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覇王の遺児 ― 信忠天下記 ―  作者: ゆちゃ
第2章

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13/20

13.糸

夜明け前の空気は、冷えている。


京の街はまだ完全には目覚めていない。

だが、眠ってもいない。

どこかで戸が開き、どこかで水が流れ、どこかで人が声を潜めている。

そのすべてが、薄く繋がっているような気配があった。


その中心にいるのが、村井貞勝だった。


⸻


貞勝は、庭に面した縁側に座していた。


膝の上に置いた手は動かない。

だが、耳だけが働いている。


足音。

砂利を踏む、わずかな音。


一度、止まる。

もう一度。

ためらいがある。

貞勝は振り向かない。


「入れ」

短く言う。


障子が、音を立てぬように開く。

入ってきたのは、名もない足軽だった。

だが、その顔には汗が浮いている。

冷えているはずの朝に。


「申し上げます」

声が少しだけ上ずる。

貞勝は視線を向けない。

言葉だけを受け取る姿勢。


「昨夜、妙な者が……寺へ出入りしております」

一拍。


「どの寺だ」

「西の外れ……人の少ない寺にございます」

貞勝の指が、ほんのわずかに動く。

「名は」

足軽が口ごもる。

一瞬、言うべきか迷う。

その間を、貞勝は聞いている。


「……名は、分かりませぬ」

嘘ではない。

だが、何かを隠している。

貞勝はゆっくりと顔を上げた。

初めて視線が合う。

足軽の喉が鳴る。


「だが」

逃げ場を失ったように、言葉が続く。

「供の者が、明智と……」

言い切る前に、空気が変わった。

風が止まったような錯覚。


「誰に聞いた」

貞勝の声は、変わらない。

だが温度が下がる。


「町人にございます」

「名は」

「……」

答えられない。

いや、答えない。

貞勝はそれ以上追わなかった。

必要がない。

もう十分だった。


「下がれ」

足軽はほとんど逃げるように去る。

障子が閉まる。

音が消える。

その時、奥から足音がした。


ゆっくり。

間を測るような歩き方。

現れたのは細川藤孝。


「動きましたな」

貞勝は頷かない。

否定もしない。


「寺の名は」

「……まだ」

藤孝は縁側に腰を下ろす。

庭を見たまま。


「噂は」

「流れております」

貞勝が答える。

「だが、流されてもおります」

藤孝の目が、わずかに細くなる。


「……誰かが、導いている」

結論だった。

その言葉が落ちた瞬間。

二人の間に、ひとつの可能性が浮かぶ。


誰が。

なぜ。

どこへ。

だが、それを口に出す者はいない。

まだ早い。


⸻


同じ頃。

尾張、清洲城。


信忠は、一枚の紙を見ていた。

何も書かれていない。

白紙。

だが、その前に長く座している。

背後に控えるのは丹羽長秀。

完全に気配を消している。


「京」

信忠が呟く。

それだけで長秀は理解する。


「動きがございます」

声を落とす。

「噂が、形を持ち始めました」

信忠は紙から目を離さない。


「形か」

短く。

「寺に、人が集まっております」

一語ずつ。

「名は伏せられておりますが」

一拍。


「明智の名が出たと」


信忠の指が、紙の端に触れる。

ほんのわずかに。


「……遅い」

ぽつりと。

長秀は反応しない。

それが何を意味するか、分かっているからだ。

すでに動いている,


「長秀」

「は」

「餌を撒け」

一瞬。

わずかな沈黙。

だが長秀はすぐに理解する。


「……おびき出しますか」

「違う」

信忠は首を振らない。

だが、否定は明確だった。

「選ばせる」

その言葉の意味。

光秀側に動かせる。


⸻


同じ刻。

西国へ向かう道。


羽柴秀吉は馬を止めていた。

視線は遠く。

動かない。

隣にいるのは黒田官兵衛。


「京が騒ぎ始めたか」

秀吉が言う。

官兵衛はすぐには答えない。

一拍。


「騒がせております」

言い直す。

秀吉の口元がわずかに歪む。


「信忠か……あるいは」

官兵衛はそこで止める。

続きを言わない。

秀吉は理解する。


「光秀か」

風が吹く。

砂がわずかに舞う。

「どちらでもよい」

秀吉は言う。

「動けばよい」

その一言に、すべてが集約されている。


⸻


夜。

再び京。

廃寺。


灯りが一つ。

戸は閉じられている。

中に、人影。

その前に座る男。

顔は見えない。

だが、その声は静かだった。


明智光秀


「……遅い」

信忠と同じ言葉。

だが意味は違う。

「まだ、集まらぬか」


その時。

戸の外で、音がする。

足音。

止まる。

そして、戸が叩かれる。

一度。

もう一度と。


光秀の指が、膝の上で止まる。

「入れ」

低く。


戸が開く。

入ってきた人物を見た瞬間。

光秀の目が、わずかに細くなる。


その人物は、深く頭を下げた。

顔はまだ見えない。


だが、その声は、はっきりとした。

「お待ちしておりました」

その一言で。

すべてが繋がる。


⸻


見えなかった“糸”が、初めて形を持つ。


信忠が張った網。

秀吉が狙う隙。

光秀が求める再起。


そのすべてが、一本の線で結ばれ始める。


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