それでも、彼女たちは曲げようとはしない
ゴールデンウィークが明けた。とはいえ、何かが劇的に変化することはない。その証拠に、次々と登校してくる者たちはみんな、休みの間のことよりも、これから始まる学校生活についての文句を垂れ流している。
だから、その日登校した僕も、ゴールデンウィーク以前と同じように教室の自分の席で時間を潰す。それも、変わらない僕の日常だった。
「おはよう」
そんな僕に挨拶をしてくる奴がいた。見上げれば、そこには葉加瀬。
「おぉ」
まさか挨拶をされるとは思ってもみなかった為、正直驚いた。それが、声音に顕れてしまったのが酷く恥ずかしい。
「なんか久しぶりって感じじゃない?」
「いや、数日前に会ってるだろ」
「そうなんだけどね。……あっ、それとこれ。必要だと思うし渡しておくね」
「……はい?」
そう言って葉加瀬が渡してきたのは『退部届け』。見れば、葉加瀬はもう一枚それを所持している。
「なんだよ、これ」
「分からない? 退部届けだけど」
「いや、それは分かる。だが、これを僕に渡してくる意味が分からないと言ってるんだ」
「なんで? この前祭りの時に入宮さんが話してたじゃん」
その、如何にも摩訶不思議! みたいな表情には呆然とするしかない。
「……いや、僕は――」
「私も演劇部辞めることにしたから」
「はっ?」
唐突に告げられた葉加瀬の言葉に、再び訳がわからなくなる。何をどうしたらそうなるのか説明して欲しい。
「私考えたんだよね。どうしたら私の夢を実現できるのか。どうしたら、私が幸せになれるのか」
「なんだよ、いきなり」
「私は今まで、演技って誰かに成り変わることだと思ってたの。登場人物の気持ちを理解して、登場人物のように振る舞う」
「……それが演技だろ?」
「でもさ、それってかなり不自然じゃない? だって、私が私以外の誰かになることなんて絶対にできないもん」
「いや、だからそれが演技なんじゃ――」
「私、あの時の烏丸くんには成れない」
『あの時』。それだけで、どの僕を言っているのか直ぐに分かった。分かったからこそ、言葉を失ってしまう。
「絶対に……成れない。男とか女とかそういうことじゃなくて、私はあの時の烏丸くんには成れない」
葉加瀬は、噛み締めるようにそう言った。
「そう思っちゃった時、私は演じることの意味を履き違えてた事に気付いたの。きっと演技って、誰かに成り変わることなんかじゃなくて、どんな状況でも私らしく在ることなんだと思う」
「……つまりどういうことですか?」
「うーん。つまりね?」
葉加瀬は腕組をして、少しうんうんと悩んでから答えた。
「もしも烏丸くんが監督さんだったら、『どんな役も完璧にこなしてしまう人』と、『どんな役にも自分らしさを出してくる人』どちらをキャスティングする?」
「完璧にこなす人だろ?」
すると、葉加瀬はフフンと鼻を鳴らして勝ち誇った。
「分かってないなぁ。じゃあ、どちらが自然な演技を出来ると思う?」
「……いや、完璧にこなす人だろ? なんたって完璧なんだから」
「そこだよ。烏丸くん!」
いきなり葉加瀬はスビシッと僕に向かって指を差した。
「完璧な人なんていないから。だから、答えは後者なのです」
「だったら『完璧な人はいない』っていう前提を最初に言えよ……。そういうのをインチキ問題って言うんだぞ」
「え? だって完璧な人なんていないじゃん」
まるで「何言ってるの?」と言わんばかりの顔に、僕はため息を吐く。
観察眼とかは凄い鋭いくせに勿体ない……。葉加瀬みたいなのは、間違いを見つけるのは得意だが、それを正すことが苦手なタイプだ。そういった者たちは、まず最初の段階で間違えない。だからこそ、端から見ればかなり優秀に見えてしまう。そして、間違えた時には人一倍苦労するのだ。
「で? それがなんで退部と関係してくるんだよ」
「それはね」
ちょうど、葉加瀬がそう言った時だった。
「葉加瀬さんと烏丸くんはいる?」
空いてる教室から凛とした声で入ってくる者が一人。僕は、その声を知っていた。
「あっ、入宮さんおはよー」
葉加瀬は、僕との会話をぶったぎり、教室に現れた入宮きねりに手を振った。
「……ありがとう葉加瀬さん。あなたが居なかったら、危うく見過ごすところだったわ」
言いながらズカズカと入ってくる入宮。どういうことだよ……見過ごすって。何を? 誰を?
「話があるからついてきて」
目の前まできた彼女はそう言うと、再び教室を出ていく。それに何の言葉もなく従う葉加瀬。残された僕をクラスメイトたちがジッと見つめてくる。それに耐えきれなくなり、僕は仕方なく二人を追った。……なんなんだ、一体。
そして、行き着いた先は案の定屋上。
「なんだよ、朝から」
ようやく言葉にできた問いに、入宮は一枚の紙を見せてくる。また退部届けかと思ったが、よく見ると違った。そこには、『部活動申請書』と書かれてある。
そして、記入欄には既に入宮の字が並んでいた。
「……推論、部?」
そう言うと、入宮は頷く。
「そう。これが、新しく私たちがつくる部よ」
「なんで推論部なんだよ」
「達成感より充実感、それが答えよ」
「……解説を聞いても?」
「えぇ。私たちはみんな、未来に答えを求めてる。自分達がやりたいこと、願うこと、それを必死に答えにしようとしている。でも、その答えは果たして本当に現実になるのかしら? 答えはNOよ。必ずしもそうなるとは限らない。だから、今ある現状で答えを求めようというのがこの部の目的。ありもしない未来を夢見るより、今ある現在で未来を決めていこうってこと。つまり、目標を達成するのではなく、達成できる目標の為に頑張ろうってことなの」
「だから、推論か」
「そういうこと」
「で? 何故、僕は呼び出されたんだ?」
「あなたも推論部の一員だからよ。言ったじゃない?」
入宮は不機嫌そうに答えてみせた。いや、だから……。
「僕は、ああいう人間なんだぞ? そんな僕を部員にして良いのか?」
おそらく、『ああいう人間』だけで伝わったはず。すると入宮は、葉加瀬と顔を見合せて、それから僕に向き直る。
「烏丸くん。あなた少し傲ってるんじゃない? あなたがどんな人間だったとしても、私が変わると思ってるの?」
入宮は真っ直ぐに僕を見て言い切った。それはもう、清々しいほどにハッキリと。
「まぁ、確かに少しビックリしたけれど、あなたは結局ボディガードとしての役割は果たしたわ。そこは評価してあげる」
「……どうも」
「けれど、やっぱり納得はできない。烏丸くんの言い分はそれらしいことを並べてはいるけれど、結局結果論に過ぎない」
「結果が全てだろ」
「だから、それを正してあげるわ」
「……正す?」
「えぇ。それが間違いだって、還付なきまでに思い知らせてあげる」
こいつは、何を言ってるのだろうか。僕は本気でそう思った。
「僕を変えるだと?」
「えぇ。このままいったら、あなたはきっと犯罪者として生きなくてはならなくなるわ。だから、それを正してあげる」
「いや、傲りはお前だろ。僕を変えるなんて出来るはずがない」
それは、僕自信でさえ出来なかったのだから。
「忘れてない? 私は医者の子よ? 目の前の重症患者を見過ごすわけにはいかないの」
「僕を勝手に重症患者にするな。確かに、少し傷を負ってはいるが、たいしたことはない」
それに、入宮はため息を白々しく吐いた。
「自覚症状がない人はみんなそう言うのよね……可哀想に」
「烏丸くんは、もっと深刻に考えた方がいいよ絶対!」
入宮の意見に、葉加瀬も賛同する。これで二対一。
「というか、何故、葉加瀬も関わってくるんだ」
「私も推論部にはいるから」
予想していた答えに、僕はもう呆れるしかない。
「本当に良いのか? お前が辞めたら、いよいよ演劇部は廃部なんだぞ?」
「さっき言ったじゃん。私は私らしい演技をすることにしたの」
いや、それは聞いてないぞ。
「だから、私が私らしく入れそうな部に所属することにしただけ」
「それが推論部なのか?」
「というより、入宮さんと烏丸くんが、かな? 入宮さんには他の人みたいに合わせなくていいし、烏丸くんにも気を遣う必要ないしね」
葉加瀬が躊躇なく言った言葉に僕は呆れてしまう。……それ、殆ど悪口だろ。
「たぶん、それは二人がいる今しか出来なくて、今出来ないことを明日やれるわけないじゃん? あっ、これ推論ね」
そんな疑問系の推論があるか。
「まぁ、私としても葉加瀬さんが入ってくれるのは助かるわ。烏丸くんの矯正は大手術になると思うし」
「知ってるか? 手術って、本人が同意しないと出来ないんだぞ?」
「知ってるかしら? 緊急手術は、本人の同意なしに出来るのよ」
「あっ、じゃあ烏丸くんは受けるしかないね」
「お前ら……。なに? 僕はそんなに酷いのか?」
「酷いってもんじゃないよ、ねぇ?」
「えぇ。たぶん、このままだと持ってあと……ごめんなさい。余命宣告をしてしまうところだったわ」
「余命宣告言ってる時点で殆ど宣告しちゃってるだろ……」
「患者さんには細心の配慮をしないといけないわね。卑屈な心がもっと歪んでしまうもの」
「配慮の欠片もないな……」
もはや入宮とのやり取りも慣れたもの。何を言われても動じることが少なくなった。
「まぁ、とりあえず推論部をつくるから、よろしくね。あと退部届けも出しておいて」
それから、入宮は手に持っていた『部活動申請書』を僕に向かって差し出してきた。
「……なんだよ」
「一応、烏丸くんも書いてくれる? 三人書いてみて、最も申請されやすそうな奴を出すから」
「私も書くの!?」
「当たり前でしょ? 期待はしていないけど」
「うわぁ……プレッシャーだなぁ」
今、流したなこいつ。
「まぁ、放課後までに書いてくれれば良いから」
「この、顧問の欄は決まってるのか?」
僕は、申請書の顧問教師の名前を書くところを指差す。
「取り敢えず都合の良さそうな教師を探してみるわ。まぁ、演劇部は廃部確定だから、そこから当たってみるつもり。いざとなれば、天文部も潰せば良いじゃない。南川先生は、私の理想とする顧問だしね」
こいつは教師のことを何だと思っているのだろうか? というか、彼女の顧問理想像は聞いてはいけない気がする。
「それじゃあよろしくね」
そうして、入宮は先に屋上から出ていってしまう。
「……実はね、あの日の後に入宮さんと話し合ったの」
葉加瀬は入宮が出ていった扉を見つめながら、唐突にそう言った。
「確かに、烏丸くんの行動にはビックリしたけどさ……よく考えると烏丸くん、私たちを守ってくれたんだよね。そこは、ちゃんと分かっておかなきゃって思ったし……それに、あの日はホントに楽しかったし」
それは何故か、自分に言い聞かせているかのようでもあった。
だから、僕がそれに何かを言うことは憚られる気さえした。
「そういうことだから。……じゃあ、先いくね」
彼女はそう言い残して、逃げるように走り去っていく。僕は、それを見つめることしか出来ないまま。
違う。僕は、あいつらに嫉妬しただけだ。だから、叩きのめしてやりたかっただけなんだ。
彼女たちを守ったのは、あの日入宮が言ったように『確率論』に過ぎない。一歩間違えば、とんでもないことになっていたのは事実なのだ。
それでも僕は、彼らが許せなかった。そんな、矮小で下劣な考えを自覚しておきながら。
なのに。
僕は、それを二人に伝えることが出来なかった。




