3-0 A面/B面 のち 異質
熱い、茹だる……。
皆さん、体調と天候の急な変化にはお気をつけて、お盆をお過ごし下さい。
「ん、……ぬぐぅ。ぐ、くぅぁぁぁっ……!」
ごそごそ、ばさっ!
奇怪な声を上げたのは杉山茂であった。
綺麗にベッドメイキングされたベッドで軽い寝息を立てていたが眠りが浅く起きてしまったのである。
奇声と共に跳ね上げた上掛けを手繰り寄せ、右手でぐしぐしと顔を撫ぜながらいつもの部屋でない場所で起床する。どうもしっくりと寝きった気がせず、少し体の奥に疲れが残っている気がする。
シャワーを浴びた後に、そのまま床に就いた茂の頭は見事なくらいにてんでバラバラの方向に寝癖がついている。手櫛で額に張り付いた前髪を掻きあげ、ベッド横の照明スイッチを欠伸をしながらぱち、と入れた。
「んー? 朝かぁ……。ねみぃ……」
煌々と光る天井の照明に眩しそうに顔を顰め、ずるずるっとベッドからずり落ちるようにして床へと這い出した。体にさらさらとしたホテルのロゴ入りの備品の薄い部屋着が擦れて音を発てる。
サイドボードに置いたリモコンでテレビのスイッチをONにすると、朝のワイドショーが流れていた。
ようやく深夜にチェックインしたビジネスホテルであるが、まあ正直なところ可もなく不可もなくといったいたって普通のビジネスホテルである。
テレビに小さな冷蔵庫、一人用の湯沸しポットにドライヤー、簡単なアメニティ各種。無線LANの案内とそのパス、税別三千円でフロントにて貸し出しているノートPCの案内文。当たり障りのない周辺の観光案内と、ホテルのサービスの料金表。ちょいとお金のかかるペイチャンネルの案内に、新聞のテレビ欄をコピーしたA4の紙。
まあ、普通のビジネスホテルである。全く特記することはないホテルであった。
「……やばい。このままだと、寝る」
床に這い出して数秒ほどぼーっとした瞬間、ベッドのシーツに顔をうずめて突っ伏す寸前にまで意識が飛んだ茂は、ワイドショーの音声をBGMにして寝入りそうになった鉛のような体を起こしてシャワーに向かう。
道すがらタオル掛けに置いてあるバスタオルと、タオルをひっつかんでユニットバスへと消えていく。
テーブルとその前の椅子には着ていた服が簡単に畳んで引っ掛けてある。
スマホやガラケーはテーブル上に充電器に繋がれて転がっており、ピッチャーとガラスのコップには飲み残しの水が少しだけ残っている。
館内の非常口と自販機などの配置図がテーブルに置かれており、これだけが部屋のアンケート記入用の使い捨てのボールペンでぐりぐりと位置を確認するように丸やら矢印やらが書き込まれていた。
こういった状況の最中であるから非常時の逃走経路の確認は必要である。とはいえ、ホテル宿泊時には本当は何かあった時の脱出ルートを確認しておくのが大切なのだ。
そこらをないがしろにしている人も多いとは思うが、せめて非常経路くらいは見ておくと良い。
そんな大事が早々起こることはないとタカをくくっていると、いざというときにパニックになってしまう。転ばぬ先の杖というやつだ。
ざーーーーーー……
ユニットバスの扉越しにシャワーの流れる音が聞こえ始めた。
そして朝が始まる。
今日もまた、各々の朝が始まる。
さて、茂が寝ぼけ眼を擦り擦り大あくびの中ベッドから這い出し、朝の身支度を始めようとするそれと同時刻。
ただし、こちらは同時刻ではあるが“夜”である。
場所は地球を半周ほど移動した北米某所。黒塗りの高級車がゆっくりとホテルの入口に横付けされる。
ホテルのドアマンがその高級車に素早く移動すると、後部座席からもう夜も遅いというのにきっちりとしたスーツで身なりを整えた男が降車する。
手には使い込んだブリーフケース一つだけというその男、白石雄吾はそのままホテルへと入館した。
その際にほんの少しだが感じた違和感をおくびにも出さず、表情は鉄仮面のままで。
(……おそらくはジャーナリストだな。フライトの情報からここを張っていたということか)
日本からここまでのフライトで約十三時間。ホテルまでの移動も含めればもう少し加算されるだろう。それまでの時間で張り込みの態勢を整え、待ち構えていたということだ。
日本の政局が不透明になりつつある中、白石雄吾という世界的企業のトップが訪米するとなれば、だれか米国の有力者との会談がされると推測されるのは当然のことである。
一部のニュースメディアでは横澤総理との非公式の会談がされた件もリークされている。
まあそれをリークしたのは白石グループの息のかかっているマスメディア、というか四ツ田による情報公開であるのだが。
(さて、これで一応横澤総理の意向には沿った重石としての役は果たさせてもらった。ここから先の動きはあちらでどうにかしてもらうが……)
ホテルの中まで突っ込んでくるパパラッチじみたジャーナリストはいなかったようだ。
さすがに一流の上に超がつくようなホテルの警備と一悶着起こすのは避けたのだろう。大物御用達のこういったところで揉めると後々ひどいしっぺ返しを食らうことはマスメディアとて認識している。もっと切羽詰まった重大ニュースがあれば話は別だが、今は遠くからの監視に留めることにするのは判断としては間違っていない。
「お待ちしていました、ボス。お久しぶりですね」
ホテルのラウンジで連絡を入れていた男が雄吾を出迎える。
すらりとした長身に、ぴしっとした高級スーツを身にまとった五十代のアフリカ系男性。
差し出された手を雄吾は握り返す。
「もう私は君のボスではないがね。直接顔を合わせるのは三か月ぶりくらいだな。壮健そうで何よりだマーティン」
雄吾はにっ、と口元に笑みを浮かべるとマーティンと呼ばれた男はそれにも増してこちらが気持ちよくなるほどの笑顔を見せる。
にかっ、と笑った真っ白な歯がまぶしい。
「いえいえ。私にとってユーゴ・シライシはたとえ関係が途切れたとしてもボスであり続けます。あなたと義父、そしてMJは私にとって永久に尊敬すべき殿堂入りの男性たちですから」
「過分な評価痛み入るよ。それはそれでうれしいことだが、まずは先に片づけることがある。……誰になったかわからないが、客人はどこにいる?」
そう雄吾が言うとマーティンが上着の内ポケットから二枚のカードキーを取り出す。
先導するようにエレベータに向かい歩き出すマーティンを雄吾が追う。
磨かれた大理石の床と革靴がこつこつと靴音を二人分奏でる。
ほどなくしてエレベータホールに到着するが、二人は一般の宿泊者が乗り込む三基とは別に分けられた奥に置かれた一基へと向かう。
エレベータ前にはホテルのスタッフが一人立っており、マーティンと雄吾を見て頭を下げた。マーティンがそれを気にすることなくエレベータの前まで移動して雄吾へと話しかける。
「三十二階にあなたにお休みいただく部屋を準備しました。……ゲストはその二フロア下の三十階にて待たせています。……お疲れとは思いますが」
取り出した二枚のうち三十二階のフロア行きのカードキーを雄吾に手渡し、マーティンは残ったカードキーをVIP用のエレベータの入口に置かれた認証器へとかざす。
ぽーん、と音がしてエレベータが開くと二人が乗り込む。ゆっくりとドアが閉まり、何も押していないのにエレベータが上昇していく。開く・閉めるや緊急連絡のボタンはあるのだが、それ以外の本来あるはずの階数ボタンが無い。
エレベータ入口の認証器を通してのみ通行可能な仕様であり、カードキーを持たないものはそのフロアに移動することもできなくしてあるのだ。
まさに秘密の話をするには格好の場所と言える。
「構わんよ。寧ろ一日足らずでここまで手配してくれたことに感謝している。……マーティン、上の娘さんは今年カレッジ入学で、私の記憶が確かなら下の子も先月が誕生日だっただろう? 今回の件で迷惑をかけた分だ。遅ればせながらそのお祝いということでね。受け取ってほしい」
エレベータで二人きりになったところで雄吾の側もブリーフケースをかぱ、と開けて一番上に仕舞ってあった小さな袋を二つ取り出す。
マーティンの前にすっ、と差し出すと先ほどのにかっ、というものではなくうっすらと噛みしめるような笑みを口元と目元にうっすらと浮かべた。
「……そこまで気を使わなくてもよろしいのに」
「性分だ。ただ都合がつかなくて妻に相談できなかったものでね。私の趣味で選んだアクセサリーだからな。幾分若い娘にはジジ臭いかもしれん。そんなに高い品でもないし、気に入らなかったら連絡してくれ。次は娘にでも選んでもらうことにしよう」
おどけた調子でそう言った雄吾にマーティンがぶんぶんと首を振る。
「いえいえ、娘たちはあなたのファンでもありますからその心配はないでしょう。それより娘さん、……ミユキ嬢とはその程度はお話しできるようになったので?」
「先日のシージャック以来な。……不謹慎かもしれんがそれだけが不幸中の幸いだ」
ぽーん、とエレベータが到着の合図を告げて、がー、とドアが開く。
一歩踏み出した雄吾は、ドアの開いた瞬間から向けられる無遠慮な視線にさらされた。
このフロアには部屋は三部屋しかない。そのうち一番奥の部屋の前に恐らくSPと思しき黒スーツにサングラスをかけたガタイの良い男が二人立っている。
廊下には歩哨役の同様の格好の男が歩いていた。
「……客人は奥の部屋にいます。鞄は私がお預かりします」
ブリーフケースをマーティンに手渡すと、雄吾は歩き出す。
ドア前のSPがスーツの手首に仕込んだマイクで連絡を取っているのが見える。
ドア向こうの客人、それが雄吾の今夜の大一番の相手となるわけだ。
「こんな夜分に申し訳ない。何せおおっぴらにあなたと会うにはリスクが大きいものでね」
「ええ、あなたにとっては確かにそうでしょうな。……こちらもあなたが出てくるとは少々予想外ですから」
ぎゅ、と力強く握手をしてくる男に負けじとこちらの意思を見せるために少しばかりいつもより強く手を握り返す。
その強さにふっ、と柔らかな笑みを浮かべた男は入室してきた雄吾を入口で出迎え、そのままテーブルまで案内する。
ふかふかとした高級な絨毯が足音を完全に吸い込んでいる。寧ろ足元がそれでふわふわとして落ち着かないくらいであった。
「まあ、お掛けくださいミスタ・シライシ。長いフライトの後にこんな可愛げのない男とサシで会うというのは面白くないでしょうしな」
「いえ、あなたがいるということでそちら側が十分に礼を尽くしてくれているということが分かりましたので、非常に満足していますよ。……マーティンへの礼は追加で何か考えることにします」
テーブルに座った雄吾とその目の前の恰幅のいい白人男性。
ダグラス・ファン・ゼーネロイド。
奥にいた秘書官と思しき女性が持ってきた紅茶がサーブされるのを見ているこの男は、現アメリカ政権の政策ブレーンの一人である。
特に東ヨーロッパに明るい知見がある、対欧州政策においてかなりの発言権を持つ人物であり、さらに言えば現大統領の前回の大統領選挙における選挙資金の供出先グループの一員でもあった。ただの金持ちというわけではない。
彼の属する軍産複合体のコングロマリットは、時に一国の政治指針を百八十度変えることもしでかすのだ。
時にはダグラスの属するグループの敵対者として、時にはタッグパートナーとして関わってきた白石グループのトップとしては虚を突かれた形となった。
少しばかりばつの悪そうな顔をしているマーティンの姿が雄吾の視界に入った。
(……動いてみたところ、予想外の大物が釣れたということか。……おかしな状況になったわけだ)
マーティン・キングストンは過去、白石雄吾の優秀な部下であり、そして信頼できるビジネスパートナーであった。それは彼が三年前まで北米での白石グループのシェアの拡充に粉骨砕身していたことと、雄吾がそれに対する代価としてシライシ・アメリカの社長職に彼を任命していたことからもわかる。
マーティンが自身のステップアップのためにシライシ・アメリカの社長を退き、現政権の経済政策について外部顧問の一人として招聘されて以降も、雄吾は電話などで連絡を取り合う仲であったのは事実である。
その伝手を使っての今回のアメリカでの会合はもう少し大人しい所に落ち着くはずだったのであるが。
ちょうどいいレベルの店で食事をしようとしたらメイン料理がとんでもない金額のものだったとでも言えばいいだろうか。
「……今回、ミスタ・シライシが会うはずの当方の関係者だが、私が無理を言って席を譲ってもらったのだ。事態が色々と混み合ってきたのでね」
「そうですか。……私としてもここでミスタ・ダグラスとお話しできる機会ができたのは幸運かもしれません。……話が上に行くまでどの程度時間が掛かるかと思っていましたので」
そういって雄吾はマーティンにブリーフケースを持ってくるように手で合図を出した。
部屋に入る前に簡単に危険物でないかどうかのチェックをされているが、さすがに中身を検めるような不作法はしていなかった。
白石雄吾、ダグラス・ファン・ゼーネロイドともに相手の機嫌を損ねるようなファーストタッチは避けたいと思っていたからである。
雄吾は出向いてきた客人に対する礼を、ダグラスは無理を通した負い目からであるが。
「……商人というのは、そういう回りくどいところが公家の奴らと似通っていてなぁ。どうも好きになれんのだ、俺は」
マーティンが雄吾の傍に立ったところで、テーブルから少し離れたソファーから声が聞こえてきた。どこか呆れたような声色で、わざわざ聞こえるような音量で言い放ち、最後に大きくため息までしてみせる。
離れた位置にいて、照明を少し落としていたせいもあるが、雄吾は全く気づいていなかった。そこにいるような気配が全くしなかったからであるがどうやら部屋に入室してからずっとそこにいたのだろう。こんな状況下で周囲に警戒していたというのに全く気付かなかったことに雄吾は動揺を隠しきれない。
雄吾たちに背を向けている声の主は、そのソファーの前に置かれたテーブルに空になった酒瓶を数本並べて、手には丸い氷の入ったグラスをかろかろと音をさせながら琥珀色の液体をくゆらせていた。
瓶のラベルから値段の張るアイリッシュウィスキーであるのはわかったが、その瓶の数量からして一人でそれを空けていた場合、確実に人のアルコール摂取量の閾値を超えている。
さらに異質なのは雄吾を含め全員がスーツ姿であるというのに、そいつは黒いパーカーという非常にラフな姿でいるということだ。フードをかぶり、雄吾の位置からは顔は見えない。違和感がそこの一点で強く光っていた。
「……ミスタ・シライシ。実は私以外にもう一人紹介する者がいてね。まあ、あなたも見たことはあるのではないかな」
ダグラスが発言すると、その黒パーカーはグラスを手にして立ち上がる。グラスを持つ手の逆には棒状の何かを掴んでいる。
いや、日本人であればすぐにわかる。それは、鞘に入ったつばのついた刀であった。
黒パーカーはぐい、とグラスを呷り琥珀の滴を数滴だけ残し空にする。
そして振り返る。
「……これは、ミスタ・ダグラス。あなた以上の驚きだ」
「ほぉ……。さすがは一角の大商人。そういった反応で済むとは思わなんだ。只人にしては、見どころがある。ク、クカカカッ!!!」
黒パーカーはからからと笑った。
しかも本来の彼の母国語であるはずの“日本語”ではない。黒パーカーはこの場の全員がわかる“英語”でからからと笑っている。
彼は日本語ではなく、ダグラスにも通じるように流ちょうな“英語”で雄吾に話してきたのである。
そして近づきながらフードを取り払う。
雄吾の思った通りの顔がそこにある。
「お初にお目にかかる、白石雄吾。俺は巷では「骸骨武者」などと呼ばれている。ただ、貴殿が俺を呼ぶならば……」
VIPしか入れないアメリカの超高級ホテルのスイートで真っ白なしゃれこうべが、雄吾に楽しげに語りかけてきていた。
(……本当に、本当にすみません、ボスッ……)
心の中でマーティンは深く深く雄吾へと謝罪を繰り返していた。




