『ブレイヴイマジン』プロローグ①
暗い、黒という色さえも知覚出来ないような、底なしの闇。
自分の周りを、情報の残骸とも表白すべき流体が落下していくのを感じる。目には見えないのに、自分には理解の及ばない不定形なものの気配だけがそこにあるというのは、何だか非常に不気味な感覚だった。
確には、落下しているのは俺の方だ。「ブレイヴイマジン」のサーバーに直接感覚ニューロンを接続された俺は、今そのシステム内を急激な速度で潜行している。膨大な情報の海に、俺は成す術もなく引き込まれているに過ぎなかった。
──これが本当に、単なる処理なのだろうか?
文目も分かぬ闇の中を何処までも落下していくような、この得体の知れない不安を伴うフェイズを経ねば、脳神経接続を使用したこのゲームは、開始する事が出来ないのだろうか。
他の被験者たちはどうなったのか。
落下し続け、何処かにこの闇の果てがあったとして。
固い地面に叩き付けられる衝撃をも、インターフェースは五感に完全再現してしまうのだろうか。その時、どれだけ膨大な痛覚信号が生身の体に流れ込む事になるのだろう。そのショックは、どれ程のものだろう。
「黒田さん!」
俺は、仮想の口を開いて叫んだ。俺をポータブルレントゲンにも似た巨大なインターフェースに繋ぎ、サーバーとの接続を開始した開発責任者の名を呼んだが、彼からの応答は当然のように送られてこなかった。
この動作が正常なのか、或いは致命的なエラーなのか。
せめてそれだけでも知りたい、と思った時、遥か遠くに白く、微かな点が浮かんでいるのが見えてきた。視覚の不具合か、とも思いかけたが、それは確かにこちらに存在し、こちらに接近してくるようだった。
あれは、出口なのか。あの向こう側へ飛び込めば、この果てしない暗黒の中から脱出出来るのだろうか。
「エヴァンジェリア……」
俺は新たなる精神の桃源郷──仮想世界の名を呟くと、次第に大きく見え始める光へと手を伸ばす。対象から光の円環が生じ、俺を取り囲むように上昇してくると、頭の方へ抜けていく。
直後、俺は光の中へと落ちた。
その眩しさに、思わずぎゅっと瞼を閉ざした。
* * *
「『ブレイヴイマジン』は、世界初の五感接続型VRソロ用RPGです」
会見で、株式会社レーラズのプログラマーにして本作開発の最高責任者・黒田薛里氏はそう言った。
「近年はメタバース空間の開拓──敢えて開発ではなく、この言葉を使わせて頂きます──が進み、ゲームの世界はオープンワールドへとシフトしつつある。そのような趨勢に抗い、敢えて我々がこのようなソロシステムを採用した理由については、端的に申し上げれば私個人の憧憬、或いは我儘と言うべきでしょう」
昨年、レーラズから『ブレイヴイマジン』の企画と開発について中間報告的な発表があった際、それは日本国内にセンセーションを巻き起こした。当時はゲームというものに無縁の日常を送っていた俺も、その発表やそれに伴う同級生たちの興奮から、事の重大さは否応なく知らざるを得なかった。
五感をフルに活用し、仮想世界を”体験する”のではなく、そこに”行く”という事。アクションには広大な現実の空間が必要となり、傍から見れば滑稽とも捉えられかねない肉体の動きを必要とする従来のVR技術が、完全に内宇宙とも呼ぶべき精神空間でそれを可能とした事。
それは、電子を用いて新たな現実世界すら、創造を可能にするものだった。
分かりやすい例を挙げるとすれば、映画『マトリックス』の世界だ。人々は外から見れば、眠っているようにしか見えない。だが、自分と意志や感覚を共有する仮想体を持ち、ニューロンの活動がダイレクトにそこに反映される。接続された人間には、その世界がもう一つの現実であるようにしか感じられない。
近年発達してきたVR技術の極致ともいえる、その神経接続システムを利用したゲームがソロプレイ専用であると明かされた時、世間では様々な意見、賛否両論が巻き起こった。
メタバースの無駄遣いだ、開発コストがいたずらに蕩尽されている、というのが反対派の意見だったが、それは無理のない事ではあった。
従来のソロプレイ用ゲームであれば、視覚・聴覚情報のみで事足りたデータが、何倍にも膨れ上がるのだ。それをプレイヤーの人数分呼び出すとなれば、サーバーへの負荷は計り知れない。間違いなく不具合は頻発する事になるし、それを解消しようとすれば、世界最高峰クラスのスーパーコンピューターが何台必要になるか知れたものではない。その導入も行えばレーラズ社は赤字になりかねないし、ソフトやインターフェースの値段は途方もない額に設定せねば、利益は出ない。結果として、富裕層の選ばれた者にしか楽しむ事の出来ない選民思想の産物となる、というのが、その主張だった。
だが開発グループは、その緊縛に果敢に挑戦していった。と無謀を履き違えた、呆れたチャレンジャー精神だと批判も相次いだ中で、会見にて黒田氏は熱を込めてそれを語った。
「少年時代、私にとってRPGの世界はロマンでした。内向的だった私は、架空の存在とはいえ仲間を得、なりたい自分で在れ、魔法を使い、冒険をし、楽しんでいるうちに世界を救う事も出来ました。それを、自己の内面世界への韜晦と、切り捨てる事は誰にも出来ません。ゲームとは本来、そのようなものです。
近年ではMMO(Massively Multiplayer Online:大多数同時参加型)が主流となりつつあり、ロールプレイングという言葉は演劇論、作劇法的な世界観の構築、もう一つの現実世界に対する希求へと肉薄しつつあります。しかし、私には無何有の里的な絵空事の世界、いわゆる『剣と魔法の世界』と呼ばれるファンタジーへの憧憬が、いつしかオンラインでは付きまとう現実世界の影から逃れ得ないという事を痛感するようになりました。
その最たる要素が、イベントやクエスト、そしてボスの扱いです。一度自分の解決した事件、救った世界がもう一度逆行する事……それは、オンラインゲームの宿命とも言うべき制約です。一度誰かによってクリアされた事はもう挑戦が叶わない、別のプレイヤーはもうその冒険を行えないという設定をすれば、ユーザーたちにとってフェアではなくなります。しかしそれは私にとって、詮ない事と割り切るには大きな引っ掛かりでした。
特に神経接続型VRゲームの制作という企画が浮上した時、私には没入を許されたその幻想世界、子供時代のロマンが、紙芝居のような浅薄なものに終結してしまう事が、どうしても看過出来なかった。無粋な事を考えずとも楽しめる、少年漫画のような冒険を心から熱望した。
中毒、といってしまえば、それまでかもしれません。しかし、私は一度見た夢を、何処までも妥協せず追求したいと思いました」
最終調整はまだ済んでいないし、どのようにして電脳空間と個人の間で神経接続を行うのか、という課題は残っていた。
一応、脳に電極を突き刺すなどという手段を採らずとも神経との接続が可能となるようなインターフェースは、構想が出来ているという事だった。実際に臨床実験を行ってみた結果、それは成功したのだそうだ。しかし、可能かどうかという大前提をクリアした次に待っているのは、民間に普及する為にそれを小型化するという新たな課題だ。
「インターフェースの小型化を行う為には、まず電気信号の出力値と感度、神経的負荷の継続可能時間を調査する必要があります。そこで今年十二月二十日、実際に開発中である『ブレイヴイマジン』の世界を利用し、臨床試験を兼ねたプレイ体験会を開催します」
黒田氏は、会見でそう宣言した。
その宣言が、全国のゲーマーたちの熱狂に拍車を掛ける事となった。
* * *
五十人。それが、体験会の募集定員だった。
会場である新宿を中心に、全国で二千五百人強の人数がそれに応募した。熱狂の割に少なかったような気もするが、距離の関係、そしてまだリスクが分かりきっていない神経接続に対し、いざ募集が開始された時に土壇場で不安を再燃させた者も多数居たからだった。
俺も、凄いとは思ったが安全面がパスされないうちに、自分の体を実験台のように差し出すのは怖い、という気持ちも否めなかった。それでも、高校三年、来年には卒業となる俺がそのような時期に応募したのは、受験が終わり進路先が決定していたから、という理由ではなかった。
「永野はさ」
数少ない、友人になれるかもしれないと思っていた同級生に言われた言葉は、俺の中で呪縛へと変わりそうになっていた。
「頭いいのに、何でそんなに勉強するの? 無駄じゃん」
俺が受験の結果志望校に落ちた時、俺を単なる優等生として見ていた同級生たちは動揺を見せた。そして、今年度は自分たちの合格も絶望的なのではないか、と囁き合い、自ら不安の淵に自分たちを追い込んでいった。
そしてその頃、既に合格が決まっていた者たちの堕落が見られ始めた。残りの評定は無関係だ、というその一部生徒の態度が、同級生全体のモチベーションの低下に繋がっていた。奇しくもそういった状況で発生した「永野健斗の不合格」は、まだ及第の確定していない者たちの意気を削いだ。
「永野は確かに、第一希望とは違う道を選ばなければならなくなったけど、それはまた合格した人には出来なかった経験だ。これを糧にして、また考えればいい。永野は頑張れない奴じゃないだろう?」
担任教諭は、二者面談の時そう言った。俺は「はい」と答え続けながら、無責任な事を言う、とずっと思っていた。
頑張る事など、気持ちの持ちようだ。それをしないのは、当人の意志だ。俺は、自分の目指すものの為にそれをしてきたのだ。それなのに、何故そう流れ作業のように容易く”次”を求めようとするのか?
更に担任は、「第二希望は何処だったか?」と尋ねてきた。俺は、一年次から第一希望のみを決定してそれに向かっていた為、考える余地などなかったと答えた。担任は俺に同情を見せながらも、危険な事をしたものだ、と遠回しに非難するような事を言ってきた。
「まあ、俺も永野が落ちるとは思っていなかったけどさ」
呪いはまた一つ、こうして俺に課された。
一朝一夕に第二の志望校を定め、準備をする事など出来ないうちに、やがて生徒たちの間である言葉が交わされるようになった。
「永野健斗に越えられなかった壁を、俺たちが越えられるはずがない」
俺はクラスに居るうちに、その瘴気に近いものへと変質した空気を吸う事、そしてその中心に自分が居る事を苦痛に思うようになった。期待されるのも、失望されるのも嫌だった。
だから、逃げ出した。
「お前、ちょっと休んだ方がいいと思うよ」
最初に「無駄じゃん」と言った博輔とは、友人の振りを続けていた。生徒同士の絡みを見て教師が席替えを行う学級で、俺と彼は既に三回程連続で前後または左右の位置になっていた。
固く、コミュニケーションが取りづらく、不愛想な優等生である俺は、勉強や作業に於いては何かと頼られる、というより物事を悪意なく押し付けられる事が多かったが、それ以外の交友に於いては孤立しがちだった。「あいつは独りで居ても大丈夫な奴だし、勉強しているみたいだから誘わなくていいか」というような判断を、これもまた悪意なく行われがちだった。そんな俺にとって、最初に俺に話し掛けてくれ、私的な時間を共有出来る彼の存在はありがたかった。それだけに、彼から自分の頑張る理由を否定された時には、それが他の誰から下される評価よりも一層手酷いものに感じられた。
「お前さ、一生懸命にやって出来なかったんだから、それはもう仕方ないだろう。このままじゃお前、病むぞ? 少しくらい息抜けって」
博輔はイヤホンを嵌め、授業中から点けっぱなしにしていた机上のノートPCで動画を流しながら無責任な事を言ってきた。彼は夏のうちに面接のみで専門学校に合格しており、最早受験戦争で慌ただしい学年の事など意に介さず、奔放に日々を送っていた。
「……抜けないよ。合格出来なかったのは、俺の頑張りが足りなかったからだ」
日々の切迫感と睡眠不足のせいで、やたら苛立っていた。俺はその時、博輔のPC画面から懸命に目を逸らしながら応答した。
「永野に無理な事なら、誰が出来るんだって話だよ」
「それでも、合格者が居たから俺は落ちたんだ。普通の事じゃないか」
「じゃあ、運が悪かったんだ。こんな俺でも、合格出来た場所はあった訳だし。探せば永野にだって」
「……過程を見ないでものを言うの、やめてくれないかな」
俺は呟くと、顔を伏せた。
幾らでも言いたい事はあった。お前と俺では、そもそも目指している場所が違うのだ。お前は努力しなくても何とかなる場所を選ぶから、才能か運かでしか物事を見られないのだ。自己満足に俺を巻き込まないで欲しい。俺の事など、何も分かっていない癖に──。
しかし、口を開けばそれを怒涛の如く吐き出してしまいそうで、俺はそれからただ沈黙し続けた。それは、博輔の言葉に進んで流されたくなる自分を、抑える事でもあった。
「だからさ、少し息を抜けよ。少なくとも俺は、お前が凄い奴だって事は分かっているつもりだ。俺に出来ない事が出来る。だから俺は、少しくらい休んでも大丈夫だと思う」
本当にそうするかどうかはお前次第だけど、と彼は言った。
結果として、俺は逃げた。学校からも自分からも、自らの意志に基づいて脱落する事を決めた。受験戦争から遁走した俺は、自室に引き籠った。