや凶暴性を助長している。
其処がまるでお誂え向きとでも言わんばかりに町外れ、森の中にあるというのも此の廃墟の不気味さを引き立てるに何役か買っているだろう。もっとも其の森自体は光も十分に差し込み、散歩や子供の遊び場にも適している小さな明るい森である分、其の差異も相俟ってまるで其の建物だけ別次元に存在していると言われた方が現実的にさえ思えた。
ごくり、と思わず唾を飲み込む。
平和を望み、住人の事を想う。リジーチェの言葉を用いるのであれば歴代魔王の中でも1番の平和主義者たる現魔王ラベリタが、果たしてこんな薄気味悪く、子供が迷い込みでもすれば危険な建物を何の理由も無く其の儘残しておくだろうか。
逡巡さえ必要ない。無論此の問いに答えるのにリジーチェの様な長い付き合いも。重ねた時間の短いフェリガーデにさえ其れは即答出来る設問である。否。
しかし現に此の建物はこうして此の儘の姿で残っている。修復されるでも、解体されるでもない。恐らくは此の建物が危険な廃墟となっただろう原因の其の日から其の儘の姿を敢えて現存させているのだ。
其の推測が嫌でもリジーチェの心境を緊張状態へと追い込んでいく。恐らく此処はラベリタにとって何らかの思い出、其れも良くない類の記憶が大いに起因している地なのであろう。そうした予測は普段であれば住人に囲まれ、子供達に懐かれ、城の従者、特に1番騎士であり幼い時分からの1番の友人でもあるリジーチェの姿さえ無く、1人で此の廃墟の中に入っていく彼の小さな背中を見た時確信へと変わった。
確信に変わったものの、だからと言って此処から如何するかをフェリガーデは決めていなかった。そもそも此処へと入るラベリタを目撃してしまったのも偶然の賜物である。城内にも町にも一切姿が見受けられず、住人に聞けば少し暗い顔を見せられた。そうした中で1国の王、何かと天界からも其の命を狙われ易いだろう自らの主にして恩人を探し出さずにいられる程、フェリガーデは図太くも肝が据わってもいない。神族の青年であればそうした事さえ気にしなかったのだろうが。
言ってしまえば恩人であるのも主であるのも仮初であり、此処でフェリガーデが全てを思い出したとでも言えば容易に崩れてしまう様な関係ではある。もっともフェリガーデは此れから先自身はフェリガーデとして生きる事を、魔界を守り此処の住人を守り、そしてラベリタを守る事を決めていた為、此の関係を自ら崩壊させるつもりは毛頭無いのだが。
其れ故、ラベリタを探して走り回った。ラベリタの姿を見留める迄、どれ程焦った事か。ラベリタの見慣れた、小さな後ろ姿が視界に入った際、どれ程安堵した事か。思えば其の時彼に声を掛けていれば今こうして気配を潜ませ、影から様子を窺った結果如何しようか思い巡らせる、という事態には陥っていなかっただろう。
ラベリタの行方を訊ねて回っていた際、住人が暗い顔を見せていた事からも此処が彼にとって決して良い意味ではなく、其れでも特別な場所であるというフェリガーデの結論を裏付ける。
ではそうした場所にフェリガーデが踏み入って良い物か如何か。
ラベリタは使用人にも何ら差別意識なく接する魔王であり、フェリガーデを使用人だからと許可しないような事は無いだろう。或いは彼の事だ、フェリガーデが眼前の建物に足を踏み入れた瞬間、驚愕に満ちた顔で振り返ったにしてもフェリガーデの姿を見留めれば直ぐに穏やかに微笑み、仕方ないなと笑ってみせる様子さえ、己に都合の良い想像としてではなく描き出せる。
要はフェリガーデ自身の問題なのだ。出会って間も無い、其れも嘘に嘘を重ねて近付いた部外者が踏み入って良い地であるのか。そして其れは迷う迄もない。たとえ此の地を守り、彼等を守るという此の決意だけは本物であっても。其れでも。
否、だ。と。
そう結論付けて、ラベリタの事は心配であるものの距離をおいて見つめていようと、件の建物に背を向けようとした正に其の時であった。
考えてもみればラベリタは魔王である。其の能力は天井知らず。片鱗を窺う事こそあれ、現状仮初とは言え平和の続いている此の地でフェリガーデはラベリタの力を完全には目にしていない。其れでも確かにラベリタは初対面の時、今迄誰にも、神族のお偉方でさえ見抜けず、舌を巻いていたフェリガーデの穏行を容易に見抜いていたのだ。
穏行も用いらず、多少息を潜めていたとは言っても気配を消す様魔術使用は勿論意識さえしていなかったフェリガーデに気が付くなど、容易な事だっただろう。其れこそ赤子の手を、というやつだ。もっとも言葉其の儘で取るのであれば、此の平和主義者にそんな暴挙が行えるとは毛頭思わぬ為、朝飯前という表現を用いた方がより適切だろうが。
森の中に建っていると言うよりは打ち捨てられている建物。
しかし森と言っても先述の通り明るく、子供の遊び場にさえ適している其処には、咄嗟に隠れられる程の草木も無い。隠れたところでラベリタの目には無意味だろうが。
其れ故森の中から様子を見ていたフェリガーデと、視線でも感じたのか引き返してきたラベリタの目はばっちり正面から、其れこそ言い訳のしようが無い程はっきりと合致した。
つい今し方此処は未だ己には立ち入れぬ場所であると決めたばかりのフェリガーデとしては気まずさもあり、冷や汗が背中を伝うのさえ感じる中。
ラベリタの方は僅かに気分を害したワケでもなく、ただただフェリガーデに向かって微笑みかけた。やさしい微笑みだった。フェリガーデもよく目にする、ラベリタがよく浮べる微笑み。其れでいながら其れだけではなかった。何処か、本当に何処か、微かに寂しそうな色を其の双眸に讃えて。
けれどそうした寂しさなど微塵も感じさせぬ声色でラベリタは口を開いた。
「入ってみるか?崩れそうだが、子供達が万が一に入って怪我をしないように形態維持の魔法は厳重に保っている。だから其の点は大丈夫だ」
嘘吐きが踏み入れられる地ではない。其の決意が霧散したワケではない。其れに起因する躊躇いは未だフェリガーデの心に絡んでいる。
其れでも此方を真正面に見つめ微かな寂しさを宿して微笑むラベリタを前に、首を横になど振れなかった。其れは言い訳だろうか。
言い訳でも何でも良い。此れが罪を重ねる事になるのであれば、更に重ねてやろう。そう言い訳染みた、其れでいて確固たる意志を決めて、フェリガーデは首を1つ縦に動かすと手を差し出すラベリタの元迄歩み寄った。
内装は、或いは内装も、外観の印象を違う事なく崩壊の体を見せていた。
元がどんな形を見せていたのか想像さえ難しい様々な破片が床に散乱し、崩れた屋根からは見事な迄の青空が広がっているのが視認出来る。
魔力を持つ魔界、或いは天界の子供は勿論、下界の子供が多少走り回るだけでも呆気なく全壊してしまいそうな此の建物が、しかし崩壊の体を見せながら全壊せず此の形を保たれているのはラベリタの言葉通りだろう。
形状維持の魔法。
呼んで字の如くという言葉があるが、此の魔法については正に其れ。対象の形状が其の他の要因、時間経過や第3者の手出し等によって変質する事を防ぐ効果のある魔法だ。其の効力は使い手の力に準じ、使い手よりも優れた者が破壊しようと思えば容易に破壊出来てしまうのだが、此の建物に件の魔法を施したのがラベリタ本人であれば魔界には勿論、天界にさえ其の魔法を上回って破壊出来る程の者は早々居ないだろう。
其れ故此の、今にも簡単に崩れ落ちてきそうな建物は、しかし崩れる事なく現存している。
形状維持の魔法を使った目的をラベリタは万が一に迷い込んだ子供が怪我をしないように、と語った。確かに少し好奇心が旺盛な子供であれば魔界には珍しい廃墟は、ちょっとした冒険心を擽られ侵入してみたくもなるだろう。其処で僅かな魔法でも起こせば、否、少しでも走り回ろうものなら、中に人が居る事など考慮せずに此の建物は呆気なく崩壊してしまうに違いない。
そうした不幸な事故を防ぐ為。
成る程、理に適った話ではある。住人を大切に思う魔王が子供の事故を良しとする筈も無く、十分考えられる対処ではあるが。しかし、其れだけが目的ではないだろうともフェリガーデは思う。もしも事故防止だけを目的に此の建物に形状維持の魔法を用いているのであれば、寧ろラベリタであれば形状維持ではなく早々に此の建物を修復し、危険要素其の物を排除してしまうだろう。
だがラベリタは其れをしていない。そしてラベリタや魔界の住人達が見せる微かな動作、僅かな言葉運びが、しかしフェリガーデに明確な答えを与えていた。確信に至った考えは、そうしてより信憑性を強め、確固たる物へ変わっていく。
其れでもフェリガーデは己から切り出そうとはせず、ただラベリタの言葉を待った。催促するでもなく、知った風な様子を見せるでもなく。ただラベリタが言葉を切るのを待ち、ラベリタの様子を何気無く窺う。
今日も今日とて変わりない、見慣れた少年の姿。相変らず角は小さく、其の角を彩る飾りは日々変わっているものの住人の誰かが作った手製で、決して豪華とは言えぬ様な物。今日は更に小振りで質素な飾りを、まるで形だけ添えてみたと言う様に身に付けている。そう、其れはまるで、華美な装飾こそが不適切な場に赴くかの様な。
静寂を保ち、ただただ建物の内部に視線を向けるラベリタの横顔は、何処か寂しそうで、悲しそうで、強い罪悪感を其の双眸に湛え。何らかの言葉1つでもあれば魔界最強だろう此の少年を、簡単に押し潰せてしまえそうに思った。其れこそそう、本当に、赤子の手を、其れも力が一切無い下界の赤子の手でも捻るが如くの容易さで。
どれくらいラベリタはそうしていたのだろうか。そしてフェリガーデは、そんなラベリタを見つめていたのだろうか。まるで時間でも止まっていたかの様な、ラベリタだけが視線を巡らせる事を許されていたのではと、ともすれば錯覚しかねない程の空気を、時間を、正常に動かしたのはラベリタの切り出した声だった。
「怖がらせた……とは少し違うみてぇだな。驚いたか?其れとも、あまりの崩壊振りに嫌悪感でも抱いたか?はっ、素直に言ってくれて構わねぇぜ?オレも此処が多少、つーか大分不気味である自覚はあるしな」
何時も通りに振舞おうとしている。どれ程の努力を要しているのか、どれ程の精神力を用いているのか。其れは成功していると言えなくはなかった。
ラベリタの声は穏やかで、何処にも気負った様子は見受けられない。
ラベリタの表情は穏やかで、何時もの様に微笑みさえ湛えている。周囲を安心させる笑みだ。
其れでいて少しだけ。ほんの一瞬だけ。声に震えが見える。浮べる微笑みに自嘲の色が覗える。恐らくはラベリタを慕う此の国の住人であれば、其れに気が付くだろう。気が付いて、しかし平常を装うラベリタの努力を思い口を噤むのだろう。
フェリガーデとてラベリタに無理をさせたくないと思うも、彼の努力を己のエゴで無にしたいとは思わない。其れ故フェリガーデは其処には一切触れず、ただラベリタの言葉に応えるべく首を横へ振った。否定。
確かに多少驚愕はした。確かにラベリタにとって重要な場所であるという、最早確固たる確信さえ持った予想が根付き、其の場所を不気味だと言う事への躊躇いもある。しかしそうした事を取り払っても嫌悪感は微塵もない。フェリガーデは、神族の青年は、此の程度の崩壊を、此れ以上の崩壊を何度となく何百何千年にも至って無感情に見下ろしてきた。今更此れ程の崩壊に感じる嫌悪もない。
驚愕についても、此の建物がある場所が、穏やかで大戦の最中にも関わらず、大戦の跡を残さぬ魔界になければ微塵且つ一瞬の驚愕さえフェリガーデは抱かなかっただろう。
「ちょっと驚いたけどね。でも、其れだけっす。魔界は綺麗だから、だから、其の」
慎重に言葉を選ぶ。ラベリタの努力を無為にせず、そしてフェリガーデの設定を崩さず。
其の結果として途切れ途切れでどもりがちな言葉運びとなってしまったものの、フェリガーデが自身に課した設定の問題が無くとも言葉運びに存分に迷った結果、途切れがちで的を得ない言葉になっていただろうが。
ラベリタはフェリガーデの応えに苦笑を浮かべ、フェリガーデが口に出すのを躊躇った言葉を続ける。
「此処迄崩壊を来たした建物、或いは大戦の跡がありありと残った建物が存在するとは思わなかった、か?」
差し出された助け舟に乗る様な形でフェリガーデは頷く。事実ラベリタと此の廃墟の関連性に薄々察しが付き、直ぐに確信へと変わった為其の疑問も直ぐに霧散したが、ラベリタと一切関係の無いところで此の建物を見付け、其の関連性に辿り着いていなければ驚愕も長く続いていただろう。
フェリガーデの首肯を確認して、ラベリタは苦笑した。今度こそありありと見て取れる程、自嘲の色を、其の、まだどう贔屓目に語っても少年にしか見えぬ顔立ちに添えて。
ラベリタの双眸が一瞬フェリガーデから離れ、廃墟内を軽く1巡りする。自然フェリガーデも其の視線を追っていた。
再度フェリガーデを見つめる双眸は変わらず苦笑の色と自嘲の色を湛えている。
「此処はオレにとって戒めの地。前魔王様が亡くなった地で、オレは前魔王様に庇われた」
そしてラベリタは、フェリガーデの結論と然程違わぬ言葉を、表情はそのまま、しかし何処か苦しそうな声音で吐き出した。
其れは極々自然な事だろう。
フェリガーデの結論と然程違わぬ事実があったという事は、其の儘、此処がラベリタにとって傷となっている記憶に関する場所であるという事。其れを平然と語れる者は多くない。ましてフェリガーデとして接してきた中で知った魔族の人柄を考えれば、多少特殊であるリジーチェを含めても絶無とさえ言って良いだろう。
其の最もたるラベリタが、平然と話す素振りこそ出来ても、平然としていられる筈もない。
「……大丈夫っすか?」
長い年月を過ごしてはきたものの、誰かに庇われた事も無ければ、誰かを庇った事も無い。喪失の痛みさえ知らない。
魔界に訪れ、漸く誰かを守りたい気持ち、誰かを庇いたい気持ちとやらを知り、喪失の恐怖も知った。幸いと未だ痛みは知れずに過ごせてきているが、そうしたフェリガーデに誰かを失った事を己の傷としている気持ちは浅はかで薄い推測だけが手一杯である。
手一杯ではありながらも、其れを語る事がどれ程の傷であるか僅かながらでも今のフェリガーデには理解が及ぶ範疇であり、其れ故、控え目に声を掛けた。其れは初対面の時分、記憶喪失を騙るフェリガーデに何度となくラベリタが掛けた言葉であり、記憶喪失を騙ったばかりにフェリガーデには口に出来なかった言葉。
フェリガーデが此処で其れを口にするのが予想外であったのか。或いはラベリタとしては徹頭徹尾、自身が抱く感情を封じ込んで常と変わらず笑っていたつもりであったのか。何方かは定かでないものの双眸を見開いた、明らかな驚きの表情を見せた後。
ラベリタは再び、弱々しく苦笑した。
「はっ、まさかオレが其の言葉を掛けられるなんてな。見っとも無い顔でもしてた?」
「見っとも無い顔なんてしてないっす。でもそういう話って、簡単に話せるモンじゃないでしょ?アンタの事知りたいとは思う。でもアンタに無理して欲しいとは思わないんすよ、ラベリタ」
「……気楽に、面白おかしく話せる事でもねぇが、無理してるって程でもねぇよ。此処は戒めの地でもあるし、覚悟の地でもあるんだ」
覚悟の地。
そう口にしたラベリタの目には確かな光が宿っており、其れが強がりでも何にでも無い事はフェリガーデの目にもよく分かった。本当にラベリタは此処を戒めの地として自身を責め、己の傷を抱えつつも、此処で恐らくは彼の魔王としての前向きな迄の覚悟も見据えたのだ。
改めて考える迄もない。天界からの攻撃を前魔王に庇われながら。前魔王の死を目にしながら。恐らく今よりももっと幼いラベリタは、自らを無力だと責めただろう。前魔王の死を己の所為にも感じただろう。そうでありながらもけれど、其の時分次期魔王の有力候補と言われていたラベリタは覚悟を決め、己の道を見据えた。
まるでフェリガーデの内心を見透かしたかの様に。そして其れを肯定するかの様に。ラベリタは1つ大きく、ゆっくりと首を縦へ動かした。
「天界からの強力な攻撃は魔王様の力を持っても防御しきれるモンじゃなかった。魔王様の防御結界の全力でも建物は此の有様。オレも今は魔王で、当時は腐っても次期魔王の有力候補だ。餓鬼であったとしても魔力は伊達じゃなかった。其れでも建物は崩壊、魔王様は死んで、生き残ったのはオレだけ。絶望もしたし、後悔もしたけどな。……でも自害に迄及ばなかったのはリジーチェや住人達が支えてくれたからであり、魔王様がオレに託してくれた言葉があるからなんだ」
ふ、とラベリタの視線が動く。
廃墟の中、屋根が屋根としての役割を果たしていない建物。其の中でもより大きな穴が天井には空き、其れでありながら其の穴の真下に当たる場所は他の箇所に比べて廃材も何も転がっていない。まるで廃材さえ残さず、僅かな破片さえも残る事を許さず消し飛んだかの様に。
其処こそラベリタの言う強力な攻撃が打ち込まれた着地点に他ならなかった。そして前魔王がラベリタを守り事切れただろう、正に其の場所に。
「平和な世界を。代々望まれてきた平穏を。そしてお前の望む争いの終結を。お前ならきっと、大戦さえ終わらせる事が出来る、ってな。其処迄言われて、未来に託すのだなんて言われて身を挺して庇われれば、誰だって其れを放り出して逃げられねぇだろ?」
ラベリタが笑う。
何処か寂しそうで、何処か自嘲を含んでいて、其れでいながら覚悟の込められた微笑み。
そうした微笑みを見つつ、フェリガーデは考える。魔族を守りたいと思い、魔界を守りたいと思い、ラベリタを守りたいと思った。其れは今でも揺るがない、嘘偽りの無い本心である。無論、其処に不審な動きを僅かでも見せればリジーチェの愛剣の錆にされるという恐怖心は微塵も影響していない。
其れでは具体的に何が出来るのであろう。ラベリタの終戦協定にも停戦協定にも何の反応を示さず、もしかしたら今此の瞬間にも虎視眈々と魔界襲撃を目論んでいるやもしれぬ、天界相手に。
基本は中立を謳いながらも魔界の存在を認めず、天界からの協力要請には応じる神界に、強力な助けを要請しているやもしれぬ、天界相手に。
神界に、協力。
或いは、もしかしたら。フェリガーデの脳内に希望が生まれる。成功の可能性は低い。其れでも最悪の忌避は出来る。
「ラベリタの覚悟は凄いっす。でもオレもラベリタを守りたい。仮初の使用人の立場で生意気っすけど、記憶も無い様なあやふやで頼りないヤツかもしれないっすけど、でも此れは本当。ラベリタの役に立ちたいっす。……使者の仕事、任せてもらえないっすか?」
己の種族さえ忘れている、記憶喪失の名前を持たぬ青年。
魔界で暮らす事を選び、魔王城での使用人の立場を請い、魔王から名前を授かった青年。
其れが今のフェリガーデである。しかし本質は違う。いくら己がフェリガーデの方が良いと望み、フェリガーデを本物であって欲しいと望もうと、所詮フェリガーデは虚構の存在。
神族の青年があの日、己の穏行を破られたが故に、余計な面倒を忌避したいと望んだ故に、咄嗟に作り出した偽者。本来は神族の青年なのだ。
そう、神族の。
魔界は其の存在を知らず、天界は其の存在に協力を打診する。中立という嘘を掲げては魔界以外に干渉をする、大戦の外で干渉を可能とする種族。
たとえフェリガーデの存在全てが嘘で構築された偽者であったとしても、青年がフェリガーデとして過ごし、其処で感じた思いは、有り体な言い方ながらも全てが本物である。
そうした青年だからこそ出来る事はある筈ではないか。
フェリガーデの、青年の申し出が余程予想外だったのか、ラベリタは目を大きく見開き、青年を見つめたまま、時間でも止まってしまったかの様に呆けている。事態が整理出来ないのか理解が追い付かないのか、数分待っても固まったままのラベリタの名を呼べば、其れで現実に引き戻されると同時、理解も追いついたのだろう、迫力のある叱責の言葉を頂戴した。
「何を、お前は何を考えてるんだ!!」
鼓膜が震えた。
普段穏やかな印象の強いラベリタが発した言葉には思えない程力強く、何ら悪さをしているワケでもないのに、ましてや青年の本質は神族であるにも関わらず無条件で謝罪し、屈服してしまう様な迫力。
其れに流石の青年も一瞬たじろぐも、だからと言って此処で引くワケにはいかない。
魔王城が抱える使者は、所詮魔界の使者である。魔界の使者について天界側が答えを濁し続けたのであれば、今、楽観視すれば事態を動かせるのは、極めて現実的に考えても事態を正確に掌握出来るのは、魔界の使者の皮を被れる上実態は神界の住人である青年だけだろう。
「で、でもオレ、我ながら適任だと思うんすよ!何処の種族の気配もしないみたいだし、自分で言うのもおかしいけど口達者だし」
そして言い訳としても万全である。魔界の使者は魔界の者とあれば蛇蝎の如く嫌う天界の者に対して、まだ受ける嫌悪が薄く、口の回る者が選ばれている。本来神族であり、魔界は其の存在を知らない為何の気配も感じられぬフェリガーデを使者とするには不都合はないだろう。
もっとも素性を知れていない以上裏切りの心配があると言われれば反論の余地がないものの、此の決して狭くない魔界に於いて其れを警戒出来るのは精々リジーチェくらいであろうから、ラベリタにとって、否、魔界にとってフェリガーデとは天界の使者に最も適任な存在である筈だ。
しかしそうした理に適った言い訳も、まるで聞く気さえ無いと言わんばかりに即座の反論に遭う。
「確かに其の点を見ればお前は適任だ。けどな、お前はもしかしたら天界の人間かもしれねぇし、天界が不当に攫ってきた下界の人間かもしれねぇ。前者ならお前に魔界の使者なんてさせたら天界に要らぬ誤解を生んで、お前の帰る場所を奪っちまう。後者なら戻ったら最後、今迄の暫定勇者と同じ様な目に遭うぞ?そんな事が分かっていながらお前を送り出せるワケがねぇだろ!?」
嗚呼此の人は、何処迄も誰かの事を考えてくれているのだと青年は思う。
今立つ地が、自身にとって傷となる記憶の地であっても。或いは其れだからこそ尚更に、此の少年は、此の魔王は、誰かの身を案じずにいられないのだ。おそらく誰かを犠牲にして得られる平和を基本的に良しとしていないのだ。
当たり前と言えば当たり前だろう。ラベリタがそうした人種であれば、リジーチェの提案を呑み、魔界の平和の為だけに天界を全滅させていただろうから。其れをしていないラベリタが、此処でフェリガーデの身を一切考えず送り出す筈が無い。
ラベリタの事を理解しきれていなかった。或いは思い付いた案が凄まじい名案の様に思えて、気持ちばかりが先走り過ぎた。何方にせよ自身のミスである。
しかしそうなれば、こうした場で伝えたい事では無かったものの、リジーチェに対しては明かした此の胸の内を明かす他ないだろう。何時かはラベリタにも伝える必要のあった事だ。とは言え、仮に前者についてラベリタの杞憂を拭えても後者については其の術を持っていない為、最悪強行突破をする羽目になってしまいそうではあるが。
青年は改めて覚悟を決め、口内に溜まっていた唾を1度嚥下する。
ラベリタはまだ何か言いたげに此方を見つめ、其の目はラベリタの内心で渦巻いているだろう感情を雄弁に代弁しているものの、青年が何かを切り出す様子に気付いたのか、一先ず言葉自体は沈黙を保っていた。
「確かにオレは自分の種族さえ思い出してないっす。だけどオレはオレにやさしさをくれた、オレを助けてくれた魔界の人達を、ラベリタを裏切りたくないって、強く思ってるんすよ。もしオレが天界の人間だったら、其れでも、其れでもオレの帰る場所は天界にあるとは思えないんす。アンタ達が許してくれる限り、オレの帰る場所は魔界でありたい」
生憎此れ以上の言葉は持っていない。しかし此れこそ青年が抱いた、何の飾り気も偽りも無い本心である。
しかし後者に対する反論は何ら持ち合わせていないのは、やはり事実。此れでラベリタの首を動かす方向を変えられぬのであれば、青年に残されている手段は。