Ex. 「ハル姉が戻った、あの日(前編)」
あたしには、兄がいる。
名前は、安藤春樹。歳は、あたしから見て一個上の14歳。趣味はゲームで、特技は勉強と家事全般といったところだろうか。年頃の他の人と比べれば少々内向的なところはあると思うけど、その点を除けば中学2年生のどこにでもいるごくごくな平凡な普通の男の子だ。
そう、今の時点では――そうなんだろう。
だけど彼は、世間の普通の男の子とはちょっとだけ違うところがあった。それは……。
「……」
ドアの音がした。帰ってきたのだろう。
「おかえりなさい」
出迎える、というほど丁寧なわけでも無いけど階段を上がってきた兄ちゃんに声を掛ける。今日の夕飯は何を食べたいか聞きたいし、どれくらい食べるかという意味でも確認は取っておきたかった。だが、返ってきた言葉は。
「……」
いや、返ってくる言葉さえ無い。アイコンタクトさえ無い。目元ははっきりと見えなかったけど、彼の瞳には多分今日も……何も映っていない。
そう。あたしの兄ちゃんは、度を越えた無口なのだ。といってもただ無口な性格ってわけではなく。
「イサキが安かったから買って来たんだけど……焼いたほうがいい? 煮魚にしたほうが良い?」
そう、問いかけた。だけども彼は、ちらっとあたしを見るなり、何も言わずにそのまま部屋に閉じこもってしまう。さすがに無口だとしても、せめてうなづくなり首を横に振るなり何かしらの意思表示くらいはしたっていいはず。
要するに今の兄ちゃんは、人間であって人間じゃない。たぶん『感情』ってものを無くしちゃったんじゃないだろうか、ってあたしは思ってる。
「今日も……なんだね……」
何にも言葉が返ってこないって、分かっていても兄ちゃんの部屋につながるドアに問いかける。代わりに返ってくるのは、無機質なガタゴト音だけ。もちろんそれが何を意味するのかさえ、あたしには分からなかった。
過去の彼女には、そんなことは決してなかった。むしろ、無口で引っ込み思案なのはあたしのほうだった。だから、彼女が連れ出して見せてくれた外の世界はとても輝いた世界に映っていたし、その世界に溶け込んでいた彼女もまた輝いて見えていたものだ。
だけど彼女が彼に変わってからは、全てが変わってしまった。
明るく輝いていたはずの彼女は、驚くほど内気で人見知りな男の子に変わり、外に出ることを拒むようになってしまったのだ。
中学生になった今だから分かる。たぶんそれは、交通事故という恐怖の臨界点を超えるような出来事に巻き込まれて、感覚が狂ってしまったから。
当時のあたしはそれがショックで受け入れられなくて、兄ちゃんに辛く当たってしまったわけだけど、それは仕方のないことなのかもしれない。今はそう思うようにしている。
でも、だからといって内気と感情の喪失がイコールになるわけではない。
確かに、事故の後は内気になった兄ちゃんだったけど――何だかんだ言いつつあたしの面倒はよく見てくれていたし、兄ちゃんらしいことは色々やってもらっていたと思う。
だけど最近は、そういうのもめっきり。無口になったというのもそうだけど、彼の瞳には周囲の景色がまったく映っていない。
原因は、あたしも薄々勘付いては居る。
兄ちゃんは、どうやら学校で酷い嫌がらせを受けているみたいなのだ。その報告は、兄ちゃんの幼馴染みである眞子ちゃんからもたびたび聞いていたし、本当に最初の頃は彼も不平不満として口には出していた。
最初はあたしもいろいろ励ましてあげたけど、最近はそんなことさえも言わなくなって、家ではひたすら自分の部屋に籠ってばかり。
不登校では無いから、まだ心配する必要や手を出す必要は無いのかな……と素人考えで思っていたのだが。
その時だった。突然、隣の部屋からドンという衝撃とガラガラと大きな物を動かす音が聞こえた。さすがに普段とは違う音だ。何事かと思って、慌てて隣の部屋に移る。
「ちょっと、うるさいんだけど……ッ!?」
作業をするなら構わないけど、もう少し静かに出来ないのか。そう注意するつもりだった。だけど、部屋の中に広がる景色に、あたしは息をのんだ。
「何やってるの!?」
あたしは、絶叫した。そしてその後は、もう考えることさえ放棄して行動に移していた。
「えっ、何? 何これ……何なのよっ!」
視界に広がるのは、床に倒れている兄ちゃん。机の上にはある程度解けた縄。そしてその隣には――首を括るための縄の掛け方を示した図面があった。それが何を表すか――それが分からないほどあたしは愚かでは無い。
「兄ちゃん、落ち着いてよ! 何でよ? どうしてよ? 兄ちゃんがどうしてこんなッ」
落ち着くべきは、あたしのほうだった。そもそもどうして兄ちゃんが倒れているか。それはこの自殺未遂と関係があるのか。あるいは後々分かることになる彼の身体の変化と関係があるのか――そういうことをしっかり判断しないといけないのに。
だけどもあたしは、兄ちゃんの自殺未遂というある意味ショックな現場を前にただただうろたえることしか出来ず。
「兄ちゃん? しっかりしてッ!」
「う、ううっ……」
彼を抱きかかえて、何度も肩を揺する。でも彼は、ただ目が虚ろで身体が震えていて――そして、そのまま事切れたかのように意識を失ったのだ。
息はしている。でも、身体は異常なほどに熱かった。外は暑かったから、熱中症の可能性も考えられるがまずは安静にしなくてはならない。
兄ちゃんの身体を頑張って起こす。中学生女子が動かすにはあまりに熱くて重たい物体だったが、それでも同じものが冷たくなっているよりははるかにマシだ。布団に兄ちゃんを寝かして、町医者さんに往診の電話をする。混乱もあってたどたどしかったけど、すぐにお医者様が来てくれることになったようだ。
だけど、電話を終えて部屋の光景を見てから改めてあたしは言葉を失った。
首を掛けるための輪っかの描かれた図。作りかけの自殺するための縄。
――まだ心配する必要が無い? 何を言ってるんだあたし。
あと一歩遅かったら、兄ちゃんはこの世から居なくなっていたかもしれないのに。あたしの知らぬ間に、彼はここまで追い詰められていたのに。なんで家族として、兄ちゃんのことを助けてあげられなかったのだろうか。
「ふざけるな……っ」
身体を震わせつつ、縄を裁ちばさみで何度も切る。同じことが二度も繰り返されないように。もう二度と、同じことをしないですむように。だけども、そう対処をしたところで兄ちゃんがここまで追い詰められて壊れたことは――変わりなくて。
「嫌だ……こんなの、あたしにさせないでよ」
それでも、気持ちをぶつける先なんかあるわけなくて。悔しさ。悲しさ。怒り――負の感情が、時間を経るごとに増していくばかりだった。
◇
「夏風邪でしょう」
お医者さんはそう言っていた。確かに、熱は38度台まで上がっていたからそれなりにしんどそうではあるけれども。でも本当にそれだけが原因なんだろうか。かといって、ついさっきまで自殺をしようとしていましたとはとても言えるわけもなく。
頼みのお母さんも、電話をしたところ仕事ですぐには帰れないらしい。すぐに帰って欲しいと言いたいところだが、我が家の生活もあるし仕事場における彼女の立場もある。本当はあたしも泣きたくて叫びたいけど――甘えることもできない。あたしの踏ん張りどころだ。
そんな訳でエプロンを付けて、すぐに看病をしやすい態勢に整える。
暖かい布団を掛けて、定期的に氷枕を変える。衣服も寝間着に変えてあげる。今回ばかりは、うちら兄妹の身体の頑丈さが恨めしい。それでも、家庭の医学とやらを参考に見よう見まねで看病する。
「……っ、ごめん……」
高熱のせいか、兄ちゃんは時々うなされているようだ。
「大丈夫。あたしがそばにいるからね」
そう言いながら、手を握る。熱のせいか、これまでの酷い扱いのせいか――彼のうわ言は懺悔の言葉が多い。いったい彼は、誰に謝っているんだろうか。本当は、あたしがもっと早く異変に気付いてあげるべきだったのに。もっと早く、そばに居てあげるべきだったのに……。
夜になって、再び氷枕を変える。お昼よりはだいぶマシになったのだろうか。ご飯を用意したが未だに目を覚まさないから薬も飲ませられない。これ以上はあたしの方が倒れてしまうので、3時間ごとにアラームを掛けてあたしのほうも休むことにした。
次の日もおおむね状況は変わらない。これの何が夏風邪だ。どう考えてもそれ以外のところに要因があるのではないだろうかと思うけど、それでも熱が下がるまでは看病を継続するしかない。
もしかしたら間違えた看病をしているかもという恐怖と、兄ちゃんが苦しそうな表情をすることへの悲痛を味わいつつ待つこと数時間。夕方になって、朗報が二つも飛び込んできた。
一つ目は、兄ちゃんの体温が徐々に平熱に向けて下がりだしたこと。そしてもう一つは……。
「ただいま。春樹の調子は?」
「今は2階で寝かせてる」
頼みの綱であるお母さんが帰ってきたのだ。見た目がグロッキーなのはいつものことだが、少なくとも一人でいるよりはだいぶ精神的にもマシである。
「そう。秋奈あんた目元にクマ出来てるわよ?」
「そりゃそうよ、病人を見てるんだから。でも、熱が下がり始めてる。あとはご飯を食べさせて薬を飲ませれば一発だよ」
そう言いながら、土鍋の蓋をあげる。ちょうどタイミングよく、卵がゆが炊きあがっていた。
「変わろうか? 秋奈も疲れたでしょ?」
「まだ大丈夫よ。それに、薬さえ飲ませられればこっちも休めるからね。せめて、あの人が起きていればいいんだけどね」
お盆に出来たてのお粥と薬を乗せる。ついでに体温計も持って行っておくか。せめて起きてさえいれば、お薬を飲ませることが出来る。お薬さえ効きはじめればだいぶマシになるはずだ。
わずかな期待を胸に、兄ちゃんの部屋に入ると――。
「はぁ、夏風邪ってやつなのか」
幸いなことに、兄ちゃんは起きていた。
「あっ、やっと起きた! ……のかな?」
しかも、見た目は先ほどよりはだいぶ穏やかそうな。調子の良さそうな顔をしている。元気なあたしからパワーを吸ったのだろうか。おかげでこっちがやつれてしまったわけだけど、あたしの場合はちょっと休めば治るしそこまで辛くないからまあ良いのだろう。
「体調、大丈夫?」
「ああ。おかげさまで」
近寄りながら尋ねる。彼の言葉は、その表情と一致している。……はずなんだけど、ここで何だか違和感を抱く。例えていうなら、女のカンとでもいうのだろうか。雰囲気が、いつものそれとは明らかに違っていた。
「とても大丈夫そうには思えないんだけど」
どうしてなんだろう。そう思って、彼のことを注意深く見ているとひとつ気になることがあった。髪の毛が、心なしか伸びている。もちろん、注意深くずっと見ていたわけではないから確信は持てないのだけど。
「気のせいだろ」
彼はそう誤魔化す。でも、彼の身体から出る香りも心なしかいつもと違う。上手く説明できないけど、男特有のにおいがしない気がしたのだ。
「……まあ本当に元気なら、それはそれでいいや。でもね兄ちゃん、さっきまで38度の熱があったのよ?」
「38度?」
「朝、倒れてるのを見つけた時の話だけどね。正確な値は覚えてないけど、なんかうわごとも言っていたしすごい苦しそうでさ……」
朝どころか、昨日の夕方からだけど。だから、実際はまる一日というのが正解だ。もちろん昨日のショッキングな出来事を思い出させないように、昨日に関わるワードは全部伏せたのだが。
そんな問答をしていると、突然お腹が鳴る音が部屋中に響いた。
「……お腹、空いたの?」
「ああ」
卵がゆに反応したのだろうか? あたしも夕飯がまだだから、その気持ちはわかるけど……人間とは本当に欲求に正直な生き物だ。今この状況だと、それくらいでちょうどいいのだけれども。
「……気持ちは分かるけど、その前に体温だよ。さっき寝かせつけた時は38度あったの。今何度あるか、見て良い?」
もちろんご飯の前に、体温の状況を見ないと判断が出来ない。
パジャマのボタンを外して、体温計を差す。だがその瞬間、指に当たる反動に違和感を抱く。しかも今度は、何となくというものではなくどこか確信めいたものだ。
「てかさ兄ちゃん」
「なっ……何だよ」
「あ、いやさ……その……」
言葉に出かけたものの、やはり直接的な言葉を言うのは恥ずかしい。恥ずかしいというよりは、それが現実味の無いことでどう説明すればいいのかが分からなかったのだ。でもこの感触は、一年前のあたしにも確かに降りかかったもの。
だからそれは、あたしのなかではもう疑惑でなく確信に近づいたものだった。
「すまん、今のは出来心というかその驚いて一瞬考えただけで……」
「考えた? いや、そうじゃなくてさ……」
それでも、どうすべきか分からず声が震える。だが、喉まで出かかったものを今さら引っ込めるわけにもいかず。
「なんで兄ちゃんの胸……ふくらんでいるの?」
あたしだって思わなかったのだ。まさか兄ちゃんが、高熱の果てに――女の子になっていただなんて。
読んでいただきましてありがとうございます。
このお話は、春樹が春奈に生まれ変わった日の出来事を秋奈の視点からみたお話になっています。
前後編の前編ということで、春樹が女になっていることを自覚するところまでで区切っています。本編第2話でもそれとなく触れてはいますが、春樹視点だとおぼろげな記憶なのに対し秋奈視点ではかなり生々しく見えることと思います。
次回となる後編では、秋奈の視点だけでなく母親の視点も織り込んだお話になる予定です。




