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覇王の遺児 ― 信忠天下記 ―  作者: ゆちゃ
第2章

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20.兆し

天正10年(1582年)6月27日 

尾張・清洲


朝。

光はある。

だが、城の中は明るくない。


清洲城。

広間に差し込む光は、床に細く伸びるだけで止まっている。

人は集まっている。

だが、誰も話さない。

話す必要がないからではない。

話しても、確かなことがないからだ


中央。

織田信忠は座している。

三通の文がある。

多くはない。

だが、重い。


一通目。

「北近江にて、人の往来増加」


二通目。

「足軽・浪人風の者、集結の兆し」


三通目。

「統制あり。雑兵に非ず」


信忠は、順に読む。

一通目で止まらない。

二通目でも反応しない。


三通目。

指が、止まる。

ほんの、わずかに。


(統制……)

その言葉だけが残る。


「上様」

声。

丹羽長秀

「いずれも、確証には乏しき報にございます」


補足。

つまり、噂に近い。

だが、信忠は首を振らない。


「揃いすぎておる」

低い。

長秀の目が、わずかに動く。

揃いすぎている。

それはつまり。

偶然ではない。

誰かが整えている。


信忠は、文を重ねる。

指で軽く叩く。

音は小さい。

だが、その場に響く。


(残っている)

誰が、とは言わない。

だが、消えていない。


「……静かすぎる」

ぽつりと。

それは、報に対する言葉ではない。

状況そのものへの違和感。



同刻。

近江国北部・山中


霧が下りている。

視界は浅い。

足元は濡れている。

音が、吸われる。

そんな中に人がいる。


一人ではない。

だが、多くもない。

十に満たない。

動きは遅くない。

だが、急いでもいない。

止まらない。

ただ、進む。

先頭の男が、足を止める。

後ろの者も止まる。

言葉はない。

男は、地面を見る。


わずかな跡、折れた草、踏みしめられた土。


(通ったな)

誰が、とは言わない。

しかし追われている側ではない。


「……散らせ」

低い声。

全員が頷く。

音はない。


一人が右へ。

一人が左へ。

二人が後ろへ。

形が崩れる。

しかし、 統制は崩れない


中心の男は、動かない。

ただ、山の奥を見る。


(まだ足りぬ)

呟きは、霧に溶ける。



同刻、清洲城。


再び、文。

今度は一通。

短い。


「近江にて、明智の名を口にする者あり」

それだけ。

具体性はない。

場所も曖昧。

人数も不明。


信忠の目が、わずかに細くなる。

(消えておらぬ)

確信ではない。

外れてもいない。

文を閉じる。

ゆっくりと指で端をなぞる。



「長秀」


「は」

即答。


「数は要らぬ」

一拍。

「目を使う」


短い。

だが、意味は深い。

大軍では捉えられない。

見つけるには質が要る。


「誰を」

長秀の問い。

信忠は、すぐには答えない。

ほんの一瞬、目を閉じる。

思い浮かべるのは


動き。

癖。

間。


「軽い者」

開く。

「だが、浅くない者」

長秀が、わずかに息を止める。


(選別が厳しい)

「整えよ」

それで終わり。



尾張・近江境


風が強い。

草が倒れる。

音が出る。

その中を、小隊が進む。

五十に満たない。

だが、乱れがない。


足音が揃う。

呼吸が揃う。

視線が揃う。

見えない規律。


先頭、織田信忠。


馬ではない。

歩いている。

足取りは一定。

速すぎない。

遅すぎない。


(近い)

確信ではない。

だが、外していない。


後ろに長秀。

何も言わない。

だが、すべてを見ている。


森に入る。

光が減る、音が変わる。


その瞬間。

信忠の足が、わずかに止まる。


右を見る。

何もない。

左を見る。

何もない。


前、奥。


(いるな)

確信ではない。

しかし、外れではない。


一瞬、風が止む。

音が消える。


遠く。

同じように、足を止める者がいる。

霧の向こう。

見えない。

だが、感じている。


「……来たか」

小さく。

誰にも届かない声。

その目は、確かに前を見ている。


距離はある。

だが、消えていない。

互いに、気づいている

しかし姿は見えない


信忠は、動かない。

すぐには動かない。

一歩。

踏み出す。


その一歩で。

空気が変わる。


戦は、まだ始まっていない。

だが、すでに始まっている

火は、消えていない。

今はまだ、見えないだけだ。


その火に、最初に触れるのはどちらか。

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