第二王子の毒手(後日談3)
第二王子の執務室での化粧直しも終わり、熱さましのような余韻に浸る、いつもの時間。
マルティナは、冷めてしまった外側の熱と、冷めやらぬ内側の熱が、どちらも切なくて自分の心と身体を持て余していた。
だから、ソファの隣に座るニコラスの言葉を半分近く聞き逃していた。
「――え、なんか……。もういっかい…」
「…だから、今度、君の家に泊まらせてほしい」
言葉の意味を頭の中で一つ一つなぞってから、ようやく意味を理解する。
「――ど。ど、どう、どうして?」
「うん、まあ。…そうだな、最近、少し忙しくて疲れているから」
「え。そうなの?」
「そう。そういう事で、できれば、かくまう目的で、休ませてほしいんだけど」
「し、しっかたないわね! それでいつがいいの? 日取りは? 日時は? 場所は?」
「…場所は君の家。日時は、五日後。ギビンズ家で催される夜会の後がいいね」
「五日っ? そんな、急に……お父様とお母様に――お父様は田舎屋敷に帰ってしまったし、お母様は秋の旅行に出てしまったのに、どうやって報告を。宿泊する許可なんて、間に合うかどうか」
「両親が居ないのは知ってる。けど、許可は必要ないよ。当日は、馬車で家まで送ったあと、体調不良を装って屋敷に泊まらせてもらうから問題ない」
問題は大いにある気がしたが、マルティナは、そんな些末な部分は早々に切り離して、ニコラスを出迎える準備に意識を飛ばした。
屋敷の清掃やら、客室のメイキングやら、食膳の手配やらが頭の中を駆け巡るが、それ以上に、ニコラスをもてなす準備を自分一人で取り仕切っていいことに心が躍ってしまう。
「ただし、あくまでも偶然を装うから、屋敷の清掃とか、客室のメイキングとか、晩餐の手配だとか、絶対にしないこと」
「――!」
「いや、だから、突然体調を崩したんだと装うためだから」
マルティナは、愕然とニコラスを見つめる。
頭の中で思い描いていたおもてなしの絵図を、容赦なく叩き落とされてしまった。
「分かったなら、返事は?」
ニコラスは何のフォローもしないどころか、横柄に承諾を求めてくる。
しかし、もっともすぎる正論に言い返しようがないマルティナは、せめてもの抗議にそっぽを向いてみせた。
「返事」
再度、承諾を迫る声に、それでも顔をそむけたままでいれば、さらなる釘が打たれる。
「ちなみに、出迎える準備とか素振りを少しでも見せたら、その時点で中止になるから」
反射的に振り返ってしまったマルティナは、その先で待ち受けていたブラウンの瞳とまともにかち合った。
ゆっくりと細める目に込められているのは、良からぬものだと分かっているのに、ニコラスがそうやって笑みを作るのを、マルティナは見逃すことができない。
結局、承諾の二言を口から引きずり出されるのに時間はかからなかった。
ギビンズ家で行われた夜会に出席し、ニコラスは第二王子として、マルティナはその婚約者として、互いの役目を果たした後、計画したとおり、マルティナのオルブラント家の街屋敷へと二人で向かった。
その道中、次第に落ち着かなくなっていったマルティナは、同乗者を相手に「階段でのエスコートが悪くて転びそうになった」だの「だれだれの夫人と、どこどこの娘への社交辞令が過剰すぎる」だの、さんざん悪態をついてしまったが、当のニコラスはどこ吹く風で、機嫌よさそうに外の景色を眺めていた。
やがて、オルブラント邸につき、正面玄関に横付けされた馬車の戸が開かれると、マルティナは事前に打ち合わせてあった一芝居を打って、出迎えた男性使用人たちにニコラスの体調不良をうったえた。
焦るあまり、どこか叱りつける口調になってしまうが、彼らは取り立てて気にもせずにニコラスへと肩を貸し、馬車からゆっくりとおろす。
それでも相手が第二王子ということもあって、場は少し騒然としながらも、ニコラスはそのまま男性使用人に支えられながら玄関ホールへ入り、ゲストルームへと連れられて行った。
マルティナは、御者に王城への伝達を言いつけ、医者の手配を確認する使用人に、一晩だけ様子を見ることを告げると、自分もドレスの衣装替えに向う。
およそ一時間かけて身支度を整えたころで、ニコラスは寝巻に着替えてベッドに入ったことを人伝えに知らされた。
マルティナは、体調うかがいと称して、ニコラスにあてがわれた客室を訪れるが、当然お付きの侍女であるグレイスも同席しようとするが、元来、気の弱い彼女は、マルティナが強く言えば、何も言えなくなってしまう性格のため、廊下に置いていくのは簡単だった。
扉の前に立ち、ノブに手をかけたマルティナは、未だに緊張していた。
ニコラスのいる部屋に、これから入っていく。
いつもの逢瀬と似てはいるが、今日のニコラスは仮病を使って自分の家に泊まっていくという、決定的な違いがある。ドキドキするなという方が無茶だった。
物音を立てないよう、ゆっくりと扉を開ければ、ニコラスは拍子抜けするくらい普通にベッドの上で横になっている。
何か言うのを待ってみたが、彼は瞼を閉じてこちらを見もしないので、しぶしぶ部屋へと入り、扉を閉めた。
ニコラスはまだ動かず、マルティナは慎重に距離を詰めていく。
つい先ほどまで着ていた華やかな盛装から、飾り気のないリネンの寝間着姿に着替えているが、たったそれだけで、事実、病の床にあるように見えてしまうから不思議だった。
まさか、本当に眠ってしまったのかと顔を覗き込めば、ようやく瞼を開く。
こちらの立ち位置を正確に把握していたように、ぶれない視線でじっと見つめるが、ニコラスは枕に頭を預けたまま何も言わなかった。
「――な、何か言いなさいよ。こっちは、まったくの善意で家に泊めてあげているのよ。お、お礼とか、感謝の言葉とか」
沈黙に耐えられず、マルティナはまくし立てた。
「……そうだね。じゃあ、ありがたく休ませてもらおう」
そう言って、ニコラスはふたたび瞼を閉じた。
え。と、マルティナに動揺が走る。
「…ニ、ニコラス?」
声が小さくなってしまったのは、疲れているから休ませてほしいという彼の要望があったから。
政務の合間の睡眠を下手に邪魔できなくて、けれど、何かが物足りないマルティナはそわそわしながら、彼の寝顔に目をやった。
幸いというべきか、顔の表面には、これといった疲労は見受けられない。
肌はきれいだし、目の下に黒ずみもできていない。唇もしっとりと潤っている。
「…………」
ニコラスの唇。
自然とそこに視線がそそがれていた。
よみがえるのは、マルティナがとてもよく知っている感触。
引きずられるように、普段ちっとも思い通りにならない相手の唇を、自分の口紅で染めた時の、得も言われぬあの充足感まで思い出してしまう。
マルティナの喉が、こくりと鳴った。
きょろきょろと、周囲に誰もいないことを確認してから、そっと顔を近づけた。
「――何してるの?」
目の前で、唇が喋った。
弾かれるように体を起こせば、ニコラスが枕の上からこちらを見上げている。
「君は、病人に何をしようとしているの?」
「――で、でも、病人じゃ」
弁明を図ろうとするも、先にニコラスが続けた。
「使用人たちは、僕がいま体調を崩してベッドに入っていると知っているよね。それなのに、君の口紅が僕の口についていたら、君が病人に何をしたのか明白じゃないの?」
いっきに頬が熱くなる。
「だったら――」
反論を口にしようとしたが、言おうとした言葉が言えなくて、マルティナはきゅっと唇を引き結んだ。
だったら、ニコラスの唇についた口紅を、事の後できちんと拭えばいいと、すぐに思いついていたのだが、自分の口から言うのはためらわれた。
しどろもどろと時間を要していたら、部屋の扉がノックされる。
それは、廊下にいる侍女が、時間切れをマルティナに知らせる合図だった。
マルティナは、大きな不満を残しつつも、侍女グレイスとともに自室へ戻った。
自室に戻っても、この時間にやることといえば、美容や美容法の勉強にいそしんだり、教養のための文学を多読するぐらいだが、家の中にニコラスがいると思うと、とにかく落ち着かなくて、それすらまともに手につかない。
かといって、休みたいというニコラスのお願いを無視して、彼がいる部屋に入りびたることもできなかった。
一人で悶々とするあまり、扉をノックする音にも気づけないでいると、それに応対していたグレイスが、吉報を持ってきてくれる。
彼女が手にしていたのは、ニコラスからの書留だった。
書留の内容は、要約すると夜半時にゲストルームで密かに会いたいから、そのためにも、自分の侍女に人払いを頼んでおくようにというものだった。
名状しがたい感情が爆発しそうになったが、そこは貴族の令嬢として自らを律し、普段通り、ちっとも気に留めていない素振りを、どこからどう見ても不自然じゃない態度で、完璧に装っておいた。
マルティナは、ニコラスの書留どおり、グレイスに人払いの手配をさせるが、必然と自室で待機することになったマルティナは、ますます落ち着けなくなった。
結婚前の男女が、深夜のゲストルームで――つまり、寝台のある部屋で二人っきりになる。
これまでの逢瀬でも、ニコラスには体をさんざん触れられているけれど、それ以上の一線を越えるつもりがないのは、衣服を乱されたのが最初の一度だけで、あれ以降はまったく気配すらないことからも分かっている。
そもそも彼は“休み”に来たのだから、そういう事にはならないと頭ではわかっていたが、高鳴る心臓が簡単には納得してくれない。
読書でも手習いでもなんでもいい。とにかく何かしていたくて、侍女の姿を探したが、彼女はまだ帰ってきていなかった。
約束の夜半には、まだまだ時間が有り余っているのだから、まったく問題なかったのだが、侍女の手際の悪さに気を揉んでいると、はっとした。
人前でいつもおどおどばかりしているあの子が、どうやって使用人たちを言いくるめて人払いを、それも深夜という邸内の見回り時にするのか。
しかし、さすがに考え過ぎかとも思う。
グレイスは、いつも頼りなさげにはしているが、不思議と頼んだ仕事で失敗したことはなく、今回もそつなくこなすだろうと考え直そうとしたが、やはり、今回だからこそ、どうしても気になった。
マルティナは部屋を出て、グレイスを探しはじめることにした。
道すがら出会った使用人にグレイスの居場所を聞きながら探そうとしたが、どうしてかなかなか人に出くわさない。
まるで人払いがすでに済んでいるかのように人気のない廊下を歩き回っていれば、やがて視界のはしに動くものをとらえる。
通りかかった窓の外に見えたのは、ニコラスだった。
「……?」
ゲストルームで休んでいるはずのニコラスが、屋敷の裏口付近を散策している。
彼は、迷いのない足取りでどこかへと向かおうとしており、窓からじっと見ていれば、今は使われていないはずの古びた厩舎の中に入って行ってしまう。
マルティナですらほとんど入ったことのない場所に消えていくニコラスに、妙な胸騒ぎにかられたマルティナは、一もニもなく彼のあとを追いかけた。
速足だった足が、いつの間にか忍び足になっていることに気づきながらも、どうにか荒れた厩舎の入り口付近までたどり着けば、誰かと誰かの話し声が聞こえてくる。
一人は男の声で、ニコラスのものに違いなかったが、もう一人は、女の声だった。
一瞬にして胸の内がざわついた。
入り口から顔を出して、中をよくよく目を凝らして見れば、暗がりから見えてきた二つの輪郭は、とてもよく知っている姿をしている。
どう見ても――見間違いだと思おうとしても、ニコラスと侍女のグレイスの姿をしていた。
どういうことなのか。
自分の侍女とニコラスが、向かい合って話をしている。
あの気の弱い侍女が、主人の目を盗んで、主人の婚約者と二人きりで会っている。
どういうことなのか。どういうことなのか。
ただ事務的な話をしているだけならば、まるで忍ぶように会う必要はない。
これはいったい、どういうことなのか。
二人の声は聞こえるのに、何を話しているのかが聞こえないもどかしさに、マルティナはしびれを切らして入り口の前に飛び出していた。
最初に気づいたのはグレイスだった。まるで、不貞の現場を目撃された女のごとく目を丸くした彼女に、憎悪と嫌悪がふくれあがる。
少し遅れて振り返ったニコラスも目を見張ったが、マルティナは同時に口を開いていた。
「どういうこと?」
ニコラスは答えず、侍女グレイスに一瞥をくれる。
それから思案するように、マルティナの顔をしげしげと眺めた。
出くわした場面の説明をしようとしないニコラスに、マルティナははげしく動揺する。
「せ、せつめい、説明しなさいよ……説明……」
これは違うのだと、ただの誤解だと、言い訳をして欲しいだけなのに、ニコラスは、それとは正反対に口元を手のひらで覆ってみせた。
わざわざ手で遮るほど、隠したいモノがあるように、あたかも見えた。
マルティナの視界から侍女は消えていた。自分でも知らずに、ニコラスとの距離を詰めていく。
目の前から不当に隠されたモノを無理やり暴こうと、ニコラスの腕をつかめば、あっさりとはがれて、マルティナの手元まで引き下ろされた。
再び素顔を現したニコラスは、素知らぬ顔でマルティナを見下ろす。
「何を疑っているのか、だいたい察しはつくけど……君が思っている通りの事が、例えばあったとして、だとしたら、君はどうするの?」
「――…え?」
「まずは、君が婚約者の心変わりを許して、これからも表面的な婚約を続けていくか、もしくは許さずに、破談を申し立てて、別々の道を行くかだけど………」
腕をつかんだままだった、マルティナの手に力がこもる。
だから、どうしてもっと最初にすべき普通のことを言ってくれないのか。
耐え切れず、マルティナは自分から口火を切った。
「――い、言い訳をして。違うんだって言って。誤解だって……そうすれば」
すると、虚を突くように、ニコラスの両手がマルティナの頬を両手で包んだ。
突き放すような物言いが嘘だったかのように、ひどく優しい手つきで頬を撫ではじめる。
「どうして? 疑えばいいよ」
「――なん…?」
「いいよ、言い訳をしてみよう……君は誤解している、君の侍女は、部屋からいなくなった主人の身を案じて、ここまで探しに来ただけ。そんなたわいもない場面に出くわしただけなのに、君は早合点をして、婚約者の不貞を疑っているにすぎない、と弁明したとしよう」
一瞬の安堵もつかの間、ニコラスは容赦なく切り捨てる。
「でも、どうだろう。もしかしたら、君の侍女をかばうために、とっさの嘘をついたのかもしれないね」
悲痛にゆがむマルティナの両頬を、ニコラスはくすぐるように撫でるが、しかし、わざとだとしか思えないくらい、意に介さない。
「だから違うよ。君の侍女と僕は、そんな関係じゃない。これは断言する。でも、君の方は? それを信じられるって、君の方は断言できるの?」
「――わ、わたし?」
「そう、君。僕がどう弁明したとして、別の理由をこじつけて疑ったりしないって。言ったことをそのまま信じられるって言いきれる?」
「…………」
答えられなかった。ニコラスの言う通りだった。
いくら言い訳を求めたところで、彼が言っていることが事実だとは限らない。不審な点などいくらでもあげつらうことができるのだから、求める言い訳に際限などなくなる。
「だから、疑えばいいんだよ。信じろなんてそんな胡乱なものを、言い出す方も聞き入れる方もどうかしている」
どこか諭すような声は、甘言にまみれていた。
「疑って、疑って、疑って、疑って、どんどん一線を越えていけばいい」
「――う、疑われて、嬉しいの?」
「嬉しいよ」
心底嬉しそうに笑うニコラスに、マルティナは戸惑った。
「いいことを教えてあげる」
トーンが落ちて、声の甘みが強くなる。
「実はね、今日ここに泊まりに来た本当の理由を言うと、君の侍女にちょっとした話があったんだ。彼女には、ずっと前から頼みごとをしてあったから。君が毎日、何をして過ごしているのか、事細かに報告してくれるようにって」
マルティナは、反射的に離れた場所にいた侍女のグレイスを見た。
彼女は驚いた表情でニコラスを見ていたが、マルティナの視線に気づくと、わずかに目線を泳がせ、そのまま何も言わずに目を伏せた。
肯定か否定か、どちらともつかない仕草に気分を害していると、無防備になっていた片耳に向かって、ニコラスがささやいた。
「そう。その彼女を使って、君が何をしているか、事細かに報告させている。……要するに、僕の方も君をまったく信用していないってことだね」
どこが“いいこと”なのか。見向くマルティナにニコラスはかまわず続ける。
「今までは秘密にしていたけど、これからは君に隠さず、知らせておくのもいいかと思って……そうすると、どうなるか分かる?」
分かるはずがない。
彼が言わんとしていることがはっきりしなくて、もどかしくてならないのに、ニコラスはマルティナの髪をひとふさ耳にかけてから、つとめてゆっくりと語りだす。
「これまでも、君の生活は僕に筒抜けだったけれど、これからは、君もそれを分かっていて生活するんだよ」
「…………」
「僕はそこに居ないし、実際には見てもいないけれど、どんな人間とどんな話をしたか、どんな食事をしてどんな本を読んだか、どんなドレスを選び、どんな髪型に決めて、どんな瞬間に口紅を引いたか、そんな些細な身振りで手振りですら、侍女を介して僕に伝わっている」
ぞくりと、遅れて背筋がわなないた。
「毎日、毎時間、ことあるごとに僕の気配を感じられるとしたら――君は嬉しい?」
嬉しいなんてものじゃなかった。
数秒間、体の自由が利かなくなるほど、濃度の高い何かが体中を駆け巡った。
耳に障るほど角ばっていた甘言が、ようやく腑に落ちた。
どろどろと溶解していく感覚に身体をふるわせながら、マルティナはニコラスへと尋ねる。
「――ニ、ニコラスも嬉しいの?」
彼は笑う。既視感のある笑顔に、すでにしている質問だったことに気づいて、それから返事はもう貰っていることにも気づいた。
マルティナの胸が、どきどきと高鳴る。
「なら……なら、私も同じことをしていいの?」
疑って、疑って、どんどん一線を越えていっていいのなら、マルティナも同じようにしていいことになる。
ニコラスの身辺を調べて、監視して、見ていることを知らしめていいことになる。
毎日、毎日、ずっと。
それが叶うのだとしたら、これほど心躍る日々の営みはない。
「でも、いろいろと障害は多いよ。仮にも第二王子の身辺を探るなんて、簡単なことじゃない。まずは、アルバート兄上にお願いして、第二王子のスケジュールを婚約者の権限で開示してもらうところからはじめないとね」
「わたし、殿下に書簡をお送りするわ!」
マルティナは、居ても立ってもいられずに一人厩舎を駆け出していた。
マルティナが消えていった廊下を、ニコラスが黙って眺めていれば、同じくその場に残されていた女が周辺を警戒しながら話しかけてきた。
「……恐ろしい人ですね。あんな土壇場で、あのような嘘が出てくるとは」
主人の前で、猫の皮やら狐の皮やらを被りまくっていた侍女グレイスが、ニコラスの前ではすっかり化けの皮を剥いでくる。
「助けてあげたのに、その言いぐさ……」
事実、グレイスとの密会現場を目撃されたあの時、ニコラスがマルティナの注意をそらしていなければ、彼女は激情のまま侍女を害していたことだろう。
「それに関しては心より感謝申し上げます。もうしばらくは職も失わずにすみそうですし。……でも、いくら婚約者とはいえ、第二王子のスケジュール開示なんて、王太子殿下はお許しになるのですか?」
「お許しにならないだろうね」
「……では?」
「それ以前の話だよ。そもそも侯爵令嬢マルティナ・オルブランドは現在、周囲の人間――少なくとも第一王子から遠い人間からは、愚昧な第二王子を操ろうとしている邪悪な毒婦だとみなされている。そんな人間を第二王子の日程管理に関与させたら、兄上の政治手腕が問われるよ。だから当然、マルティナの申し出はすげなく却下される」
「…………」
「なに? 簡単に口車に乗せられてしまったご主人様が、さすがにカワイソウになってきた?」
もの言いたげな顔をしていたマルティナの侍女を、ニコラスは茶化した。
金銭が介在する主従関係を徹しておいて、いまさら情でも移ったのだというのなら、とんだ笑い話でしかない。
「分かっていないな。マルティナという女を」
ニコラスは優越を込めて言った。
「何年にもわたって、この国の王子に毒を吐きつづけてきた女だぞ。却下されたくらいで諦めるはずがないだろ。すぐに自分から別の手段を探しはじめる。けれど、マルティナも馬鹿じゃない。第二王子の身辺を探る危険性をすぐわきまえるはずだ。だから、虎視眈々と好機を狙っている彼女の本領が発揮されるのはその後、僕と一緒に隠棲生活に入ってからだよ」
この先、マルティナが取るだろう行動を予測してみせれば、想像に難くないのか、グレイスはますますもの言いたげな顔をしたが、あえてだろう、何も言わなかった。
「それまでは君も、マルティナの侍女として助言なり手ほどきなりしてあげるといい。そうすれば、彼女からの不審も完全に――とはいかないかもしれないけど、だいぶ軽減されると思うし……まあ、それでも駄目なら、別の勤め先を紹介してあげるよ」
「……はい。お心遣い重ね重ね感謝いたします」
深々と一礼したグレイスを横目に、ニコラスは歩き出す。
グレイスがあとに続くが、二人とも目的は、この国の王太子に書簡を送ると息まいて行ったマルティナだった。
ニコラスは道すがら、いかに兄のご機嫌取りをするか、自分からの添え状について考えるが、とはいえ、思考の大部分を別の事柄にとらわれていて、まったくはかどらない。
今回のことは、ニコラスにマルティナの美しさを一番に保つための示唆を与えていた。
彼女が最も輝く瞬間はいつなのか。それを考えれば一目瞭然だったのに、当たり前すぎて、あやうく取りこぼすところだった。
閉じた部屋に飾られたマルティナもそれはそれは艶やかだろうが、身の内に飲み込んだしこりをどろどろと煮詰めて、醜態を晒すマルティナがどれだけ凄艶か。どれだけ喜色に満ちているか。
自分から部屋に入ったくせに、ニコラスに疑念の一片を見つけては、部屋からこっそりと抜け出すマルティナの姿を思わず想像してしまう。
ままならない相手の行動を監視するため、物陰から懸命に見つめているかもしれないと、微笑みたくなるような愛おしさで胸がいっぱいになった。
何より、拙いながらも策を弄してきたマルティナを、容赦なくねじ伏せた瞬間に、どんな顔を垣間見せるのか、それを思うと本当に愛おしくてたまらない。
そうした反復を繰り返してこそ、彼女はより完璧な形へ近づくのだろう。
この世に飽きないものがある幸せを、ニコラスは大いに享受しながら、マルティナのいる部屋へと急いだ。
大変大変お待たせいたしました。無事投稿できました。