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一般人遠方より帰る。また働かねば!  作者: 勇寛
2章

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4-5 駆出 のち 決意

『キャーーー!!!!!』


 それは猛がトイレに行っていた時に聞こえた悲鳴だった。

 丁度パピプの新曲が終わり、猛が小学生の頃に人気だったロックバンドが昔のヒットナンバーをメドレー形式で演奏を始めたところで飯・トイレ・風呂という流れに入っていた。

 そのロックバンドに興味はなかったし、夕飯を食べるにはちょうどいい時間で、21時からのパピプメンバーの出るファッションショーまでに粗方を片付けてしまうには丁度良かったのである。

 PCはネット配信の映像を流しっぱなしにしていたので、その会場からの声だったはずだ。


「何だ、何かあったのかな?」


じゃー!!


 トイレの水を流して、手を洗って部屋に戻る。

 あれだけの声が聞こえたのだ。

 もしかすると、なにか大きな重大発表でも起きたのではないかと、少しばかり焦る。

 ズボンを適当に引き上げてぬれた手を寝間着替わりのTシャツで拭いながら、PCのモニタを見ると、映像が停止していた。

 不思議に思う猛の前で、停止していた画像が"少々お待ちください"の画面へと変わる。


「んん?どうした、もしかして放送事故でも起きたのか?海上からだから電波悪くなったのかなぁ?」


 モニタ前の椅子に座り、PCを操作するが一向に画面が戻らない。

 不思議に思い、テーブルに放り投げていたスマホを手に取る。

 開くのはパピプのファンサイトだ。

 ものすごい数のファンが書き込みを行うこのサイトであれば、当然パピプの出番が終わった後でも惰性でファッションショーまでの時間を先程までの配信で潰している奴もいたはずなのだ。


「……何?はぁ?いや、えぇぇぇっっ!!!?」


 書き込まれたそのコメントを目で追いながら、今度はテレビを点ける。

 この時間帯だとまだニュースを放送している所は少ないはずだが、それでもどこかで、と猛は考えた。

 いくつかの局をザッピングしている最中、お笑い芸人が体を張ってリアクションをしている映像の上部に"緊急ニュース速報"のテロップが流れる。

 数回瞬くようにテロップが周囲に注意を引く音を奏でて、そのニュース内容を放送した。

 たった数行のそれはこう書かれている。

 『東京湾内を航行中の白石・グランド・ホワイト海運所有船籍、客船レジェンド・オブ・クレオパトラ内にて複数の銃声を確認。負傷者等の詳細は確認中』




 いい感じにお腹も膨れ、少し一休みしたらファッションイベントに冷やかしに行ってみようと皆で話している所だった。

 運良くか悪くかは判らないが、船外で風を感じながら穏やかな時間を過ごしていた茂たちの耳に、船内各所から小さく何かの炸裂音が聞こえてきたのだ。

 最初は爆竹的な演出だと思ったのだが、どうもそうではない様で。

 ほんの数秒遅れで、スマホ画面に流れる凶行の様子。


「おいおいおい!マジか!?これ、この船の会場だぞ!?」


 スマホの画面に映るライブ映像は、ほぼリアルタイムで送られてくるこのレジェンド・オブ・クレオパトラの混乱を伝えていた。

 唐突にコンサートのラストナンバーにかかろうとしたボーカリストの横にスーツに黒覆面の男が現れる。

 件のロックバンドは曲自体に人気があったのと、そのステージでのパフォーマンスにも凝った演出をしていたことで人気があった。

 今回のこの乱入も、何かの演出だと思った往年のファンたちは黄色い声援を送る。

 音も最初の茂たちと同じく爆竹かなにかだと思ったのではないだろうか。

 ステージ上で動揺しているバンドメンバーの様子も、演出の一環だろうと思いながら。何かを覆面の男に語ろうと近づいたボーカルは、スーツの男が上着に手を突っ込むのを見た。

 次の瞬間にはスーツの上着から出た覆面の手が、握りしめた拳銃で思い切り顔面を殴りつけていた。

 ステージと客席の間の通路へと転げ落ちた彼を見て、演出ではないと気付いた客が、一斉に声を上げる。

 先程までの物とは違う、本気の恐怖を含んだ悲鳴を。


ダンッ!


 その悲鳴の中、空へと向けて、覆面の男が拳銃を発砲。

 音響を考えたコンサートステージでは、その音がとてもよく響いた。

 そして、映像が静止画に変わる。


「うわ、ハイジャック、じゃなくてシージャックか?マジで?コレ、テロリスト犯ってことか?」

「テレビ、テレビ点けましょう!!」


 全員が一斉に室内へと戻り、備え付けのテレビを点ける。

 どのチャンネルもいつもの日々と変わらずバラエティや、クイズや、グルメやらを流していた。

 当然、ニュースを取り扱うチャンネルはどの局にもない。

 時間にして1分経つか経たないか。

 しかし、その映像の上に残酷な現実を告げるテロップが流れる。

 内容は、同時刻に茂の弟、猛が目にした内容と同じ。

 レジェンド・オブ・クレオパトラにて何かきな臭いことが起きたのだということだった。


「……船内地図、探そうか。非常時の脱出経路をまず確認する。どっかのバインダーとかに入ってないか調べてくれないか?」


 落ち着いた仕草でまず茂たちに指示を出す真一。

 だが、ほんの少しだけ体が震えている。

 彼を支えているのは、年長者としての責任感だけだった。

 なにせここへと目の前の3名を連れ出したのは彼であるのだから。

 最低限、この3名に対して真一には大人としてしなくてはいけない責任がある。


「脱出用のボートの確認に、緊急連絡方法、後は周囲の安全確保だと思う」

「……ですね。俺はドアの側で誰か来ないかを調べてみます」


 茂はドアの近くに陣取ると、「気配察知:小」を発動する。

 流石にここ一番のイベントを仮設のライブ会場で行っているため、それを見に行っている者ばかりで船首付近の客室に残っているものは少ない。

 そしてその中で移動している者がいるが、スキルを使った反応からすると、周囲への敵意を発していた。

 恐怖ではなく、明確に敵意である。

 8割9割犯人側、若しくはそれと近しい目的を持つ誰か、ということになる。


「犯人の奴ら、客室の中を確認しているみたいです。部屋の中にフリーパスで入ってるから、多分オートロックは解除されてるみたいですね」

「……少なくても保安部門の管理システムは掌握されたということか?」

「電子キー的なものはおそらく。まあテロリストなら真っ先に保安部門は押さえに行くはずでしょうね。それにどんなに体鍛えても、銃持ってるやつに反抗なんてなかなか難しいと思いますけど」


 真一が汗を吹き出して、それを備え付けのバスタオルで拭っていた。

 温くなった瓶詰のミネラルウォーターの残りを一気に呷っている。


「どうすれば、いいかな?」


 真一が半ば呆然と呟く。

 その質問に尋ねられて答えることが出来るものは普通いない。

 こんな特殊事例に対応できる者など、日本人に求めるのが間違いなのだ。

 パニックを起こして騒がない分、真一の対応が優れているといえる。

 ただ、この場の3名はその分類から少しばかり外れていた。


「とりあえず、ドア封鎖しますか。室内に引き込むタイプのドアだから、持って運べるものをドアの前に積んでいきましょう。それで開かなくなるし。ああ、でも重い家具って床に直留めしてあるんだー。そっか、船だもんねー。……まあ運べるものだけでも運んでバリケード作りましょう」

「茂さん、予備の武器って在庫あります?いくつか貸してくれませんか?後で返すので」

「なあ、この真上、壁伝いに上がっていけばこの図のプールの周辺に出ると思うか?今一つこの図、わかりにくいんだけど。あと、やっぱスタッフ以外立ち入り禁止の区画、どうにかわかる手段って無いかな。この案内図のバーとかレストランとか今は本当にどうでもいいんだけど」

「念の為、バスタブに水張りますよー!」

「お願いー。俺はちょっと外の壁面見てくるから」


 3人がやいのやいのといい合いながら、てきぱきと運び出せるものをドアの前に放り込み、ビス打ちされた家具を茂が引っ込ぬいて簡易的なバリケードを作っていく。

 茂の姿はすでに「光速の騎士」装束である。

 こういう籠城策の場合、火計等の対応策があるが、流石に船内で火を放つほど相手もアホではあるまい。

 さらに茂は外に置かれていた食料品や、ドリンク類を一纏めにして残数の確認を行い、以前使った「聖騎士」のお土産ナイフと、家庭用の包丁を取り出して博人に手渡すと、茂は屈伸運動を始める。


「な、何をする気かね?」


 真一が恐る恐る尋ねると、茂がこともなげに言い放つ。


「ちょっと外の様子見てきます。思ったよりも凸凹してるし、部屋の窓の縁とか掴めば行けそうなんで。助け呼べそうなら呼びますし、ダメそうならソッコーで逃げましょう。あ、なるべく早く戻る気ですけど、ヤバかったら先に逃げても構わないですよ」

「いや、そんな危ないことをさせる訳には!」

「まあ確かに危ないんですけど、どう考えても警察とかそういう人たち来るまで時間、かかりそうですし。動いておいた方がまだマシかなーと思うんで。由美、博人。隣の部屋留守だから、犯人がバリケード突破してきそうになったら、いざというときはそっちから逃げろよ。真一さんのガードは頼む。多分下のフロアから順に部屋の中確認してるようだから、ここに来るのはもう少し時間かかるはずだけど」

「オッケーです。言うまでもないですけど命は大切に。私らじゃ今は足手まといになりそうなのでー」

「……隣のバルコニーまで、結構ギリギリの距離ですしね。足を滑らせて海に落下なんて目も当てられないですから、それは最後の手段にします」

「無理はするなよ。どうにもならなきゃ、降参するってのも考えてな。プロフェッショナルに任せるってのもいいかもしれん。……そういえばこういう救助って海だし、海保とかが担当するの?それとも警察のテロ対策部門?自衛隊?交渉窓口の行先次第なのか?」

「テロ行為ですし、もしかすると茂さんの将来の敵、在日米軍かもしれないですけど?」

「……俺は、皆と仲良くしたい。何で将来的に米軍と戦おうって方向で話し進めるかな、博人よ」


 てくてくと歩いてバルコニーまで出ると、溶接されたテーブルの上の瓶ビールを掴む。

 行きがけの駄賃で残り少なくなったそれをぐびぐびと飲み干し、アイテムボックスへと放り込んだ。


「いってらっしゃーい!」

「んじゃ、行ってきますよぉ。……行きたくないんだけどなぁ、怖いなぁ。はぁ……」


 テーブルの上に登ると、ため息一つとダンッという音を残して「光速の騎士」の姿が消える。

 誰もいなくなったスチールのテーブル天板には、くっきりと凹んだ足形が一つ刻み込まれていた。


「彼は、大丈夫なのかね。相手は銃を持っているようだが」


 真一の心配をよそに、部屋へと後ろも振り返らず2人が戻っていく。


「普通の人間相手なら、逃げるだけならどうとでもできますよ。茂さん、抜けてますけど基本的に慎重派ですから。きっと隠れてこそこそ動くでしょうし。あと、多分鎧とか着込んでればレベル15前後だし、拳銃くらいなら1発2発当たっても死なないんではないかと」

「トラックに撥ねられて痛たた、で済むってそういう事です。まあ慎重派って言い方変えるとビビりともいうけどねー。さて、テレビテレビ。ギリギリまではここで籠城ということにしましょうか」


 人知を超える超人の耐久性についての説明を、元超人たちから受けてもどうも安心しきれないが、ここは従うしかない。

 真一は部屋に戻ると、テレビを見ることしか術がなくなっていたのだった。




 粗末なパイプ椅子に座らされているのは、今回の生配信に際し、船内で撮影した映像を撮影していたチームの責任者で、アロハシャツの男だった。

 その両サイドに2人が座り、正面には先程ステージ上でバンドのボーカルを殴打した男もいる。

 全員が顔を隠す覆面や目出し帽をしている。

 右の側に座る男がアロハの耳元で彼だけに聞こえる様に囁いた。

 パイプ椅子の前にはテーブルが置かれており、その前にはスピーカーで通話状態にしたスマホが置かれている。

 そして、プロンプターが1台、起動状態で置かれていた。

 通話先の表示はネットテレビ「ハイパーエンジョイ」、略してハイエンの本社となっている。

 周りには誰もいない。

 コンサートの観客、演者含め全員が別の場所へと移動させられている。

 "あの気持ち悪い"何かに連れられて、だ。

 銃を持っていても言葉で抵抗する者もいたにはいたが"アレ"をみて以降全員がおとなしく従った。

 穂高としても色々なものを見てきた人間だという自負はあるのだが、"アレ"は何だったのか。

 おぞましさと寒気が彼の背中に奔ったのは何時ぶりだっただろうか。


「では、話せ」


 右側に陣取る男が耳元でささやいた。


「わ、私は現在、レジェンド・オブ・クレオパトラ内のコンサートステージ横でこの電話をしています。私は現場プロデューサーの穂高です。ほ、本社聞こえていますか?」

『……聞こえている。こちらはハイエン本社企画推進部の東山だ。ハイエンの専務でもある。社長は現在不在のため、私が最上位の役職者だ。こうやって連絡してきたということだが、要求があるのだとは思う。何が目的なのかを聞かせてもらいたい』


 くいと、覆面が顎をしゃくり、穂高がプロンプターを読み上げる。

 元々はコンサートの司会用のそれが今はテロリストの言葉を代読させる機器として利用されていた。


「これから先、この男に我々の要求を代読させる。……まず最優先でハイパーエンジョイへ1点指示する。現在中断されているレジェンド・オブ・クレオパトラの配信映像を即時再開すること。その際には提供のCM等映像を中断させるような映像の挿入は一切許可しない。連続したこちらからの配信映像を全国へ流し続けること。これが許可されない場合には、人質の安全を保障しない」

『……軽々に出来ることではない。……時間が欲しい』


 覆面の横にいる男がプロンプターと直結させたPCを操作する。

 カタカタとキーボードが打ち込まれ、新しく表示された文章を穂高が読み上げる。


「……これは指示である。拒否は認めない。即時の再開とは"即時"である。今の返答は拒否であると判断した。ひ、ひぃっ!!せ、制裁を加えるっ!!」

『ま、待てッ!!』


ダンッ!!


 スマホの向こうにもわかる一発の銃声。


「ひっひっひっ………」


 ひきつけを起こしたように過呼吸気味になった穂高の声だけが、その場に響く。

 横に置かれていた資材のゴミ山に向けて一発発砲したのだ。


『何をしたんですか!?誰かに危害を加えるなんてことは、ゆるさ……』


 ドンッ!


 覆面がスマホを置いた机を強く叩くと、東山の声が止まった。

 崩れ落ちそうな穂高を無理やりに引き起こし、髪の毛を掴んで、再度プロンプターの画面を見せる。

 先程までの文の後に続きが入力されている。

 助けを求める様にして周りを見ると、覆面が頷いた。

 読め、という指示だ。


「い、いま、今のは警告だっ。つ、次は誰かが間違いなく怪我をすることになるっ!現在時刻は、8時28分。よ、45分までに配信が再開されなければ、1名ではなく、複数を対象に制裁を加えるっ。我々には日本の各所に協力者がいる。かれらは君たちのハイエンの映像を他の視聴者と同様にスマホ等で現在も視聴している。その彼らから映像が視聴できていると連絡があれば、次の要求について連絡をさせてもらう。無論、視聴できなくても連絡はする。当然、こんな騒ぎだ。警察が到着している頃だろう。彼らに相談してもいいが時間はあまりないぞ。な、何だって?っ、うそ、嘘だろ!?」


 最後の文章を見て、穂高が叫ぶようにして目の前のテロリストたちに叫ぶ。

 前のめりになった彼の肩を両サイドの男が押さえた。


『穂高!?どうした、穂高ッ!』


 東山がスマホの向こうから叫ぶ。

 映像ではなく、音声だけであるため東山にはどうして穂高が大声を上げたのかが分からない。


「あ、アンタら。正気なのか!?こんなことしてても、正義だとか、やっちゃいけない事があるって、そういう守るべき一線ってモンは無いのかよ!!」


 先程までとは違う。

 穂高の中に有るのは恐怖である。

 それは間違いない。

 だが、それを上回る激情が迸る。

 これは、憤怒だ。


かちり……


 わざわざ、穂高の耳元で聞こえる様に拳銃の安全装置が外れる音がした。

 ごくりと自分が唾を飲みこむ音すら聞こえる穂高の耳元で、今度は逆サイドの男が囁く。


「サッサト、ヨメ」


 たった一言であるが、日本人のアクセントではない。

 奇妙な"訛り"のある命令を発し、男が目出し帽から覗く青い瞳で穂高を睨む。


「……彼らに相談してもいいが時間はあまりないぞ。……その際に犠牲になる複数には、船内にいた子供を含むことをここで宣言する。確実に、間違いなく、子供が君たちが拒否すると死ぬのだと理解した上で動いてほしい。我々としては無駄な血が流れない事を祈る……ちくしょう」


 恐怖を上回る憤怒。

 穂高には5歳になる息子がいる。

 結婚してからしばらく子供が出来ず、やっと授かった我が子だ。

 当然この船内にはいないが、家できっと母親と夕飯を食べ、今は風呂にでも入って寝ようかどうしようかというところだろう。

 あまり良い父親であると自信はないが、子供を愛していると誰にも臆することなく断言できる。

 子供が、好きである。

 だからこそ思うのだ。

 子供を盾にしてこんな要求をするこのテロリストたちに。

 確かにどうすることも出来ない。

 だが、それでもこのクソどもに対して湧き上がる気持ちは止められない。


『待て、それでも時間……』


ぷつ……。


 東山が話している途中で通話が切断される。

 近くに置かれたモニタにハイエンのネット配信が映っていた。

 先程の銃声から"お待ちください"の画面に切り替わり、そのままで流され続けている。


「良いアナウンスだったよ。次の連絡をするまでの時間、しばらく別室で休んでくれたまえ」


 ぱちぱちと手を叩く覆面の男。

 彼を睨む。

 真っ直ぐ、しっかりとした目でこの目の前のクズを睨む。

 穂高は決めた。

 人命がかかっているのだ、従う、彼らに従うと決めた。

 だが、決して脅されようとも何があろうとも、心だけは屈してなるものかと。


がたん!


 ぐいと掴まれて、無理やり立たされる。

 恐らく別室へと移動されるのだろう。

 穂高は手を握った。

 血の気が引くほどに強く握った手は内出血をして少し血がにじんでいる。

 だが、その手に今朝抱きしめてきた我が子の温もりを感じた気がした。

 普通に考えて、ただの勘違いだとは思う。

 すこし興奮しているから、体温が上がったのだろうとも。

 だからこそ、鈍い痛みを感じながらも穂高はさらに強く強く手を握りしめた。




 コンサートステージは船首屋外に設置されている。

 軽い日よけや雨避けになる構造物がある以外は吹き抜けで空が覗く設計になっている。

 つまり、その真上はただただ夜空が広がるばかりであったはずだ。

 しかし、そのステージをななめ上から俯瞰で見ることのできる位置で何かが蠢いた。

 すっかり暮れた星空が広がるだけの暗闇の中、ほぼ垂直の壁面に何かがへばりついてる。

 黒い、何かだ。


がさっ……


 限界近くまで引き絞られた弓にも似た左腕が、"槍"を矢として今にも放たれようとしていた。

 だが、それがゆっくりとほんのわずかな衣擦れの音と共に、元の位置に戻され、"槍"は何故か中空へと消えていった。

 そして誰にも気づかれぬまま、狙われていた覆面の男にも当然気づかれぬまま、その何かは再び壁面を登っていったのである。


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