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覇王の遺児 ― 信忠天下記 ―  作者: ゆちゃ
第2章

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12/15

12.影、脈打つ

夜の清洲城は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

閉ざされた障子の向こうで風は鳴っているはずなのに、この部屋にはほとんど届かない。

小さな油皿の炎だけが、ゆらりと揺れる。

その光の中に、四人の影があった。


織田信忠は上座に座したまま、微動だにしない。

背筋は真っ直ぐで、視線だけが静かに人を見ている。

その視線は灯りにも壁にも向けられず、ただ目の前の三人を順に測るように巡っていた。


右には丹羽長秀。

左には細川藤孝。

少し後ろに、村井貞勝。


誰も口を開かない。

炎が小さく揺れ、その影が畳の上で歪むたび、時間だけがゆっくり進んでいく。

やがて、油が弾けるような小さな音がした。

その瞬間、信忠の指先がほんのわずかに動いた。

合図のように。


「……光秀」


落とされた名は短く、それでいて場の空気を一変させるには十分だった。


明智光秀。


誰も顔を上げない。

だが、三人の意識が同時に一点へ揃うのが分かる。

最初に口を開いたのは貞勝だった。


「京に、妙な流言が広がっております」

声は低く、抑えられている。報告というより、事実を静かに置くような言い方だった。

信忠は何も言わない。

促しもしない。

ただ続きを待つ。


「討死の場所が日ごとに変わり、証言も一致いたしませぬ」

わずかに間を置き、言葉を選ぶ。


「……作られております」

その言葉に、部屋の空気がわずかに沈んだ。


長秀が、ほとんど同時に続ける。

「農民の名も所在も、確かではありませぬ」

視線は動かさないまま、指先だけが畳に触れる。

「銭の動きにも不審がございます。誰かが意図して流しておりましょう」


藤孝はその間、目を閉じていた。

思考を一度内に沈めるように。

やがてゆっくりと目を開く。


「……生きておりますな」

断言だった。

理由は述べない。

必要がないからだ。

誰も驚かないし、否定もしない。

ただ、その結論だけが静かに場に置かれる。


光秀は、生きている。


信忠の視線がわずかに落ち、畳の一点を捉える。

ほんの一瞬の沈黙の後、再び顔を上げた。


「討つか」

短い。


「使うか」

それだけだった。

だが、問いとしては十分すぎた。

長秀が息を吸い、すぐには吐かない。

考えている。


「放てば、いずれ再び刃を向けましょう」

言葉は慎重に選ばれている。


「討てば……影は消えます」

そこで止めた。


藤孝が静かに引き取る。

「使えば、刃は手の内に入ります」

少しだけ目を細める。

「ただし、手も切れましょう」


貞勝が続く。

「京は噂で揺れます」

視線は依然として下げたまま。


「光秀が生きていると知れれば、朝廷も寺社も動きましょう」

それは警告だった。

戦場ではない、別の火種。


信忠はしばらく何も言わなかった。

炎が二度、三度と揺れる。

その揺れが収まった頃、ようやく口を開く。


「……探れ」

短い一言。

だが、その中にすべてが含まれていた。

今は決めない。だが、主導権は手放さない。


「貞勝」

「はっ」

「京の口を塞げ」

「御意」


「長秀」

「は」

「銭の流れを断て」

「承知」


「藤孝」

ほんのわずかに間を置く。


「文を」

藤孝は軽く頭を下げた。

「心得ました」


その時、襖の外でかすかな気配が動いた。

声だけが届く。

森長可だった。


「ここに」

「動かすな」

「……承知」

短い応答。

だが、そのやり取りは重かった。

力はまだ使わない。

信忠は最後に、誰もいない方向へ視線を流した。

(秀吉は、見ている)


羽柴秀吉の名は出さない。

だが全員に伝わる。

この戦は、すでに三つに分かれている。



同じ夜。


別の部屋で、秀吉もまた座していた。

向かいにいるのは黒田官兵衛,


「中央は固いか」

秀吉が問う。

官兵衛はわずかに首を傾ける。


「固めております」

その違いに、秀吉は小さく息を吐いた。


「ならば」

一度だけ指で膝を叩く。

「外から崩す」

官兵衛は静かに頷いた。



さらに遠く.雨の中。


焚き火の火は弱く、煙だけが低く流れている。

その前に座る男がいる。

明智光秀。


「……まだだ」

声はかすれているが、消えてはいない。

「終わってはおらぬ」

手の中の泥が、指の間から静かにこぼれ落ちた。



同じ夜の下で、三つの意志がそれぞれに動き始めていた。


信忠は握るために探り、

秀吉は外から削り、

光秀は闇の中で繋がろうとしている。


戦は終わっていない。

ただ、姿を変えただけだった。

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