43.「空に虹がかかるとき」
雨が降りしきる露天風呂には、結衣以外誰も居ない。その静寂が何だか気味が悪くて、だけども彼女を放っておくわけにもいかなくて。だから僕は、わざと雰囲気を打ち壊すかのように湯船へと入って行った。
「……ハルちゃんか」
僕が入ってきたことに気づいたのか、彼女は顔を上げる。彼女の表情は、先ほどとは打って変わって平静なものだった。
「どう、気持ちは落ち着いた?」
「そうね。まあ、事実は受け止めたつもり」
静かに、だけれども務めて優しく僕は声を掛けた。帰ってきた言葉は淡々と、そして抑揚のない口調だ。それはさっきと変わらず、変化はない。一見すれば意思疎通に問題は無いけれども、だからといってそれでもう平気なのかと言われるとそんなわけもないわけで。
「そっか。……それは良かった、のかな」
だから僕は、慎重に言葉を選びながら言葉を紡いだ。だけどもそれを言ってから、後悔をした。事実を受け止めた、というのは結衣自身が踏ん切りをつけるための苦渋の決断なわけで、それは彼女にとって必ずしも良いことではないのに。
「いや、良くは無いよね。ごめん」
「気にしないでよ。これはハルちゃんや眞子ちゃんのせいじゃないし、私たちの問題だから」
彼女の言葉は静かだった。僕たちのせいではない――確かに、世間という視点ではそうなのだろう。でもその気持ちを。結衣が隠すべきだった気持ちを暴露させたこと自体は、僕たちだって責任があるのではないか。
「……うん」
苦い表情でうなづく。彼女が露骨に僕を責めない分、かえって辛かった。何も返せず言葉に詰まっていたそんな時だった。
「そういえばハルちゃんって、恋をしたことある?」
予期せぬ質問に、僕は再び言葉を詰まらせてしまうことになる。
◇
「恋って……ラブのほうの?」
「ええ」
「わたしが? 恋?」
思わず素っ頓狂な声で聞き返してしまった。
でもそれくらい、「恋」って言葉は僕には聞き覚えが無い言葉だったのだ。いや、聞き覚えが無いというわけではない。むしろ、どこかで避けていた言葉というほうが正しいのかもしれない。
「春樹君だった頃を含めてもいいよ。誰かのことを好きで好きで仕方なくて、その人のためにだったら何をしても大丈夫って。そんな人って居たかな?」
「それは……」
言葉に詰まる。本来であれば無い、と即答するべきだがそうとは素直に言えなかった。というのも、僕はそういうことに縁が無くてそれがたくさんある劣等感のうちの1つだったからだ。
そもそも、お世辞にもイケメンだったわけでも無ければ美人ってわけでも無い僕がどうして恋人なんかできるだろうか。容姿でなくても、何か人に負けないという長所があるわけではない。むしろ平均より劣った存在。そんな僕に恋愛なんてできるわけが無かった。
言い換えれば、そういうことをしている人は容姿に恵まれてるか何か光る才能を持っている人であり、そんな人は日陰者の僕からすればまぶしくて見ていられない。
だからこそ、僕は恋という言葉が嫌いだったしむしろ可能な限り避けてきたのだ。自分に縁が無いから、ひがんでしまうから。そんな見苦しい理由で。
「わたしには、そういう人は居なかったかな。だって、あんまりそういうの興味ないし」
素っ気ない口調で答えた。あたかもそういうのに興味が無いと言わんばかりに。
でも本当は、違う。僕だって、人並みにそう言う人は欲しい。僕を大切にして守ってくれる人。あるいは僕が大切にして守るべき人。それがどちらなのかは分からないけど、そういう人は僕だって欲しい。
だけどもそんなことを素直に言えるわけもないし、言葉にしたところで叶うわけが無いことを知っている。だからこそ、言ってからますます気持ちが重たくなってしまった。
「そっか。だったら、ある意味幸せなのかもしれないわ」
恋を知らなくて、そう彼女は続けた。
ある意味皮肉な話だ。皮肉といっても、彼女が僕に対して悪意があって言ったわけでは無い。恋愛に縁が無かったからこそ、僕は傷つくことを回避することができて、結衣は傷ついた。確かに、彼女の言う通りだ。
「恋って辛いものね」
恋というものを知らないがゆえに、傷つくことを避けられた。だけれども、結衣は辛い思いをした。それを見ることが辛くて、彼女に寄り添いたくて。だからそう呟いた。
「ハルちゃんって意外にドS?」
「あっ……」
だけどもそれがまた、思わぬ形で結衣の心に刃を突き立てる形となってしまう。
「ごめん」
そう言って謝る。僕が何かをすると、いつもこうなってしまう。悪くしようとは全く思っていないのに、僕の要領が悪くて結果としていつもこう悪い結果になってしまう。励ますつもりだったのに、結果として傷つけるだなんてそれは友達なのだろうか。
悔しくて、不意に涙があふれてしまう。一番泣きたいのは、結衣のほうだというのに。
「……良いのよ。私を励ましに来てくれたことは分かってるから」
それなのに彼女は、笑みを浮かべながら僕の頭を撫でてそして僕を抱きしめる。一番辛いのは、本当は結衣のはずなのに。
「おかしいよ。結衣は傷ついてばかりなのに」
「それはハルちゃんだって同じでしょ? 私のために気を配ってくれて、本当は慣れていないだろうに私のために色々あってくれて。それなのに私、ハルちゃんに。二人に八つ当たりをしちゃって……」
――そんなことはないよ。そう言ってあげたかったのに、その言葉がすぐに出なかった。そうこうしている間にも、彼女は言葉を続ける。
「結果が伴わなかったのは、私の頑張りが足りなかったから。二人は、私のために頑張ってくれた。本当はお礼を言うべきなのに」
「……そんなこと、言うな」
「……」
僕のほうがしんどくて、でも上手い言葉が見つからなくてそう呟く。こういうのを自己犠牲、って言うのかな。結衣と違って頭が良くないから上手く表現できない。
でも、結衣はちょっと自分を責め過ぎだ。それだけは間違いないと思った。
「良いんだよ? 僕たちには甘えても。辛く当たったとしても、わたしは気にしない。だって結衣は僕があれだけ辛く当たっても、優しくしてくれた。どうして?」
「……私が何とかしてあげないとって思ったから」
「同じこと、そっくりそのまま返してあげる。それが、友達なんじゃないの? 眞子も同じことを言うはずだよ?」
もちろん、「人に当たる」ってことは本来であれば許されない行動なのだろう。だけども、そんなの「表面」だけの関係だ。
少なくとも僕が彼女に期待するのは。いや、そんな上から目線の言葉は止めよう。
僕が結衣となりたい関係は、「友達」なんだ。友達なのに表面だけの関係なんて、そんなのは嫌だ。僕は何でも相談したい。だから結衣にも、何でも相談してほしい。変に気を遣って自分の中にため込むだなんて、もちろん結衣は優等生だからそれくらいお手のものなんだろうけど。
「……そんなに無理してばっかりだったら、いつか折れちゃうよ」
そんな例をわたしは身近で知っている。だってそれは、かつての僕そのものだったのだから。
「はぁ、ハルちゃんがそれ言うのって思ったけど。でも、その通りね」
そう溜め息をついて、彼女は微笑んだ。いや、ただ笑っているわけではない。その言葉と共に、再び目に一筋の涙が浮かんでいた。
「たまには、良いよね」
「いつでも、の間違えでしょ?」
その言葉が、鼻声になっていた。その様子を見て、結衣が笑う。
「鏡みたいだね」
その言葉で、気づいた。僕もまた泣いていたということに。
◇
それから僕たちは、二人で泣いた。涙がぽたぽたとあふれて、湯船に落ちて。涙が涸れるまで、ただひたすら泣いていた。もちろんそれは、そんなにすぐに終わることでは無くてずっとずっと。少なくとも外の雨が鳴りやむまでは、ひたすら泣き続けていたのだろう。
「いつまでも、過去を振り返っていても仕方がない。理屈では分かってるの。でも……気持ちが追いつかない」
そしてその間にも、結衣は涙の理由を話し始めた。
――理屈では分かっている。でも気持ちが追いつかない。それは当然の話だと思った。すぐに気持ちの整理なんてつくわけ無いし、もしそれが出来るのなら世の中に失恋ソングなど存在しないのだから。でもその一言が、なぜか僕にも突き刺さる。
「過去を振り返っても仕方ない、か」
その言葉と共に、不意に脳裏に眞子の顔がよぎった。
「眞子と僕、なのか……?」
どうして眞子のことを頭に浮かべたのか。すぐには理由は分からなかった。
「ハルちゃんと眞子ちゃんに何かあったの?」
「いや……その、だな……」
無いと断言しようとするがうまく言葉に出来ず、そしてその間にも彼女はさらなる言葉を追撃してきたのだ。
「……もしかしてハルちゃん、眞子ちゃんと何かあったの?」
その言葉に、思考がフリーズした。
「はぁ? そんなわけないじゃん!?」
「でもその割にハルちゃん、眞子ちゃんにこだわることが多いよね。どうして眞子ちゃんなの? そもそもハルちゃんにとっての眞子ちゃんって何?」
どうして眞子なのか。そもそも眞子とは僕にとっての誰なのか。
三春眞子という女の子は、僕にとっての親友であり姉のような妹のような存在だ。結衣でいうところの宮川にあたる存在、言い換えればパートナーと言うべき存在なのだろう。それは、お互いの疑うところでは無いはずだ。
「兄弟のような姉妹のような、まあ幼馴染みだよね」
だから僕は、事実を淡々と述べた。そのはずなのに、その言葉がなぜか耳に痛かった。
「つまり私と正ちゃんのような関係?」
「そこから恋愛感情を抜けば、だけどね」
そのはずだった。だけどもそれは本当に正解だと言い切れるのか。僕にとっての眞子は確かにそうかもしれない。でも眞子にとっての僕はどうなのか。彼女はきっと、僕の知らないところにもたくさんの友人関係を持っているし、それどころか恋人だっているくらいだ。それも、一番の親友だと思っていた僕が知らないところで、である。だとしたら、彼女にとっての僕は優先度は高くないともいえるのだろう。
だからそれを素直に認められなくて、今だって心のどこかでモヤモヤとしている。
「要するに、あなたと同じ。僕もまた、眞子と僕は『二人で一つ』だと思っていたのに……現実には眞子は新しい人間関係を作っているんだよね。それで心がモヤモヤとしてるって、ただそれだけの話」
眞子のことをかけがえのない存在だと思っていたのは、実は僕だけだったんだなって。そう最後は独り言を言った。
「そっか。ハルちゃんだってそう思うってことなんだね」
「もちろん本当ならば、それはとても良いことなはずなんだよ? だけども、どこかで納得いかなくてさ。勝手が過ぎるよね、人間って。本当にわがままだよ」
本当に、そうとしか言えなかった。だけどもそんなこと表に出せるわけも無くて、気持ちを押し込めるべきだったから。そう言う意味では結衣に言うべきだったのかと思ってしまった。だけども……。
「そっか。なんか春樹君もハルちゃんもそういうこと考えなさそうだから、ちょっと意外」
そうなんだろうか。僕だって人間だ。人並みにそういうわがままなことだってやっぱり考えてしまう。良いことでは無いのだろうけど。
「僕だって人間だもの。そういうとこはあるよ」
「そうかなあ? 私は、春樹君やハルちゃんに限ってそんな悩みは無いと思ってたよ」
「どうして?」
「だって春樹君は女の子に興味無さそうだし、ハルちゃんも自分のやりたいことに夢中って感じだったから」
その言い方に、思わず苦笑いをしてしまう。だって結衣の言い方が、本当に女に興味の無いつまらない男だ、だなんて言わんばかりの言い方だったのだから。とんだ誤解だ、僕だって元は思春期の男子なのだしそういうことを決して思わないわけではない。
「誤解だよ。僕だって好きな人くらいはいるよ」
「眞子ちゃんのこと?」
「はあ? そんなわけッ!」
予想外の言葉に驚き、その場で立ち上がってしまう。その瞬間だった――。
「わたしが何だって?」
タイミングが悪いって、こういうことなのだろう。いつの間にか浴槽の外には眞子が身体にタオルを巻いた状態で突っ立っていたのだ。
「ちょっ、お前!? いつから?」
状況によっては前後の会話を聞かれていた可能性もある。正直今話した内容は、僕のちょっとダークな一面もあったし、あんまりこいつには聞かれたくないのだ。別に好きだからとか、そういうわけではなくて。
「いつからって、たった今だけど……」
「ホントに?」
「何でそんな必死なの?」
「いや必死じゃないけどさ」
様子を見る限り、本当にちょうど今来たようだ。だとしたらこの会話を聞かれたという可能性はだいぶ少ないだろう。
「なら良かったけど……なんで来たんだよ?」
「え、来ちゃまずかったの?」
「いや別に」
「何それ、感じわるっ」
いや別に聞かれてないなら良いのだ。本当に。
「悪くは無いだろうが。ただ理由を聞いてるだけなのだが?」
「なんであんたのとこに行くのにいちいち理由をつけなきゃいけないのよ。雨も止んだしそろそろ帰ろって言いに来ただけでしょ?」
それなのになぜかつっかってくる。昔からそうだけど、どうしてこいつはこんなにも僕につっかってくるのか。まあ親友ではあるけども、さすがにその言い方は腹が立ってしまう。
「ならそれを最初に言え」
「はぁ? 全裸で腕を組むだなんて品のカケラの無い人に偉そうに言われたくないんですケド」
「なんだと?」
そう言い立ち上がる。ついでにタオルだけは巻いておく。一応女の子なので。
ただその間にも、僕たちの姉妹喧嘩は始まろうとしていた。それにもかかわらず。
「やっぱり、二人はお似合いコンビだよ」
どういうわけか緊張感の無い人間が一人。それが誰なのか、もはや言うまでも無いことだろう。
『はあぁ!?』
よく分からないけど同類扱いされたことに二人で抗議するが、彼女はいつも通りの微笑みでそれを受け流してしまう。
「だって間の取り方が、そっくりだもの」
そう言って、結衣は湯船から立ち上がる。
「さてと、雨も上がったし身体も暖まったし帰るよ」
そういい、彼女は上を指さした。
確かに上にかかっていた雨雲はいつの間にか取れていて、空には虹がかかっていた。いつの間にか雨は止んでいたようだ。でもそれは、天気だけでは無い。
「あれ、結衣……いつの間にあんな明るくなったの?」
眞子が問いかける。それを見て僕はようやく気づいた。
いつの間にか、結衣の表情にも笑顔が戻っていたことに。
◇
お風呂を上がると、雨で濡れた洗濯物は完全に乾いていた。そんなわけで、身体も暖まったし帰るということになった。といっても、別に何か特別なことが起こるわけでも無い。普通に電車に乗って帰るだけである。
三人で並んで座る。最初は簡単な会話があったけど、電車が動き出してしばらくしないうちに二人は寝ついていた。
「一日色々あったものね」
ラッシュとは逆方向のせいか、僕たち以外は車内に誰も居ない。おかげで、僕の独り言も空へと消えてしまう。
始まりは色々と要らない心配ばかりしてしまったが。いや、最後まで心配することばかりだったけど、思えばあっというまに終わってしまった。今思えば、もう一回くらいはこういうことがあっても良かったのだろうか。もっとも、実際のところは二度目なんてこりごりなのだろうけど。
そんな感じで一日を回想して再び二人を見つめる。僕の隣で寝ている眞子と結衣は、いつの間にかお互いが寄り沿い合って眠っていた。たった一日とはいえ、その一日がいろいろあった。そのおかげで、より絆が強くなったということなのだろうか。だとしたら、苦労も多かったけど収穫も多かったということなのだろう。
って、ノスタルジーに浸っているわけにも行かず家族に夕飯の連絡をしようと携帯電話を取り出す。その時だった。
「宮川?」
待ち受け画面には、宮川からメッセージが届いているという通知があったのだ。そういえば、午前中に連絡先を交換したのだけども……これまたどうして?
無視するわけにも行かず、とりあえずメッセージを確認するのだが……。そこに書かれていたのは、よりにもよって結衣の様子を尋ねるものだった。
「自分で振っておいてね」
なんて都合のいいことなんだか。だったら未練がましく結衣のことなんか気にせず、スパッと切ればいいのに。中途半端が一番人を傷つけるわけなのだから。
だけど……それでもこのメッセージを送ったということは、宮川も内心では結衣をばっさりと切れなかったということなのだろう。それとも自分が悪者になりたくなかっただけなのか。
ともかく、どうするべきかと結衣に尋ねようとする。だけども、結衣たちの寝顔を見れば自ずと答えは出てきた気がした。
「なるほど、それが解答って訳か」
メッセージを打って、送信ボタンを押す。電源を切るのも面倒で、携帯電話の画面が付いたまま鞄へと放ってそのまま結衣の肩に身を預けた。
「……あんたのことなんて、私は知らない」
結衣に代わって、独り言つ。その一言こそが、きっと結衣なりの宮川への仕返しの言葉なのだろう。きっと。
43話です。結衣の恋を応援するという内容がこの章の筋になっていますが、実はそこにはもう一つ大きなテーマが入っています。そして次回以降の数話でそのテーマが明かされることになります。
章自体が長くなってしまいましたが、もう少しお付き合いくださいませ。
2019/7/26 追記
章をここでいったん区切りました。以降の後書きでも、章が長くなった旨が記載されていますが、こちらについても順次反映していきます。




